窓に近寄って、外を眺めてみたが、白いだけだ。ガイは思わず、短くため息をついた。そのため息も、外からの風鳴りでかき消された。
「まあ、忍びさん。今日はどうしようもないやな。泊まって行きなよ」
そんなガイを見て、老人が苦笑しながら進言した。両手で盆を持ち、その上に乗った湯呑みから湯気が出ている。
「ほれ、小さい忍びさんも不安そうにしてる」
「ぼ、ぼくは別に不安ではないです!!」
老人が湯呑みを少年に渡しながら言うと、性格を表すように元気良く外に跳ねた髪と、大きく丸い目を持った少年が言い返す。しかし、その目に不安と動揺を見つけている老人は、まったく悪びれず微笑んだ。リーは湯呑みを受け取っただけで、すぐに飲もうとはせずに、ガイの背中を見ていた。
「……まあ、その子は雪山なんて初めてなもんで、多少、おれも不安ではあったんですが」
ガイはもう一度ため息をつき、窓から離れ、老人とリーが座っている囲炉裏の前に腰を下ろした。囲炉裏では、木炭がこれ異常ないほどに赤くなり、熱気を惜しげもなく放っている。おかげで、室内は汗が出そうなほどに温かい。
「いくら忍びさんと言えど、吹雪はどうしようもないやな……」
老人はガイにも湯呑みを渡す。ガイはかすかに頷くと口を付けた。それを、かすめるように横目で捉えたリーが、少し間を空けて茶をすすった。
がたがたと、窓が強烈な風に揺らされる。外は吹雪である。猛吹雪と言っても良い。

ガイとリーは、任務からの帰りで、この山に入っていた。
雪山ではあったが、別段、危険も無く歩き続け、当初の予定通りこの山小屋に休憩のために寄った。山頂に建つそこは、木ノ葉の里でも数十年前から公認している施設であり、狭いが造りは頑丈だ。
ガイも十数年前に、ここを利用したことがあったが、老人が気がついた様子はなかった。もっとも、その頃とは容貌も何もかも変わってしまっているので、仕方のないことなのだが、ガイは幾分ほっとしていた。
山小屋の主人は七十を越えている老人で、柔和な笑みを湛えた顔は、その年齢を以ってしても整っていた。
老人は、ガイとリーを交互にしげしげと見つめ、にこにこと笑い、
「忍びさんは珍しくないけんど、先生と生徒の組み合わせは久しぶりだわ」
と言い、二人を室内へと招いた。
雑談をして一時間ほどすると、老人は、不意に小屋から外へ出て、すぐに戻って来ると、
「お二人さん、吹雪が来るな」
のんびりとした口調で言った。
ガイも立ち上がり、外に出てみた。どう、と風が出ていた。先程まで晴れていた空が、雲に覆われ変に明るい。
無言で空と大地を睨みつけ、室内に戻ると、
「まずい、ですか?」
リーが聞いてきた。
「…………」
ガイは無言のまま、窓に近寄って外を眺める。程なくして、視界が真っ白になっていった。もちろん、猛獣と化した雪のせいで。

そして、現在。ガイとリーは治まる気配の無い吹雪を前に、途方に暮れている。
その気になれば、吹雪の中だろうと突っ切る自信が、ガイにはあった。万人にとっては無謀といえる主張なのだが、この男は真顔で出来る、と言い張る。
しかし、今回はリーがいる。まだ任務慣れしていないリーを連れて来たのは、いささか失敗だったとも言える。
(最悪……、リーを置いて行くことも出来るんだがなぁ……)
しかし、ここまで弱音を吐かずに着いて来たことを思うと、置いて行くことなど出来ない。リーのほうも、いつ、ガイが自分を置いて里に戻ると言い出されるか分からない、という面持ちだ。丸い目を少しだけ歪ませた表情を見てしまうと、どうにも言い出せない。
「まあ、雑魚寝に近くても布団は用意できるし、やっぱり吹雪の中を行くのは危険じゃないんかね……」
老人は、ガイとリーの顔を見比べながら打診した。
「……それじゃあ、お世話になるか。その代わり、吹雪が止んだら里まで爆走するぞ」
ガイは言って、リーに笑いかけた。リーは明るい表情になって、はい! と元気に返事をした。
「このくらいの吹雪なら、朝までには治まってるだろうよ」
老人が言い添え、リーはそちらにも元気に返事をする。

