髪が伸びた。前髪は顔を過ぎて鎖骨に届きそうになっているし、後ろ髪はあと少しで腰を追い抜こうとしている。
朝、必要以上に広い洗面所で、日向ネジは鏡を見ながらぼんやりと思った。
とは言え、通常でも彼の髪の毛は今よりも数十センチ短いだけで、男にしては充分すぎるほどに長い。そんな彼が、髪が伸びたなどと流暢に思うのははっきり言って解せない。だが、彼には彼なりの限界があるのだ。変なところで強迫観念のあるネジは、思い込んだら一途だ。
前髪を一房手に取り、引っ張ってみる。そんなところで髪は抜けたりはしないが、毛先を間近で見てみると、枝毛があった。 一つため息をつくと、乱暴に髪を払う。そして、鏡に映る己の顔をじっくり観察した後、
「・・・・・・切るか・・・」
本当に面倒くさそうに呟いた。

「だからと言って、なんでぼくがネジの髪の毛を切らなくちゃいけないんですか?」
ロック・リーは左手に鋏(はさみ)、右手に細長い櫛(くし)を持ちながら、憮然と言った。
目線をちょっと下にすると、ネジの頭がある。
「お前は自分で自分の髪を切っているんだろう? リー」
「それは前髪くらいのことで、きちんと床屋に行っています。そもそも、人の休日にいきなり家に押しかけてきて、鋏と櫛を渡すなんて、どういう神経してるんですか」
「そんなもの、とっくに理解してると思ったがな・・・」
ぐ、とリーが言葉に詰まった。そう、青年にはネジのこんがらがって解けない精神構造を、嫌というほど知っている。

ネジは、朝餉(あさげ)の後、不審がるアシアリに鋏と櫛と大きな布を持って来させた。
『散髪ならば、日向家でも出来ますが・・・・・・・・・』
『いや、いい』
『はあ、しかし・・・・・・・・・』
少しの沈黙。白い眼(比喩ではない)で己を眺める主人に軽く首を傾げ、
『・・・あ、そうでしたな。ネジ様は・・・。いや、忘れていて申し訳ないです』
『ああ。おれのことは気にしなくて良い。無料で散髪をしてくれる所があるから、そこに行って来る』
と言ってリーの家まで来た。

かつての班員、ロック・リーは休日と言うことでまだ寝ていたらしく、丸い目を半月にして出て来た。けれど、日向ネジが立っていることに気づいて、慌てた様子で何かあったのかと訊ねてきた。
『なんでもない。ただ、髪を切ってもらおうと思ってな』
ネジがあまりにもさらりと言ってのけたので、リーは良く分からないままに、彼を部屋へと通した。そして、意識がはっきりしてきて初めて、ネジの用件を理解し憤慨しているのだ。
「早く切ってくれないか。おれの正座にも限度があるんだ」
言われてみれば、胡坐でもかけばいいものの、ネジは律儀に正座をしていた。
「・・・・・・・・・でも・・・」
「多少の失敗は目をつぶる。毛先を整えてくれればいいだけだ」
「・・・そんなこと言っても、ネジはすぐに文句をつけたり、怒るからやりたくありません」
「分かってるじゃないか、リー」
振り向かぬまま、意地悪く唇の端を持ち上げる。
「・・・・・・変な髪形になっても、知りませんからね・・・」
リーはようやく観念したのか、無駄と分かっている念押しをして、ネジの髪の毛に手を触れた。
彼の髪の毛はリーと違って、太く張りがある。多少、ごわごわしていると言っても良い。だが、健康そのものと言える質感を指に感じて、リーは羨ましいです、と呟いた。ネジは無言で受け流す。
「じゃあ・・・、切りますよ?」
「ああ・・・」
鋏を構える音がした。髪が遠慮がちに引っ張られる感触のすぐ後、じょきりとまずは一房。
「・・・・・・・・・」
リーが妙な間を空けたので、ネジは目をつぶったまま、
「まさか、切り過ぎたんじゃないだろうな?」
「違いますよ。枝毛を発見したんです」
「ふん、枝毛が気になるとは、女々しいな、リー」
ネジは自分のことを棚に上げて言った。
「・・・別に他人の枝毛に興味はありませんけど・・・」
不服そうな声。さらに一房、じょきりと切る。髪の毛は、ネジが用意してきた大判の布に、ぱさりと音を立てて落ちていく。

