寒気で目が覚めた。頬に感じる空気が、昨日までとは違った。
ネジは布団から起き上がると、障子を開けた。
じわじわと冷気が上ってくるのが分かる。
夏は太陽が、冬は地面が季節を連れて来るのかもしれない。
そんなことを思いながら、ぼんやりと庭を眺めていると、
「おはようございます、ネジさま」
古参の使用人、アシアリが白湯を入れた湯飲みを、盆に載せてやって来た。
「ああ……」
ネジは伏し目がちにアシアリに視線を移し、湯飲みを取る。
「冷えますな……」
ネジと肩を並べて庭を見ていたアシアリが、ぽつんと呟く。
「ああ……」
それに、気の無い返事をするネジ。
「今日は曇りらしく、気温もさほど上がらないでしょうな……」
ネジは無言で頷いて白湯をすする。
頭上では、重く垂れた雲が、さらに寒々しさを演出している。
不意に、ネジが深いため息をついた。それを横目で捉えて、アシアリが微笑した。
「……出すか……」
ネジの声音には、諦めが混じっていた。

ネジの部屋の中は、春の陽気のようだった。
かんかんに熾された炭が、火鉢の中で時々ぱちりと呟く。炭の上には五徳が置かれ、鉄瓶がしゅんしゅんと湯気を吐いている。
「……お前は勘が良いのか、それとも、おれの家を監視してるのか?」
ネジはその大きな角火鉢に、手をかざしている人物に嫌味たっぷりに聞いた。
「勘ですかね? なんとなく、今日あたりネジの家は火鉢を出すんじゃないかな、って思ったんです」
ロック・リーが、悪びれもせずに返事をした。リーは珍しく、ガイスーツではなく道着を着ていた。無論、いつもの包帯や橙色の柔らかな脚絆も身に着けていない。顔から下を見れば、おかっぱにする前のリーが居るようだった。
そのせいもあるのか、ネジはなんだか落ち着かなかった。先ほどから、部屋の中心を陣取っているのはリーと火鉢で、部屋の主であるネジは、隅の文机で本を読んでいた。
「ネジ、寒くありませんか?」
リーは言うのだが、ネジは無視するか、うなり声のような音を発して近づこうともしない。
と、足音がして、
「失礼いたします」
アシアリが障子を開けて、顔をのぞかせる。そして、数分前と変わらないネジとリーの距離を見て、苦笑した。
「アシアリ、寒いぞ、早く入れ」
ネジが顔も向けずにつっけんどんに言い、アシアリは微笑みながら部屋に入ると障子を閉めた。
「お茶をお持ちいたしました」
アシアリの傍らには、湯飲みが二つ盆に載り、小さなみかんがころころと入っている皿があった。
「早生(わせ)みかんです。小さいですが、甘くて美味しいですよ」
「ありがとうございます。それにしても、今日は冷えますね」
「……だからここに来たんだろうが……」
リーの、わざとらしい物言いにネジが眉をしかめる。何年前になるのか、火鉢を出した日に偶然リーが家にやって来て以来、リーはどうやって知るのか火鉢を出す日にはネジの家に顔を出すようになった。
「毎年毎年、火鉢を出す日にやって来て、一体どういう了見なんだ」
「まあまあ、ネジさま。こちらに来て温まってはいかがですか?」
アシアリが低くどっしりとした声で言うと、ようやくネジは腰を上げて火鉢の前にどっかりと座った。茶を受け取り、みかんの皮を無造作に剥いて、一個丸まるを口に放り込んだ。
「……ネジがそんな食べ方するとは思っていませんでした」
リーが呆れたように呟き、アシアリはただ微笑んだまま、二人と少しだけ距離を取って正座している。ネジがじろりとリーを横目で睨んだが、なんだか慌てたように目を逸らした。
「ああ、そうだ。今日はリーさまもご一緒に鍋などいかかでしょうか。ネジさま」
アシアリが名案とばかりに、明るい声で提案した。ネジはちらりとアシアリを見る。明らかに、余計なことを言うな、と目が言っているのだが、それで怯むようならば、日向家で古参の使用人などしていない。
「どうでしょうか? 鍋なら人数が欲しいですから、ガイさまとテンテンさまもお呼びいたしましょうか」
「それ、いいですねぇ! 二人とも喜びますよ」
「……ここは誰の家なんだ……」
ネジの恨みがこもった言葉など、二人は聞いていない。
アシアリは急にそわそわとしだし、やれ使いだやれ買い物だと言いながら、部屋を出て行った。
しん、と空気が凍えたような感覚。少なくとも、ネジはそう思っているのだが、リーはどこ吹く風でみかんを頬張っている。
