なおも付き添おうとする彼を部屋の前で下がらせて、オレは一人でそこに入った。毎日毎日、一日中、嫌というほど他人に囲まれているのだ。オレの世話こそが仕事である付き人の彼には悪いが、一日の最後くらいは一人になりたい。  今宵の宿は、その彼がいつものように前もって取ってくれたニューヨーク郊外のホテルだ。今日の決闘が行われたスタジアムから然程離れていないが、熱狂的ファンに嗅ぎ付けられるほど近くもない。部屋は、その最上階にあった。  ドアを開けると、見覚えのある内装が目に入った。このホテルに泊まるのは、何も今日が初めてではない。あのスタジアムで決闘を行った時はここに宿を取るのが、既に暗黙の了解となっている。足を踏み入れた今日の部屋は、やはり以前泊まった部屋とほとんど同じ作りだった。クリーム色で統一された、目に優しい色彩。セミダブルサイズと思しきベッドが置かれても息苦しさを感じさせない、広々とした室内。ベッドの向かい側には、液晶テレビを乗せたサイドデスクがある。窓辺には、小さな丸テーブルとそれを挟む二つの椅子がこじんまりと置かれていた。  悪くない。誰もいない室内に、オレはほっと一息つく。今日のスケジュールはすべて消化された。後はもう完全に一人の時間だ。明日の朝八時には部屋を出なければならないが、それまではプロ決闘者として気を張り詰めることはない。ただの万丈目準でいい。プロの世界でもトレードマークとなっている黒コートを、オレはクローゼットの中にしまった。  シャワーを浴びる前に、サイドデスクの上にあったノートPCを開ける。部屋の隅に積まれている荷物と同様に、付き人の彼があらかじめ運び込んでくれたものだ。  一日の終わりに、オレは大抵メールチェックを行う。といっても今夜チェックするのは、 個人的な、ごく親しい友人しか知らないメールアドレスだけだ。ファン向けに公開しているメールアドレスに届くメールは量が膨大なため、主に休日にまとめて目を通すことにしている。  新着メール、四件。  その中に三沢からのメールが届いていた。受信時間から察するに今日の決闘が終わってすぐに書いてくれたのであろうそれを開くと、内容はやはりオレの勝利を祝う言葉と決闘内容を賛辞するものだった。やや過剰なそれらにくすぐったい気持ちになりながら、オレはキーボードを叩き始めた。社会に出た今でも彼との親交がこうして途切れないのは、ひとえに相手の筆まめさのおかげといってもよい。アカデミア入学時はプロを志望していた彼は悩んだ末に教鞭を取る道を選び、日本本土の大学へ進学した。プロ決闘者のオレはアメリカに生活の場を移したため、卒業してから顔を会わせたことは数えるほどしかない。その分、メールでのやりとりが当時に比べて増えている。携帯ではなくPCを使うようになったのは、それがお互いの生活のリズムに合っているからだろう。彼とはアカデミア時代に色々あったが、今では良き友人だと――少なくともオレはそう思っている。  三沢に礼と簡単な近況報告を認めたメールを送信してから、ふと思い立ってブラウザを起動させた。まずニュースサイトが開かれるが、そのトップの短い記事が伝えてくれるのは人気・実力ともにトップレベルの決闘者の勝敗だけだ。  エド、勝利。  ヘルカイザー、勝利。  全く危うげがない。今日も今日とて好調なライバルたちに闘争心が煽られるのを感じながら、記事全文へのリンクをクリックする。今日の全決闘の結果が表示された。  天上院くんは女流決闘者の星として順調に勝ち進んでいるようだ。剣山はプロ二年目の壁にぶつかっているようだが、底力のある彼のこと、すぐに以前の調子を取り戻すだろう。  学び舎を共にした仲間たちの様子をつい確認したくなったのは、三沢からのメールを目にしたからだろうか。  