「・・・・・・こんな感じでどうでしょうか?」
時間にして三十分。たったそれだけの時間だったが、せっかちなリーにしては、ネジの髪の毛に気を使ったのだろう。
「随分、時間がかかったな」
「・・・五分で切って欲しかったですか?」
「いや、遠慮しておく。鏡を見せてくれ」
言われて初めて気づいたのか、リーは隣の寝室に入ると、顔が丸ごと映る大きさの、四角い鏡を持って来た。
「どうぞ」
鏡を手に取り、覗き込む。
そこには、大していつもと変わらないネジの顔が映っていた。だが、前髪は顎と一直線に綺麗に並び、長すぎだと思っていた後ろ髪は、腰から十センチほど離れていた。
「あんまり、短くしていないつもりですけど・・・」
「そうだな」
ネジは鏡をリーに渡すと、正座を崩して胡坐をかいた。
「ネジ?」
良いとは言わないが、悪いとは言わないネジを不審に思って、呼びかける。ネジはゆっくりと、リーに顔を向けた。
「悪かったな、休日に押しかけて」
いきなり、傲慢かつ高慢な彼が殊勝なことを言ったので、明らかにリーは動揺した表情を見せた。
「いえ、別に・・・。休日はいつも寝てるだけで、特になにをするでもないし・・・・・・」
「実は床屋が苦手でな」
「は?」
矢継ぎ早のネジの言葉に、青年は着いて行けない。そんなリーを無視して、言葉を続ける。
「知らない人間が、鋏を持って後ろに立っているのは怖くてな。それに、知らない人間に髪を触られると、腰の辺りがくすぐったくてかなわん」
「・・・・・・ええと・・・、まあ、分かりますが・・・・・・」
リーの顔には、はっきりと、わけが分からないと書いてある。
「だから、お前が休日だと分かっていて、押しかけた。まあ、リーが鋏を持って後ろに立っても害は無いだろうからな」
「・・・まあ、そうでしょうけど・・・」
それはつまり、ぼくなら殺気を出した瞬間に、伸すことができると言うことでしょうか。少しむっとした表情になったリーに、ネジは意地悪く笑う。
「だが、お前に髪を触られても、なにも感じない。何故だろうな?」
「はあ・・・・・・・・・? ・・・お茶でも飲みますか?」
「ああ。ついでに饅頭でもあると助かるんだがな」
「・・・はいはい・・・」

そしてそれから一時間後、先程のネジの言葉を頭の中で反芻していたリーがいきなり顔を赤くして言った。
「・・・・・・えっと、え? ええ!? ネジ、さっきのことなんですけど、それはつまり・・・・・・。・・・ちょっと、ネジ!! 熱でもあるんじゃないですか!?」
「なんだ、それは・・・。今頃、言葉の意味が分かったのか?」
ネジは呆れながらも、狼狽するリーを見て、数十センチ短くなった髪の毛を指でつまんで、満足そうに笑みを浮かべた。
「今後は、お前に散髪を頼むことにしよう」


2008/02/06〜08・21・22


ネジくんの髪の毛を切ってみたい人、はい!! な小説でした(なんのことだ)。
そういえば、一部ではかなり長いと思っていたネジくんの髪ですが、二部ではちょっと短くなってますよ・・・ね?
髪を切られる時、腰がむずむずする人って、結構いると思います。かく言う私もそうです。いまだにそうです!!
だから、人に髪の毛切られるの、本当は嫌なんです!! 独身時代は自分で切ってましたけど・・・、今はそれもちょっとねぇ・・・。
それにしても、鋏と櫛と、下に敷く布を用意する辺り、ネジくんだな、と(^^;)。