とりさん的小説考 〜その2
最初から二編以上で構成しようと思って書き出していながら、三年近くも間が空いてしまいました。デフォルトの文体もずいぶん変わってしまっています。前回の原稿を見ながら、できるだけ文体も当時に近づけて書いてみたいと思います。 さて、「リアル」とは何でしょう。直訳すれば「現実」。小説の場合、現実的である。非常にありそうに感じられる。という感じでしょうか。リアルさを追求することによって、作品には一種の迫力が生まれ、読み手が、感情移入しやすいと思います。それを読んでる間だけ、ダークな世界で主人公になりきれる。それが「リアル」を追求することの狙いだと言えます。 ただし、「リアル」を追求することで失われるものもあります。とにかくリアルであればよい、というわけにはいかないのです。あまりに突飛な展開や、とても実際にはできない行為、現実離れした超人を登場させることもできません。ご都合主義的になんでもかんでもSEXに持っていくわけにもいきません(笑)。つまり、「リアル」を追求することは、同時に作品に多くの制約を与えることにもなるわけです。 また一方で、リアルだからと言って何でも面白いかと言ったらそうはいきません。ありがちで誰もが経験できるような中身なら、わざわざ小説にする意味がありません。「僕は小6で初めてエロ本を見てオナニーしました」ぐらいでは、書く意味がないわけです。 ここに、一つの葛藤が生まれます。「いかに、(少年愛者にとって)素晴らしい夢の世界を描くか」と「いかに現実感を出すか」です。現実感のシバリの中で、夢を描く。これが私の創作のスタンスです。 さて、では「リアル」であるために必要なことは何か。実際に体験したことをそのまま描けば、それはリアルになるでしょうが、面白くありません(面白い体験談もありますが)。小説である以上、人物と物語を、創造しなくてはなりません。 まず、人物創造ですが、私の場合、少年キャラでは、実際に出会った少年をモデルにしています。ある一人の子をデフォルメしたり、複数の少年のいくつかの部分を組み合わせたり、です。少年キャラに深みが出るためには、やはり実生活で少年をよく知ることでしょう。出会いの機会も大事ですが、人間に興味を持ち、時にはやはり、愛することでしょう。誰しも、自分が愛した少年をモデルにすれば、きっとリアルで深みのあるキャラクターが創造できると思います。 大人のキャラは、私自身がモデルです。無論、私は「狂人日記」の主人公のように男の子を殺したことはありませんし(笑)、「土曜の夜……」の椎名のように美青年でもありません。が、精神の大切な部分が、私自身と重なっているのです。ベースに生身の人間がいるからこそ、とんでもない行動をとるかに思えるキャラに、命が吹き込まれるのだと思います。 他のいろいろな人物を創造するにしても、ベースは普段の人間への関心、観察眼でしょう。仕事柄、こういう生い立ちの子にはこういうパーソナリティが育つ。というのを見届ける機会にも恵まれてきました。 私の場合、ここまでで八割です。いや、九割かな。物語は、登場人物達が勝手に作ってくれるものとでもいいましょうか。そもそも、私の作品、ストーリーだけ書いたらありきたりだったり、どこといってたいしたこともない作品ばかりだと思います。自分なりにストーリーに妙味があると思っているのは「ボクの告白」ぐらいでしょうか。個人的に、着想やプロットの妙は、情報量から生まれてくると思っています。小説であれ、映画であれ、ゲームであれ、「ストーリー」と名の付くものにたくさん触れていれば、それだけアイデアの引き出しは増えます。完全なオリジナルなんてこの世に存在しません。オリジナルは模倣の組み合わせから無限に生まれるのです。 これから小説を書こうという人は、様々なことに好奇心を持ちましょう。ことに人間に、です。そして、ありとあらゆるメディアに触れましょう。小説、映画、漫画、ゲーム、TV……私感ですが、この中で、一番情報ソースとして低レベルなのはTVです。そして、いざ、書くなら「無理をしない」。これに尽きます。書けもしない人間を書き、触れたことのない世界を描く。こういう小説が読んでて体がかゆくなるってもんです。私の小説には女性がほとんど出てきません。知らないからです。知らない世界の人間は、登場させるにしても、深入りしないようにします。勝手な想像で書くと、とても恥ずかしい文章になります。ストーリーにしても、同じことが言えるでしょうね。知識が不足しているのを実感したら、まずは取材してから書くべきでしょう。 偉そうにこんな文章を書き散らした私ですが、本当に狭い空間で作品を書いています。無理をして恥ずかしい作品を書きたくないからですね。これから、少しでも作品の幅を広げるなら、やっぱり自分にも「取材」する姿勢が必要なのかな、と思っています。でもね、みなさんも振り返って見てください。人間誰しも二十年以上も生きていれば、けっこう広大な精神世界を持っているもんで、長編小説一本分ぐらいのキャパシティはきっとあるものと思います。 2004/03/03 記す |