「ゲジマユのにおいがする」
ふと、ナルトが言った。
「ふーん、あっそう」
対するカカシは読んでいる文庫本から目を離さず、興味無さそうに言った。
木ノ葉の繁華街。ナルトとカカシはぶらぶらと、そぞろ歩きをしていた。休日なのに、いつも顔を合わせている人間と一緒というのは納得がいかないものの、どうしようもない。偶然に会ったのはいいが、することがない。
カカシは最初、召集があるかも知れないから、お前とは遊んでられないよ、と冷たく言っていた。だが、伝令の鳥が来ることも無く、数時間ナルトと行動を共にしている。
いい加減、なにが楽しくて一緒に歩いているのかも分からなくなった頃に、ナルトが友人であるロック・リーのにおいがすると言い出した。
「こっちから、においがする。カカシ先生、行ってみよう」
動物かそれ以上の嗅覚を持つナルトが、心なしか嬉しそうにカカシを誘導する。なにを言っても生返事をするだけの男よりも、馬鹿話でも盛り上がる友人の方が良いのだろう。青春とはそういうものだ。
「ふーん、あっそう」
カカシは生返事をして、ナルトの声だけを頼りに着いて来る。この男、先ほどから文庫本から目を離さないのだが、つまずくことも人にぶつかることもない。
数分歩いたところで、ナルトがつと立ち止まり、カカシも立ち止まる。
「……ゲジマユ?」
「うん?」
ナルトの発言が疑問系に変わって初めて、カカシは顔を上げた。数メートル先には、果物屋があり、ナルトは首を傾げながらそちらを見ている。
「どこにリーくんがいるの」
カカシも首を傾げる。果物を吟味している中年女性や青年はいるが、リーらしき人物はいない。
「あれぇ? 確かにゲジマユのにおいはするのに」
憮然とした表情でナルトが呟く。
気のせいなんじゃないの、とカカシが言おうとして息を呑んだ。続けてナルトもなにかに気づいて、あ、と声を上げた。
振り向いた青年は薄緑色のカンフー着姿のリーだった。両手で紙袋を抱えている。
リーは、何気なくナルトとカカシのほうに目を向けて、笑顔になった。
「ナルトくん! カカシ先生も……」
声をかけられて、は、とナルトとカカシが同時に息を吐いた。なぜかは知らないが、息を止めていたらしい。
カンフー着姿のリーが、二人に歩み寄る。
「偶然ですね!」
「え? あ、ゲジマユのにおいがしたから、来てみたんだってばよ」
「におい……ですか? もしかして、ぼく汗臭いですか!!」
リーが言うと、ナルトは慌てて手を振る。
「いや、汗臭いじゃなくて……。ていうか、なんだぁ? その格好……」
リーはそこで、自分が普段と違う格好をしていることを思い出したのか、急に恥ずかしそうにして、
「これですか? 演武大会に出てたんですよ。ガイ先生に出場者が少ないから出てみろって言われて……。その帰りなんです」
そのガイは、大事な任務に呼び出されるらしいと、大会には出場しなかったらしい。
「そうなんだ。にしても、こんな服、持ってたんだな」
ナルトが妙に感心したように言う。
「はい。色々と流派の関係で……。ぼくはいつもどおりの、ガイスーツが一番動きやすいんですけどね」
リーがはにかむ。
「いや、いいよいいよ」
「…………カカシ先生、なにしてるんだってばよ」
「………………」
気づけば、カカシはリーを四方八方から眺めていた。なにが良いのか、後姿だけは十数秒かけてじっくりと見て、
「いやぁ、新鮮じゃない。おれ、カンフー着のゆったり感が好きでさ……」
馴れ馴れしくリーの肩に手を置く。リーがすかさず、するりと身をかわす。
確かに、幾分かゆったりと作られたカンフー着は、リーをどこか幼く見せて、雰囲気がいつもとはまったく別に見える。ナルトも物珍しそうに、上から下まで観察する。
「あの……、この格好、そんなにおかしいですか?」
いつまでも二人の視線が外れないので、堪り兼ねたようにリーが言った。
「ぜんぜん!!」
「ぜんっぜん!!」
