とりさん的小説考 〜その1


 サイト建設から一年経って、なんとなくコンテンツも整ってきました。文章書きにもちょっと慣れてきたかな、と思います。
 ここでは、私の小説に対する考えとか思いとかを、徒然なるままに書いてみようかと思います。僕が小説を書くときの手順というか、手法にも触れますが、間違っても小説書き方講座ではありません。そんなものを書けるようなヤカラではないです。まあ、私なりの素人手法を、ちょっとネタばらししてみたくなったというところでしょうか。

 さて、小説を書くには、最初に何が必要だと思いますか? 私の場合は、「主題」です。
 学校で文学作品を読み解くとき、「この作品の主題は何ですか?」なんて聞かれませんでしたか?
 何、エロ小説に主題なんているのかよ? というあなたは、「主題」という言葉を大げさにとらえているのかも知れません。「少年陵辱のエロティシズム」だって立派な主題なんですよ。児童文学作品みたいに「友情と信頼の尊さ」なんかがテーマにならないっていうだけのことです。
 今回は、この「主題」を通して、私の創作のスタンスについて語ってみたいと思います。
 小説には、大きく二つの路線があるように思います。芸術路線とエンターテイメント路線です。
 芸術の目的とすることは、「美と真実の追究」です。過去あらゆる芸術家、文学者、音楽家、画家などが、これぞ究極の美、これこそ人間の真実の姿、というものを追求してきました。
 一方エンターテイメントは、受け手を楽しませることが、至上命題です。全くのナンセンスであっても何のメッセージもなくてもいいわけです。「楽しければ、面白ければ」いいわけです。
 お気づきの方もおられるでしょうが、小説を始めこの世に生み出される創作物は、全てこの両面を兼ね備えています。どちらに重きを置いているかが大きな違いなのです。いわゆる純文学はテーマの追求を軸として、読み手を感動させたり引きつけるエンターテイメント性は後から来るのですが、エンターテイメント性が全く黙殺されているものはおそらく誰にも認められません。夏目漱石だとか太宰治だとか巨匠の作品でも、傑作と言われているものはやっぱり面白いですね。美とエンターテイメントの追求が両立しているのです。
 エンターテイメントが軸になっているものを、純文学に対して戯作文学と言います。この手の作品で、僕の中での傑作は「三国志(演義)」ですかね。血沸き肉踊る冒険と戦い、知謀のぶつかり合いが読者を興奮のるつぼに巻き込みますが、そうしたエンターテイメントの裏に、戦う男の美、とか、人間の歴史の無常とかいうテーマもしっかり押さえられていて、そのことがこの作品を格調高い極上のエンターテイメントに仕上げているのですね。
 いわゆるフ○ンス書院のポルノ小説などが、無尽蔵に生み出されてなんの印象も残さず消えていくのは、それらの作品になんのテーマ性もないから、あるいは、新味のない同じテーマを何百回も扱っているから、ということになりましょう。

 こうした認識の上に、私がどんなものを書きたかったかというと、「ほとんどエンターテイメント、ほんのちょっと爪の先ほどテーマ性(芸術性)」というものです。
 同人誌なんかを見ていると、単にエロいものならたくさんあふれていそうです。ショタという狭いサブカルチャーに、こんなにたくさん創作物があふれているのかと最初は驚きましたが。他の人がやってくれそうなことをやっても仕方がありません。私は私なりのテーマを設定し、他の人が書かない、それでいて私が読みたいようなものを書こうと考えました。しかし、テーマを追求するからと言って、くそまじめに考え込むようなものを書くつもりはさらさらありませんでした。それ自体、私が読みたいものとは違いましたから。私が読みたい、あるいは書きたいのは、「萌えるエロ小説なんだけど、同じようなものがどこにもないようなちょっと個性的な作品」だったわけです。
 そこで、私がこの世界で求めていながら、あまり見かけない要素「リアル」を、テーマの共通項として、一つ据えてみることにしました。そこで、「リアル」ってどいいうこと? 「リアル」だとどんなプラスが、あるいはマイナスが生まれるの? といった疑問が生まれてきます。次回はそのことを「主題」にして蘊蓄をたれたいと思います。

2001/08/25記す