ちなみに翔はというと、今もプロ契約を目指して頑張っているらしい。ジムは考古学を究めるために大学院へ進学、アモンはガラム財閥の当主が成人するまでの補佐役に収まり、オブライエンはまた以前の傭兵稼業に戻ったそうだ。留学生の面々は、ヨハン含め、結局誰もプロの道へ進まなかったことになる。  アカデミアを卒業してから、それぞれが別の人生を歩んでいるのだ。異なる場所に身を置き、目まぐるしい現実を生きている。同じ屋根の下で暮らし、同じ授業を受けていたあの頃とは、大切なもの守りたいものが違ってしまった奴もいるかもしれない。それは仕方の無いことだ。オレにも多少の変化はあった。永遠などありはしない。人は変わりゆく。……ただ二人の例外を除いては。  ノートPCの電源を落として、バスルームへ向かう。  脱衣所で生まれたままの姿になると、あの頃よりは逞しくなった、しかし同年代と比べればやはり貧相な肉体が鏡に映った。かつてさんざん弄ばれたこの身体に、触れる者がいなくなって久しい。一人で夜を過ごすことにも慣れた。慣れるしかなかった。  白いタイルが敷き詰められた、一人用にしては広いバスルームでシャワーの栓を捻った。  シャワーから降り注ぐ湯を一身に受けながら、目蓋を閉じる。そうして身を委ねていると、身体の表面に滲む疲れだけでなく、心に深く沈んだ澱みまでもが優しく洗い流されていくようだった。  真っ暗な視界で、オレは今日の一つ一つを思い浮かべる。  四方からオレを照らす、スタジアムの眩いライト。スタジアムを揺るがすほどの『万丈目サンダー』コール。デッキを念入りにシャッフルする最中にも、それは鳴り止まない。オレの前に現れたランキング七位の決闘者は、『VtoZ-ドラゴン・カタパルト・キャノン』に呆気なく打ち倒される。決闘場を去っていくオレの背中を送るのは、やはり『万丈目サンダー』の大歓声だ。控え室へ戻る通路では大勢のマスコミが待ち構えていて、マイクとフラッシュとカメラとがいつまでもオレに食らいつく。  ――華やかなプロの舞台。  エド・フェニックスやヘルカイザーが戦うフィールドに、オレが遅れて参戦したのは三年前のことだ。オレは同時期にプロ入りした連中を背に置いて、早々とランキング上位への仲間入りを果たし、今やプロリーグのトップを前述した二名と争っている。マスコミは群雄割拠の時代と囃し立て、取材の申し込みは留まることを知らない。  何もかもが予定通りだ。  少々の躓きや読み違えはあったが、すべて修正可能な範囲だった。  それはそうだろう。  今は過ぎ去った――思い出という型に流し込んで普段は顧みもしないあの日々にぶつかった唯一の壁に比べれば、どれも易しく、軽々と飛び越えられるものだった。  遊城十代に比べれば。  身体と心の汚れを洗い流し、程よく温まった身体を白のバスローブに包む。濡れ髪をタオルで拭きながら、バスルームを出ると。  誰もいなかったはずの部屋に、人の気配がした。覚えのある、決して違えはしないその気配にオレの胸がどくんと大きく鳴る。  窓辺に、こちらに背を向けて立つ一人の男がいた。やはり、彼だった。カーテンを僅かに引いて、窓の外の大摩天楼を見下ろしている。  少し先が跳ねた栗色の髪。オレより低いままの背丈。かつては飽きるほど毎日見てきたのに、今はただただ懐かしい、アカデミアの制服。色は落ちこぼれの赤だ。 「相変わらずいいとこ泊まってんなぁ、万丈目ぇ」   あの頃と一つも変わらない、オレを呼び捨てにする、その声。 「…………」  オレは誰の入室も許した覚えはない。つまり、彼は不法侵入だ。だがオレは外の廊下で待機しているであろうSPたちを呼ぶことはせず、ゆっくりと彼に歩み寄った。  