ナルトとカカシが同時に言う。ナルトは純粋な気持ちだろうが、カカシはなにかしら含みを持たせた声だった。
「そ、そうですか?」
リーは安心したような、戸惑いのような表情を浮かべた。
「そんでゲジマユ、もう帰るのか?」
ナルトは、努めて明るい声を出して聞く。
「そうですね、特にすることもないし……」
「ならさ! 一緒に遊ばねえか? 暇で暇で、退屈だったんだってばよ!!」
嬉々としてナルトが提案した。声の響きには、カカシへの非難がたぶんに含まれていた。
「良いですね!」
リーが、にっこりと歯を見せて爽やかに笑う。だが、そのいつもの仕草さえも幼く見えて、ナルトは妙な気持ちになる。さっきからその妙な気持ちを言葉にするならば、なにが適当なのか考えているのだが、上手く見つからない。
「あの……」
ちらりと、リーが視線を横に流した。その延長線上にはカカシがいる。にっこりとカカシは笑ったのだが、目が怖い。獲物を見つけた獣のそれだった。
「…………」
ナルトが無言で、カカシの前に立つ。
「ちょっとなんだよ、ナルト」
「……いや、なんとなく……」
背中に殺気を感じるナルト。リーは、なんだか怯えた表情で、ナルトの肩越しに後ろを見ている。ぎゅ、と紙袋を抱きしめて、心細そうな子犬のような顔になっている。その表情が、仕草が、カカシを妙な方向へ駆り立てていることを、ナルトもリーも気づいていない。大人の世界とは、かくも複雑怪奇であるのだ。否、カカシだけかも知れないが。
「……ええと、どっか行く?」
後ろを振り返らないように、カカシの顔をリーに少しでも見せないように配慮して聞く。なんでこんなことをしているんだろう、とナルトは疑問に思うが本能が危険、黄色信号と言っているのだから仕方ない。
「あ、ぼくの道場にでも行きますか?」
「……って、また修行しようとか考えてるんだろ。ゲジマユ、体力あり余りすぎだってばよ」
「今日の演武大会で、色々な流派の型を見れましたからね! 試したくて、うずうずしてるんですよ!」
「ゲジマユって、ほんと真面目だな。休みなんだから、ゆっくりしようってばよ」
「なに言ってるんですか、ナルトくん! 日々、鍛錬ですよ!」
「うへぇ、マジか……。まあ、別にいいけどさ……」
「じゃあ、ナルトが動けなくなったら、おれと修行する? リーくんが知らない寝技とか、手わざとか教えてあげようか?」
せっかく、空気が和んだところに、カカシが水を差した。水どころか、雹を叩き込んできた。
「…………」
「……カカシ先生、まさか着いて来る気か?」
凍りついたリーに代わって、ナルトが迷惑そうに振り返る。
カカシは心外とばかりに、
「なんでだよ、先生が生徒の修行を見るのは、当たり前だろ?」
と言うのだが、相変わらず目が怖い。笑っていない。
「いや、先生って……。先生だけどさ……」
ナルトは、なにか上手い言い訳を考えようとするが、カカシのただならぬ気迫に圧されている。
すると、リーが遠慮がちに口を開いた。
「…………あの、カカシ先生、招集は掛かってないんですか?」
「ん?」
「さっき、ガイ先生が火影さまのところに向かうのを見かけたんですけど……」
カカシは、そういや召集が掛かるかもとか自分で言ってたんだっけ、と思い出したようだった。
「そういや、そんなこと言ってたよな。激眉先生が行ったってことは、カカシ先生もそろそろ招集かかるんじゃないのか?」
「うーん。いや、ガイは単に火影さまのところまで何秒で行けるのか、試してたってこともあるだろうし……」
あるわけないだろう、とナルトとリーは表情で突っ込んだ。それでも、カカシはめげない。
「それにほら、ガイの任務はガイの任務で、おれのとは違うかも知れないし……」
「……上忍をほぼ集める任務だって、ガイ先生が言っていたような気がするんですけど……」
「…………そうだっけ?」
「はい…………」
「…………」
「……カカシ先生、ぐだぐだ言ってないで、ばあちゃんのところに行った方がいいんじゃね?」