「……お前、単に火鉢と夕飯が目当てなだけで、家なんてどこでもいいんじゃないのか?」
「え? そんなことありませんよ。ネジの家だから、ですよ」
心外だとばかりに反論してくるリーを、ネジは胡散臭そうに見つめる。
「……で? お前がおれの家に来て、なにか良いことがあるのか?」
「あるじゃないですか! 友達と話が出来て、みんなで仲良く楽しく夕飯が食べられるじゃないですか!」
リーは高らかに言った。
ネジは頭の中で、糸がふつりと切れた感じがした。
「……おれは迷惑だ!!」
リーに掴みかかる。勢いあまって押し倒す形となったが、構わずに馬乗りになる。リーの頭を殴りつけようか、首を絞めてやろうか、などと考えたが、数秒後には怒りも消えて、なんだか馬鹿らしくなってきた。両腕で防御をとっていたリーは、体の上でネジが力を抜いたのが分かり、そっと両腕の隙間から両目を覗かせた。
「あれ……。殴ったり、首を絞めたりしないんですか?」
「…………馬鹿馬鹿しくなってきたんでな。お前になにをしようと、お前は信念を曲げないだろうしな」
「えっと、じゃあ……、どいてほしいんですけど……」
「ふん……」
ネジは体勢を、リーの腹の上に座り込むように変えた。ぐ、とリーが息を飲む。
「ネジ……、苦しいです」
「腹筋の鍛錬になっていいだろうが」
ネジという重石をどかそうと、リーが両手を伸ばしてきたが、それも難なく押さえ込む。
「ネジ……! どいてください」
リーが訴える。今のリーならば、少し力を込めれば、ネジをどかすことなど、いや両手指をへし折るくらいは簡単だろう。けれど、リーはじっと耐えている。まるで、一緒に鍛錬していた時の序列を壊したくないかのように。
「……友達か」
不意に、ネジが小さく言って、リーの上からどいた。リーは数秒、呆けたように天井を見ていたが、やがてのっそりと起き上がった。
ネジはリーの視線を感じていた。
「……ぼく、火鉢をみんなで囲んで話をするのが、あんなに楽しいなんて思わなかったんですよ」
なんとなくとぼけたリーの告白に、ネジは耳を傾けた。最初にリーが来た時も、ガイとテンテンも招いて夕飯を食べた記憶が、おぼろげながらある。そして、今日のリーの服装が、わざとであったことにも気がついた。リーは再現しているのだ、と。あの、冬の始まりの日のことを。
「それまで、友達と夕飯を食べる経験なんて無くて、本当に楽しかったし、嬉しかったんです。あの時初めて、ネジと友達になれたような気がするんです」
勝手なことを、と思ったが、ネジも屋敷の人間以外との会食が、あの時が初めてだったことに気づいた。
「だから、なんというか、ぼくにとって記念日というか……。そんな感じがして、毎年、来てるんですけど……」
リーの言葉はどんどん小さくなって、最後には聞こえなくなった。
また、しんとした空気に包まれる。ぱちんと、火鉢の中の炭が、二人に代わってなにかを呟いたような気がした。
「……別に、そんなこと、火鉢を出す日じゃなくてもいいだろう」
「え?」
「ガイとテンテンを呼んで、飯を食うくらい、いつだって出来るだろうが。なにも、律儀に火鉢を出す日に来なくてもいい」
顔が熱いのは火鉢のせいだと、ネジは思うことにした。そうでなければ、やっていられない。
「え、でも……、普通に火鉢に当たりたいから来てるってところもあるんですけど……。ぼくのうちの、灯油代も浮かせたいし……」
ネジが勢いよく振り返り、今度こそリーに鉄拳をお見舞いしようとした瞬間、
「ネジさま、お二人に連絡が取れました。夕方にはお見えになるそうです」
アシアリがのんびりと、だが楽しそうに障子の外で言った。
ネジは片膝立ちで拳を振り上げたまま、リーは尻餅をつくような体勢のまま、見つめあった。
「夕方は更に冷えるでしょうから、丸火鉢も数台出したほうがいいでしょうなぁ……。これは忙しい…………」
アシアリの声が遠くなる。いそいそと、火鉢と鍋の準備をするのだろう。
「……アシアリさん、張り切ってますね」
「……一番、この日を楽しみにしてるのは、アシアリかもな」
くすりと、どちらかともなく笑う。
部屋の中は、暖かな空気で満たされている。
そして、夕方には笑い声で満たされるだろう。
ネジはやれやれと思いながらも、心がやけに軽いことに動揺して、リーの頭をぽかりと殴った。
「なにするんですか!」
「うちを使うことの代金だ。安いもんだろう」


2010/10/28〜29・30