その懐かしい背中に走って抱きつきたいと、喉の奥で暴れ回るものを懸命に抑えながら、本当にゆっくりと。 「どうしてそうお前は唐突なんだ――十代」  できるだけ平静を装って、この世の誰よりも愛しい、長いこと胸の中だけで繰り返し呼んできた名前を、オレは震えるような思いで口にした。  十代がこうしてオレの下を突然訪ねてくるのは、初めてではない。オレの宿泊場所をどうやって嗅ぎつけているのか、そもそも今日だって何処から入ったのか。謎だらけだが、この常識外れをいちいち問い詰めていても疲れるだけだ。  多忙なオレにアポを取ることもせず、常に前触れもなく十代はやってくる。それでもオレが空いている時間を奇跡のように選んでくるから、不思議だ。たとえばこの時間、昨日だったらスポンサーとの食事が入っている。  前回は粉雪を頭に散らしながら入ってきたから、もう半年前になるだろうか。凍えている彼をバスルームへ押し込んだはいいが、オレまで服のままバスタブへ引っ張り込まれ――その先は、まあ、多くを語る必要はないだろう。 「なーんか急にお前の顔が見たくなってさぁ」  くるりと振り返った笑顔も、やはりあの頃のままだ。  いっそう高鳴る胸と頬に差したであろう朱を悟られたくなくて、オレはそっぽを向く。そんなありきたりな台詞に、気分をよくすると思ったら大間違いだ。 「まったく、お前はメールも電話もよこさないくせに、これだ」 「あ、携帯なくした」 「何っ!」  オレにとってみれば重大な過失事項なのだが、奴は飄々としたものだった。 「なんであいつら、オレの携帯アドとか知ってるんだろーなー。鬱陶しいから、なくした」 「…………」  十代の表情が珍しく表情が曇る。彼の言う『あいつら』が誰を指すのか、オレには容易に察しがついた。オレもついさっきまで集られていた、ハイエナのような連中に違いない。奴らの遠慮のない傍若無人さにはほとほと嫌気が差してきているのだが、オレはこれも仕事のうち、いわば有名税みたいなものだと割り切ることができる。だが、十代は。アマチュアであり、こちら側に来る気もない十代は。  ――オレは、窓辺の椅子に腰を下ろす。窓の外には中心街には及ばないものの、光が洪水のように溢れていた。今や見慣れたニューヨークの夜だ。 「ヨハンはどうした」  これはもちろん、ヨハンは一緒ではないのか、という意味ではなく、ヨハンを放っておいていいのか、という意味である。お前にとって大事な片割れであるヨハンを一人にしていいのか、と。 「ヨハン? あいつ、ここニ三日は家族サービスしたいんだってさ」 「はっ?」  ヨハンを含むオレたちに精霊が見えなくなって久しい。あの異世界での戦いがオレたちにもたらしたものは、精霊との別れだった。それは精霊を無邪気に信じる心との別れでもあったのかもしれない。――ともかく宝玉獣と家族のような絆で結ばれていたヨハンも、今はその姿を見ることは叶わないはずだ。 「言ってなかったっけ? あいつ結婚したんだよ」 「……初耳だ」  流石に驚きを隠せないオレの前で、十代は椅子を引いて、そこに座る。  そうか、あいつは降りたのか。  十代との永遠の旅から降りて、現実に足をつけて明日へ、そのまた明日へ、歩むことを始めたのか。 「アイツがそんなことになるなんて、全ッッ然想像してなかったぜー、オレ」 「まったくだ」  奴は十代と永遠を共にするものだと思ってた。現に、十代はヨハンを選び、ヨハンは十代を選び、朝焼けの海へボートを出して、オレなど入り込めない世界へ行ってしまったではないか。  だがこうして報告を受けて思い返してみれば、確かにヨハンには十代と違って、この世に生きる限り出来る影のようなものがあった。