「……ぐ……」
カカシが唸りだす。とことん、往生際が悪い。
と、ぱささ、と軽い音がして、小鳥が舞い降りてきた。カカシの肩に。
「……げ」
小鳥は首を可愛らしく傾げて、カカシの顔を覗き込んでくる。召集を知らせる鳥だ。
「あ、召集ですね。早く行ったほうがいいですよ」
「そうだよ、カカシ先生。ばあちゃんにど突かれるってばよ」
「…………」
「ぴあ!」
次の瞬間、悲鳴を上げて、小鳥は吹っ飛んでいった。無論、己の翼の力ではなく、外から加えられた力で。カカシが小鳥を指で、思いっきり弾いたからだ。
「ちょ……!」
「な……!」
ナルトとリーは絶句した。
そんな二人を尻目に、カカシは含み笑いをすると、
「おれの所に伝令の鳥は来なかった、でしょ? 鳥は不慮の事故でおれの所にたどり着けなかった、でしょ?」
「………」
怖すぎてなにも言えない。この執念、見習うべきでないことは分かるが、妙に感心してしまう。
じり、とカカシが近寄る。後ずさるナルトとリー。万事休す。絶体絶命。ナルトが構えた。カカシの目がすっと細くなって、殺気を帯びる。
「……邪魔すんじゃないよ、ナルト……」
凄まじい圧迫感の声音。ナルトの額に汗が滲む。
「っ!」
一瞬息を止め、カカシに拳を振り上げた瞬間、
「げふ!!」
カカシが、空から降ってきた物体に押しつぶされた。轟音と共に。繁華街を行き交っていた人々が振り返り、彼らが忍びだと分かると、すぐに日常に戻っていった。彼らにすれば、忍びが轟音を出そうが、いきなり空を飛ぼうが火を出そうが水を出そうが、良い意味でどうでもいいのだ。
「え?」
しかし、ナルトとリーはわけが分からず、呆然としていた。
そして、カカシの代わりに目の前に立っているのは、
「ガイ先生!!」
ナウいポーズを取っている、リーの師匠であるマイト・ガイであった。
「よう、リー、ナルト」
「え、なんで激眉先生が……。いや、助かったけど」
「あん? おれはカカシを探しに来たんだが。おう、カカシ! お前がおれの急襲を避けないなんて、ライバルとしての自覚が足りなくなってきたんじゃないのか!?」
「……そんなことより、どけなさいよ」
カカシはガイに踏み潰されて、蛙のようになっていた。それでも、特にダメージは受けていないようだ。
「カカシ、召集だぞ。ついさっき、伝令の鳥を放ったはずなんだが、来なかったか?」
悪びれずにガイが言う。もそもそと起き上がったカカシは、これ以上ないほどに不機嫌な顔で、服に付いた汚れを払う。
「……来たような来なかったような……」
まだそんな言い訳をするか。ナルトとリーが呆れた表情になった。
その様子を交互に見ながら、ガイがカカシの首根っこを左手で掴んだ。野生の勘で、今この場に、なにか異様な雰囲気が漂っているのを感じ取ったようだ。
「ちょっと」
カカシはその手を除けようとするが、ガイの手はびくともしない。ガイは改めてリーを見ると、歯をむき出して笑った。
「リー、演武大会はどうだった」
「はい! とても勉強になりました! これから、ナルトくんと今日の復習をするんです!」
ガイが来たことで、リーの顔に赤みが差し、溌剌と答える。
「そうか! がんばれよ!」
ガイは空いた右手でリーの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。リーはこれ以上ないほどに嬉しそうに身をよじる。それを見たカカシが、
「ちょ、うらやま……」
しい、と言い切る前に、ガイは上に飛び上がった。ナルトとリーが目で追うと、二人は近くの二階建ての屋上に着地していた。そして、
「じゃあな、リー、ナルト!! 任務が終わったら、鍛錬の成果を見せてくれ!」
とガイが大声で言うと、首根っこを掴まれたままのカカシが暴れだし、わめきだした。
ここで、周囲の人間が何事かと建物の屋上を見上げ始めた。どうやら、あまりにも騒がしくし過ぎたようだ。ナルトとリーは、周囲の人間が発する、さわさわとした笑い声と生ぬるい視線に赤面しながらも、ガイとカカシを見上げていた。