暗くなれば、なにも娯楽の無い山のこと。老人も夕飯を食べ終わると、すぐに寝る準備をし出した。
ガイとリーには、使い込まれた厚手の掛け布団が提供された。
「それじゃあ、お二人さん。ゆっくり休んでくだせえや」
老人はそう言って、自室へ引っ込んだ。
天井のランプの火を落とし、囲炉裏に少しだけ木炭を残し、二人は横になった。
しかし、風の音だけが強く響いて、さしものガイも眠れずに寝返りを打った。
ほんのりと室内を赤く染めている光を見つめていると、なんだか色々な考えや、あまり思い出したくない過去が浮かんできてしまう。
時に悲鳴のようにも聞こえ、ごんごんと容赦なく鳴り続ける風を聞きながら、ガイはひたすら寝ようと努力していた。
老人は今頃、熟睡しているだろうか……。
ごそりと、闇の中でなにかが動いた。すぐにリーの寝返りだと気づく。
「……眠れないか? リー」
呟くように聞いてみる。数秒の間を置いて、リーの小さい返事があった。もそもそと影が動き、リーは布団を肩に引っ掛けたまま、起き上がった。
「眠ろうとは思っているんですけど……、風の音が……、怖くて…………」
「そうか……」
寝転がったまま、ガイが呟く。確かに自分でさえ不安になる風の音は、まだまだ少年のリーには、化け物の咆哮に聞こえるのかも知れない。
また、風が鳴る。小屋を一瞬揺らして通り過ぎていったそれに、リーの影が更に小さくなったのが分かった。
「ぼく……、いくじなしですね。ネジにもよく言われますが、今日、嫌というほど分かります」
ガイは苦笑した。ネジは本心で言ってることでもあるが、逆にリーを叱咤することで、己の心を奮い立たせている節もある。その理由をリーに説明したとして、それを理解するのにはまだまだ幼すぎる。
けれど、可愛い弟子が自分を卑下することもまた、いじらしくも哀れだった。
「お前はいくじなしなんかじゃないぞ。現に、おれに着いてこんな山奥にまで来たじゃないか。あの雪山を何時間も登ってだぞ? お前は体力も、精神力もあるからなぁ。テンテンやネジには、この雪山をおれについて来させるのは酷だと思って、お前を連れて来たんだがな」
一気に喋った。自嘲する時のリーは、どんなに甘い言葉を投げかけても、反論してくるからだ。
言ってから、ガイは小さく息をついた。そして、小さい影の反応を待った。
「…………ほんとですか?」
ガイの言葉で、リーの影が大きくなった。声音には、疑いの色も含まれていたが、ほんの少し自分を取り戻したようだ。
あまり見えないかも知れないが、ガイは歯をむき出し、にっかと笑った。
「ああ、本当だぞ? おれが嘘をついたことがあったか?」
「無いです」
間髪入れず、リーが返す。ガイは、今度は声に出して笑った。老人の眠りの妨げにならないような音量で。
「じゃあ、眠るぞ、リー。とにかく眠ってしまえば、風の音なんて気にならない。それに、風はどんな恐怖や不安も、押し流して行ってくれる。本当だぞ?」
今一度、風の音に二人で耳を澄ます。なんだか、先程よりも小さく聞こえるのは、気のせいだろうか。
「……おやすみなさい、ガイ先生」
ごそごそと音がして、リーがくぐもった声で言った。
「ああ、また明日……」
ガイも布団をしっかりと肩口まで掛けて、静かに言った。
聞こえるのは風の音と、小さな呼気と、老人の吹雪にも負けない鼾(いびき)だけ。
ガイは、数十分起きていたが、やがて目を瞑り、不思議なほどあっさりと眠りへ落ちていった。

「いやぁ、よう晴れたわ」
老人の明るい声で、ガイとリーは目を覚ました。
「うわ」
リーが目を開けて、すぐにまた瞑った。明るすぎる光のせいだ。ガイも何度か瞬きをした。
外に出ると、空は白いほどに青く、空気はこれ以上ないほど澄んでいて、きらきらと雪の欠片を反射させている。
「きれいですね」
いつの間にか、リーが隣に立っていた。寒さで頬を赤くさせ、特大の白い息を吐きながらも嬉しそうにガイを見上げた。
「そうだな」
ガイも白い息の中、言った。
文句のつけようのないほど、美しい景色を二人はしばし見つめ、ガイは急に屈んでリーに顔を近づけた。
ぎょっとしたリーは、目をもっと円くして、
「なんですか?」
声を裏返した。
「顔色が良くなったな。昨日は少し、青くなっていたけどな」
ガイは言って、にっかと笑うと、腰を伸ばして目の前の景色を見やる。目の端では、リーが何か言い返そうと、もじもじしているのが分かる。
「……で、でも、ぼく、もう雪や風を恐いと思いません!!」
少し経って、リーが半ば叫んだ。その声が山々に吸い込まれるように消えていく。
ガイはもう一度、リーと目線を合わせる。リーの頬が少し赤くなって、しっかりとガイを見据えている。
「そうか!!」
ガイは心底嬉しそうに言い放ち、両手でリーを頭をわしわしと掻き回した。
「いやぁ、ほんとに仲の良い忍びさんたちだわ」
はっと我に返ると、老人が戸口まで来て、戯れる二人を笑いながら見ていた。
急に恥ずかしくなったのか、リーは急いでガイの手から逃れた。ガイも少しだけ気まずくなり、渇いた笑い声を出した。
老人は昨日と同じようにしげしげと二人を見つめ、急に語り始めた。
「……そういやぁ、昔にもあんた達みたいな仲の良い忍びさんが来たことがあったけなぁ。そん時もひどい吹雪になって、ここに泊まっていって……」
「……」
ガイとリーは、民話を聞くような心持で、老人の話の続きを待った。
「そんで、生徒さんがあんまりにも不安にしてるもんだから、先生がこう言ったんだよぉ。……風はどんな恐怖や不安も、押し流して行ってくれる、って。ちょっとクサかったけど、生徒さんと一緒に少し感動したっけぇな」
「……」
老人の話はそこで終わりで、すぐに奥へと帰って行った。朝食は少し待ってくれ、と言いながら。
残された二人は、しばし無言だった。
「…………あの話って」
口を先に開いたのはリーだった。背伸びをするようにガイの顔を見つめ、にっかと笑った。
そして、一点を見つめ固まっているガイに、
「今度はその話を、ぼくがガイ先生のように強くなった時に、自分の生徒に話します!!」
元気良く豪語した。そして、老人を手伝うと言い、小屋に戻って行った。
一人取り残されたガイは、しばらく呆然としていたが、
「……だから、ここに寄るのは嫌だったんだ!!」
押し殺した声で言った。
ガイは積もった雪を溶かしそうなほど赤面していたが、心に降り積もった思い出したくない過去は消すことは出来なかった。
(2010/01/20〜03/16・23)