十代に負けず劣らず非現実的な存在だったが、いつまでも永遠にたゆたっているほど現実離れはしていなかったらしい。  決して十代が悪い、ヨハンが正しい、というわけではなく。それぞれに生き方があるということだ。オレがプロ決闘者の道を選んで、三沢やアモンたちがそうではない道を選んだように。  しかし、ならば今のこいつは一人なのだろうか。ふとそんな疑問が湧いたオレの前に、十代が悪戯っぽい笑顔で身を乗り出してきた。 「万丈目は? そういう予定あるのか?」 「ないな。オレは一人が気楽でいい」  お前はいまだに知らない。オレがどんなにお前を愛しているか。素っ気無いふりをする顔の裏側で、オレがどんなにお前を求めているか。知らないから、そんな質問を何の気もなしに投げかけられるのだ。どんなに精神を削られることになろうとも、お前となら、この世の果てまでも。そう、苦しいほどにそればかりを願ってきた。 「お前こそ、さっさと落ち着いたらどうなんだ」  オレの軽口に、十代は苦笑いする。 「ガラじゃねえよ」  確かにマイホームパパをやっている十代など、想像がつかない。子供と戯れるだけならまだしも、定職について、毎日同じ家で行ってきますとただいまを言う十代――ありえないな。今更たった一人の人間に寄り付くような奴なら、オレもヨハンも、誰も苦労はしなかった。 「オレはたまにお前のところに帰ってこれれば、それでいいさ」  妙にしんみりした声。十代の心にも、ヨハンを失った今は寂寞としたものが広がっているのだろうか。それでも彼の心は、現実の潮流に身を預けることをよしとしないに違いなかった。  腰をやや浮かせた十代の手が小さなテーブルを超えて、オレのバスローブの下、まだ湿り気のある胸元へ伸びてくる。その手を払いのけることはせず、頬のラインを辿ってくるもう片方の手もそのままに、オレは大人しく瞳を閉じた。    久方ぶりに唇に落とされたキスに酔いながら、思う。  昔のオレなら、今の十代の言葉に癇癪を起こし、手を跳ね除けていたかもしれない。オレはお前の都合のいい存在ではない――目尻に涙を浮かべて、そう激昂していたかもしれない。  お前にとって、オレはなんなのだ。オレは、お前の肉欲をただ満たすだけの存在だというのか。  あの頃は名前のない関係に苛立ってばかりだったが、今なら分かる。お前にも愛のようなものはあって、お前なりにオレへ注いでいるつもりだったんだろう。オレが求める愛とはあまりにも形や色が違い過ぎて、あの頃はそれが分からなかった。安心できなかった。つまりは、オレたちはいびつだったのだ。  お互いの心のでこぼこを埋めるように人は人を求めるもの――それは結果論に過ぎない。尽力してみても、でこぼこが埋まらない他人は山程いる。ジグソーパズルだって、合わないものを無理にはめようとすればピースを傷めてしまう。  お前の手が最後に選んだのは、ヨハンだった。まさにでこぼこが、ぴたりとはまる存在の。オレではなく。  そしてお前がヨハンを選んだ一方で、オレはプロの道を選んだ。  もはや、がむしゃらになれたあの頃に時の振り子が戻ることはない。今のオレにはプロの責任がある。本心がどんなに望もうと、すべてを投げ打って十代についていくことはできない。  二人の道は、別たれたのだ。  共に生きていくことも、さりとて完全に断ち切ることもできないのなら、どこかで妥協点を見つけて、自分の激情をなんとか飼い慣らし、納得していくしかないのだ。  何ものも、十代を縛ることはできない。あのヨハンにすら、結局はできなかったのだろう。ヨハンがいかほどの苦渋をもって、十代との永遠から降りたか。十代を挟んで、誰よりも遠く誰よりも近かったヨハンの気持ちが、オレには分かるような気がした。  