「ちょっと、ガイ!! あの姿のリーくん見て、なにも思わないわけ!! カンフー着だぞ!!」
カカシの声が大きい。さらに、リーを指差すものだから、視線はナルトよりもリーに集まってくる。ガイはカカシの指先と、その延長線上にいるリーを交互に見やり、
「あん? リーはいつだってかわいいぞ?」
と、事も無げに、自然に言い切った。一連の流れを見聞きしていたナルトやリーを含めた数人は、一瞬ぽかんと口を開けた。さらに一瞬後、ナルトやリー以外の数人が爆発音のような息で笑いを噴出した。数人のうち、一人など海老のように丸くなって笑いを堪えているのだが、唇の端から空気が漏れ出て間抜けな音を出す始末。
「……この、天然幸せものが……、ちくしょう……」
カカシはガイの言葉に、さらにめちゃくちゃに暴れだし、恨みの言葉を叫ぶ。しかし、ガイの腕はびくりともしない。ガイは、
「そんなことより、任務だ任務! とっとと行かないと、火影さまにぶん殴られる!」
と大声で言い、わめくカカシを掴んだまま去っていった。急に静かになった。ナルトとリーの周りで笑っていた数人の輪も解けて無くなった。だが、一様にリーの肩を軽く叩いて去って行った。その目には、なにかしらの憐れみがあったことにリーは気づいたが、ナルトは気づかなかった。
「行ったな……」
ナルトが呟く。
「…………行っちゃいましたね……」
リーは返事をしたが、なんだかその声に、棘が発生していることにナルトは気づいた。不思議に思って顔を向けると、リーはカカシやガイが去って行った方を見ている。見ているというより、睨んでいた。そんな目をするリーを初めて見たので、ナルトは少しだけ動揺した。理由は簡単に思いつくのだが。
「……カカシ先生も、激眉先生も、恥ずかしい大人だってばよ……」
と、なんとなく冷静を装って言ってみたのだが、リーの表情は変わらない。むしろ、頬に赤みが増している。気まずくなったナルトは視線を落とす。ふと、リーが袋を抱えている両手が目に入った。かすかに震えている。
「え……、ゲジマユ?」
もしかして、爆発しそうなほど怒っているのか、それとも恥ずかしさで悔しいのか、ナルトは判別できない。自分が恥をかいたときと他人が恥をかいたときでは、感情の種類は違ってくる。
「……あんな……、……とか」
ぼそりとリーが呟いた。言葉には、粘着質の棘が発生している。どちらかというと、恨みのような。
「え?」
ナルトが思わず聞き返すと、リーは勢いよくナルトに顔を向けた。
「あんな可愛いとかなんとか……、普通、男に言いますか? ぼくってそんなに可愛いですか?」
リーは怒りをぶち撒けたのだろうが、声には覇気がない。むしろ、小声の部類に入る。先ほどのガイとカカシの声の大きさを考えて、そんな声になったのだろう。
「え……、その……」
対するナルトは、怒りをぶつけたれたことよりも、リーの顔に意識が行ってしまってまともに返答が出来ない。絶妙な角度に下げられた眉毛、怒りで潤んだ双眸、ぽんと赤い両の頬、軽く唇を噛んだその様。それは、心が大人に近づいていても、まだまだ若い人間がするには、なんとも哀れな表情だった。哀れ、哀れなのだが、しかし、
「可愛い……、あ」
そして、冷静を装うとしても、思ったことが素直に言葉になってしまう若い人間も、また哀れだ。
ナルトの思わず出た言葉に、リーは完全に表情を無くした。
「……ナルトくん」
「…………はい」
「……道場、さっさと行きましょうか。今日覚えた技、全部試させてもらいます」
今度はナルトが表情を無くす番だった。くるりと背を向けたリーに、従者のように着いて行く。リーの後姿をなんとなく見ながら、その少し大きめのカンフー着を見ながら、
「…………やっぱり、可愛い」
と、またしても素直に言ってしまい、リーに踵で足の親指を思い切り踏まれた。


2010/11/05〜2011/11/21