彷徨い続けるお前の帰る場所がオレだと言うのなら、一時でもオレを抱き、オレの横で眠ってくれるのなら、それでいい。もう、それだけでいい。一つの諦めと共に、オレはようやっと、気が狂わずにすむ道を見つけたのだ。 「お前の肌はいいよなー。白くって、こう、吸い付くような感じでさ」  うっとりと、十代はオレの裸の胸に指を這わせる。その指で、どれだけのカードを引き、どれだけの肌を鳴かせたのやら。  だが、他の誰と何があろうと、もう構わない。ヨハンに抱かれていようと、エドやヘルカイザーを抱いていようと、些末なことだ。オレには、今この瞬間に与えられる、その指がすべてだ。その指さえあれば、オレは満たされる。生きていける。  窓辺からベッドに場所を移すと、十代はオレのバスローブを剥ぎ取って、すっかり裸にしてしまった。少しの肌寒さと内から湧き上がる期待感に震えるオレをよそに、十代はやたら余裕たっぷりに自分の服を脱いでいった。襟首からゆっくりと頭を抜く、その何気ない所作までもが憎らしい。オレはこんなにもお前に追い詰められているのに。  同じように裸になった十代が、ベッドをぎしぎしと軋ませながら近づく。 「でもちっと痩せた?」  お前が一人にするからじゃないか――?  そんな冗談とも本音ともつかない悪態をつきたくなったが、そこは堪えて、プロの苛酷な決闘は肉体をも蝕むのだと言っておいた。これは本当だ。ヘルカイザーは一時期病魔に蝕まれたことがあるし、身体を壊してプロをやめていった決闘者は何人もいる。 「っ……ふ、ああっ……!」  オレのいいところを知り尽くした十代の愛撫で、快感のボルテージはあっという間に上がっていく。首筋や耳たぶは、舌と歯とで丹念に嬲られた。胸の飾りは、指で好きなように弄られた。どれもが、オレの理性を呆気なく、夜の闇へ溶かしていく。  中心部を温かな口腔に包まれ、一度達してしまったオレはぜぇぜぇと荒い息をついていた。せっかくシャワーを浴びたのに、身体中がまたじんわりと汗ばんでいる。 「背中、こっち向けて」 「ん……」  力の入らない身体を、十代の手に助けられながらこてんと転がす。そのままオレは腰だけを高く上げた。彼の侵入を待ち侘びているそこを、無意識のうちに。 「万丈目ってほんとスキだよなぁ」  背後の十代が、くすっと笑った。顔は直接見えなくても、気配で分かった。 「な、何……?」 「オレ、ここまでお願いした覚えはないぜ」 「――――っ!」  さっと朱が走る。 「ま、オレはうれしーけどな」 「やぁっ……!」  愛しげに尻肉を撫でられ、奥まった場所へ唇が寄せられる。入り口が、十代の舌のくすぐるような動きにひくつき、もっともっと、と淫らに蠢いているのが分かる。それは、オレの心の動きでもあったからだ。 「十代、も、もう――」 「もう欲しい?」  直接口にするのは悔しかったが、こうなると十代はオレが言わない限り事を進めてくれないのだ。オレが卑猥なおねだりをするのを、奴はいつだって楽しんでいる。そして十代に、何より十代から与えられる快楽に、逆らえない自分がいるのだ。 「お願い、入れ……て」 「――可愛いぜ、万丈目」 「あっ――!」  異物を押し出そうとする肉の抵抗に逆らって、狭いそこへ強引にすべてを収めると、十代はふう、と満足げに息をついた。無理に抉じ開けられたそこから広がる痛みに、オレは頭がおかしくなりそうだったが。 「……他の奴には使わせてなかった?」 「あっ、当たり前だっ……!」  オレは息も絶え絶えに答える。誰がお前以外になど。 「ん、いい子だな、万丈目」 「ひぁっ――――!」  激しい痛みに萎えかけていたそれが、十代の手で扱かれ始める。にちゃにちゃと粘り気のある音が、耳に絡みつく。  と同時に後ろに入ったものが、乱暴なほどの勢いをもって動き出した。  苦しい。痛い。  だがオレの中に広がっていくのはそんなものより、途方も無い快感、そして満足だった。オレは、ずっとこれを待っていた。お前の熱が、オレの中にある。オレを求めて、唸りを上げている。ずっとずっと、これが欲しくてたまらなかった。 「あぅ、あ、ああっ、んっ!」  十代の激しい動きに合わせて、喘ぎが口から零れてしまう。 「あぁっ、十代、十代、じゅうだっ……!!」  声の限りに、十代の名前を呼ぶ。  お前を、お前を、愛している。だがオレたちの間に、その言葉が降りることはないだろう。お前は永遠にそれを言わない。だからオレも言う気はない。お前に翻弄され続けている人間の一番底に残った、薄っぺらい意地だ。  そのかわりに、お前の名前を何度も何度も呼び続ける。胸に溢れてやまない、想いの分だけ。  ――お前を愛している。    アカデミアの卒業式まで、二ヶ月を切った頃だったか。  いつにない激しさでお前がオレを抱いた夜――その翌朝だ。  お前が、オレを置いていったのは。  ベッドから消えたお前を探して朝もやの中へ飛び出したオレが、同じように胸騒ぎがしたのか外へ出てきていた翔や剣山、天上院くんと崖の上から見たものは、消えていく十代だった。ヨハンと二人、ボートで水平線の向こうへ消えていく十代の姿だった。  十代がいなくなってしまう。  目の前で起きていることを認識しながら、オレは泣くことも行かないでくれと叫ぶこともできず、ただ拳を震わせているだけだった。誰も、十代を止めることはできない。何ものも、十代の抑止力にはならない。それを、オレはいやというほど知っていたからだ。  輝かしいはずの夜明けの光が、あんなに残酷に見えたのは初めてだった。十代とヨハンの門出は、オレにはこの上ない悲しみの始まりに他ならなかった。  そしてお前に馬鹿みたいに囚われ続けた、三年間の終わりでもあった。  オレからすべてを奪ったお前を倒すために、血反吐を吐くような思いをしてアカデミアへ戻ったのは、まだ一年の時。  二年へ進級して、栄光のブルー寮へ戻れるチャンスが巡ってきても、アカデミアの最下層であるレッド寮に残ってまずい飯を食べ続けた。お前がいるから。  お前が行くならオレも行く――そう叫んで、三年目はどことも知れぬ異世界だって行った。お前の瞳がオレを映していなくても、ヨハンしか見えていなくても。  オレの思いに返ってくるものなど、お前の中に何一つ存在しないことはとっくのとうに分かっていた。それでもお前の傍にいたかった、お前と共に歩きたかった、お前の姿をこの目に捉えていたかった。  好きだから、好きだから、好きだから。  ああ、だのに、お前はオレを置いて、行ってしまった。  ヨハン・アンデルセンと。  オレのものにならぬのならいっそ姿が見えない方が清々するさと心のうちで強がってみても、深層意識はお前の夢を何度も何度も繰り返した。水平線の向こうへ消えていくお前の背中を目蓋の裏に見ては、頬を伝った涙が枕を濡らした。悲しみに焼き切れそうな夜は、三沢に縋ってしまったこともあった。  お前がいないという現実がオレの中にようやく馴染み出した頃、アカデミア卒業の日がやってきた。オレは半年前から決められていた通りにプロになり、卒業と同時に単身アメリカへ渡った。  ――プロの壁など、実際、どれも大したことはなかった。  遊城十代に敗れたこと、遊城十代がオレを見ることはないと悟ったこと、そして遊城十代に去られたことに比べれば。  十代の中の獣が満腹になるまで、オレは何度も何度も食い荒らされた。最後の方は何をされていたのかもあやふやで、絶頂と共にオレの意識は途切れている。そんな風にして、昨晩は終わった。  程なくして部屋へ差し込んできた光に耐えられなくなって、重たい目蓋を億劫な気分で持ち上げる。  もう朝が来てしまったようだ。  睡眠時間は明らかに足りていないが、起きなくてはならない。今朝は確か九時から雑誌のインタビューが入っているはずだ。  その前に安らかな寝息を立てているであろう我がままな獣にキスがしたくなって、広いベッドをまだ覚醒しきっていない頭でまさぐる。  そこで、気付いた。  十代がいない。  あの朝と同じように、十代がいなくなっていた。  瞬時にして目が覚めた頭に襲ってきたのは、驚きより悲しみだった。オレはどこかで、この結末を覚悟していたのだろう。十代が水平線の向こうへ消えた朝から、彼が目の前に現れても、オレは常に奴がいなくなるビジョンを思い描いていた。  いつもそうだ。  いつもお前は何の相談もなく、オレを置いて何処かへ行ってしまう。 「――ッ……十代っ……!」  勝手に滲んできた涙を枕に滲ませて、オレがその名を呼ぶと。 「んぁ?」  なんと、返事がした。  それも全く予想外の場所から。  弾かれたように上半身を起こすと、奴は窓辺のテーブルに向かって座っていた。きょとんとした顔だけを、こちらに向けている。  聞かれた。今のを聞かれてしまった。いないものと思って、つい漏らしてしまった本心を。 「どした、万丈目? 呼んだか?」 「う、うるさいっ、うるさいうるさいうるさい、お前なんかどこにでも行けーーーっ!!」  かぁーっと頭に血が上って、手元の枕を力任せに放り投げる。朝の光の中に、無数の埃がもうもうと舞うのが見えた。 「なんだよー、オレ飯食ってんだからやめろよー」 「なっ……!!」  しかも十代は朝食を取っていた。オレが寝ている間にフロントから運ばれてきたのだろうか、テーブルに行儀よく並ぶそれらを食していた。よい香りを立てるバターロールに、生ハムが添えられたサラダに、アメリカらしいビッグサイズのウィンナーに、ほかほかと湯気を立てるコーヒー。 「それはオレの朝食だーーっ!!」  ベッドから降りて、オレはずかずかと十代に歩み寄る。 「だってお前起きないしさぁ」 「だからといって勝手に食う奴があるかっ!!」 「もー、お前金持ちなんだからケチケチすんなよ。もう一人分頼めばいいだろ?」 「――いいっ」  どうせ朝はあまり食欲がない。断りもなく手をつけられたことには腹が立ったが、わざわざもう一人分頼むのも面倒だ。十代に全部奪われる前に、一つ二つ食えればいい。  オレは十代の向かい側に座ってから、腰を軽く後方へ捻ってリモコンでテレビをつける。この時間なら、まだ朝のニュースをやっているはずだ。  画面に映ったのは予想通り天気予報で、女性キャスターが慣れた様子で前線の動きだとか降水確率だとかを告げている。オレはそのまま顔だけテレビへ向けて、サラダのレタスを口に運んだ。どうやら今日は、午後から雨になるらしい。  次に飛び込んできたのは、無駄に胸を強調した若い女性アナウンサーと、センスの悪いCGだ。アメリカのニュースでは大抵、天気予報、決闘、スポーツの順番と相場が決まっている。 『――昨夜飛び込んできた電撃ニュースです。決闘プロリーグに、あのヨハン・アンデルセンが参戦することになりました』 「なっ――!」  どうせ第一報は昨日の結果だろうと聞き流していたオレの耳に入ってきた女性アナウンサーの声は、信じ難いものだった。思わず腰を浮かしかける。 『かつてヨーロッパジュニア大会で優勝し、アークティック校チャンピオンとしてデュエルアカデミアへ留学してから消息を絶っていたヨハン・アンデルセンでしたが、この度――』  テレビの中で、記者会見に現れた人物は確かにあのヨハン・アンデルセンだった。似合わないサングラスをかけて白のジャケットを羽織ったその姿は、記憶の中の彼よりずっと精悍になっていたが、間違いなくヨハンだ。そして右薬指には結婚指輪が輝いている。オレと十代には永劫に輝くことのないであろう、唯一絶対の絆が。 「十代、お前知っていたな――」  いくつものマイクに取り囲まれても物怖じせず、イングリッシュですらすらと質問に答えるヨハンの声がテレビから流れてくるが、オレはそれに耳に傾けるより背後の十代に向き直った。  が、十代はいなかった。  朝日が零れるテーブルに並ぶパンやサラダはそのままなのに、十代だけが忽然と消えていた。この部屋に来た時と同じように、ドアや窓が開いた気配もなく、足音一つ立てることなく。本当に、煙のように消えてしまったのだ。 「あいつ……」  オレは苦笑して、すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつける。  十代は十代の道に帰ったのだろう。  ヨハンがこちら側へやってきたということは、十代は本当に一人になってしまったということだ。だがそれでも、決闘がある限り奴は真に孤独ではない。なら、オレも昨日の続きである今日を、いつも通りオレらしく歩むだけだ。  テレビでは、まだヨハンへのインタビューが続いていた。  マスコミは新たに登場したニューヒーローに色めき立っている。しばらくは新聞もテレビもヨハン一色になることだろう。  世の中は常に新しい話題を、ヒーローを求めているのだ。  ネット上では、いまだに遊城十代待望論が絶えない。十代はヨハンのように、過去アマチュアの大会で優勝したことがあるわけではない。町中の小さな大会にすら、顔を出したことはないらしい。だがアカデミアで残した伝説的業績が、ネット上で実しやかに語られているのだ。それに加えて在籍中にアカデミアを出て行ったこと、世界中の国で決闘が目撃されていること、だが公の場には依然として姿を現さないこと――。いるのかいないのか、幻のような存在になっていることが、ますます十代への期待に拍車をかけている。エド、ヘルカイザー、サンダーが覇を競う中にあの遊城十代が参戦したら、どうなるのか。そんな夢物語が、ネット上では楽しげに囁かれているのだ。  だが、プロは薄汚れた世界だ。  オレはそれをよく知っている。昨日のスポンサーとの食事もそうだが、プロが決闘において何を求められているのか、十代、お前の耳には入れたくないことばかりだ。  たとえば――デッキに今度出る新パックの目玉カードを入れてくれ。テレビの放映時間に合わせて、五ターンで蹴りをつけてくれ。最後はテレビ画面に映えるあのモンスターで決着をつけてくれ。  そんなものは、もはや楽しいだけの決闘ではない。プロの世界は、お前ではなく、同じように薄汚れたオレにこそ相応しい。  お前はオレが守ってやる。  このオレがいる限り、プロリーグが物足りないなどとは言わせない。エドも、ヘルカイザーも、ヨハン・アンデルセンも、オレのデッキで薙ぎ倒してやる。  お前がプロの舞台に引きずり出されることのないよう、オレが全身全霊をもって。プロとして。    カーテンを引くと、眼下の街並みで、小さな人影たちが朝の営みを始めていた。また今日が動き出す。時は歩みを止めることなく、誰の上をも等しく通り過ぎていく。ただ一人を除いて。  あの頃の仲間たちは、それぞれの道を歩いている。ヨハンも現実に戻ってきた。それでもお前は、変わらず永遠を歩んでいる。魂をいまだ、あの島に置いている。楽しかったあの頃をなぞるように、今でも世界のどこかで決闘を続けているんだろう?  十代、お前はお前の好きなようにしろ。  たまに寂しくなったら、オレのところに帰ってくればいい。オレの部屋の窓は、いつでも開けてある。