人の匂いがした。

 時刻は真夜中である。とうに陽は落ち、本来ならば人の住まわぬ人定(にんじょう)の頃。しかし街は、夜を追い払うが如く点々と光を散らばせて、そこに人々が漫ろに行き交う、そんな刻のことである。
 その建物は、一日の仕事を終え、既に眠りについていた。窓ガラスは黒く塗りつぶされ、出入り口にあたる一階はシャッターで固く閉ざされている。だが、そのシャッターの内側には、まだ微かに、そして確かに人の息があった。


 人の匂いがする空間だった。
 一口には言い表せない匂い。それは汗や涙、あるいは血であったものの残り香。だがそれ以上にそこには、ここで誰かが輝いていたという、人間の生命力の残滓があった。それはひどく直感的なものであり、同じように輝いている人間にしか感じ取れないものかも知れない。
 そして彼女――南利美は、まさにこの空間で、輝ける日々を送っている女性である。

 南利美は、聖心白百合劇闘団――略称DCGLに所属する女子プロレスラーである。ショートボブの黒髪に、切れ長の眼。怜悧な風貌から受ける印象そのままに、均整の取れた、しなやかで力強く、無駄のない肉体。遠目には単なる細身にしか見えないその肉体は、ひとたびリングに上がれば数多の名勝負を生み出す英雄の器となる。特に彼女は、その卓越したグラウンド技術と変幻自在の関節技から、関節のヴィーナスと渾名されるほどの、今や日本女子プロレス界を代表する一人である。
 そんな彼女が、深夜のジムに一人佇む。所属選手たちは既に選手寮になっている上階に戻り、昼間の活気とは打って変わって、水を打つような静けさが練習場を支配している。夜のしじまの中、利美はリングに立ち、ロープに手を掛けていた。特に何をするわけでもない。明日は試合だから、今夜はゆっくりと身体を休めなければならない。しかし利美は、部屋に戻ることもせず、さりとて練習するでもなく、ただ漫然とロープの弾力を確かめるように軽く握るだけだった。
 それだけでもただならぬ何かを感じさせるというのに、彼女の格好はそれに拍車をかけている。トレーニングウェアでもなく、私服でもなく、彼女が着ているのは、リングに上がって試合をする時の衣装、リングコスチュームだった。基本的にレスラーのコスチュームは特注品で高価だし、衣服としての機能は度外視しているので、試合以外で着用することはまずありえない。深夜のジムに一人、そんな衣装をまとって立ち尽くす、その異様。相手がいれば野試合の前にでも見えるかも知れないが、今の彼女にはそのような気迫も感じられない。
 放っておいたら、そのまま一晩中立ち呆けていたかも知れない。しかし、深夜の静寂に良く響く足音が、利美の手をロープから離れさせた。鋭くも、どこか不安げな視線が、ジムと階段を隔てるドアに向けられて、数秒。ゆっくりと気を遣いながらも、しかし多少の金属音は軋ませてしまいながら、開いたドアの向こうには、果たして待ち人の姿があった。
「コンバンハ、利美先輩」
 小声ながら、長い黒髪を嬉しそうに踊らせながら、後輩の富沢レイが微笑んだ。その笑顔につられて、ようやく利美の表情が、柔らかく溶けた。

「よっこらせっと」
 わざとらしい掛け声を出しながら、レイがロープの間をくぐってリングに上がる。その衣服もやはり、日常のものではなく、ほとんど試合でしか着ない、サソリをイメージした真っ赤なコスチュームである。……とは言っても、サソリだと思っているのは利美くらいのものである。実際には、とあるゲームキャラの衣装の真似であったりするのだが、彼女の趣味に詳しくない利美には知りようもないことであった。
 ともあれ、勝負服のレスラー二人が並んでリングインという光景は、ともすれば試合前のようにも見えるが、二人の間に流れる空気は決して戦闘的なものではなく、その表情も柔らかいままだ。むしろ、親友や恋人、あるいは家族のような温かい空気の中、レイは利美の隣に立ち、ロープに背をもたれた。全体重をかけると身体が沈んでしまうので、あくまでポーズではあるが。
 レイは目を瞑り、軽く息を吐く。
「いよいよ、明日ですね」
「ええ」
 利美の返答は冷静である。しかし、明日の興行のメインイベントは、誰あろう南利美が、王者に挑戦する一戦なのだ。
 ナスターシャ・ハン。ロシアが生んだ最強のレスラー。ロシアン・クールビューティとまで呼ばれる美貌とは裏腹に、冷徹なまでの関節技で勝利を重ね、世界最強の関節使いと評されて久しい。必殺技のクロス・ヒールホールドで幾多のレスラーの足首を殺して来た、氷の女王。今般来日し、彼女の首にかかったEWA世界ヘビー級王者のベルトをかけて、利美と一戦交えることになっている。
 この試合は事実上、世界最強の関節技使い(サブミッション・クイーン)決定戦でもあり、最近のスポーツ新聞・プロレス雑誌を賑わせている。EWAのベルトを利美が巻くことになれば、彼女の名声はもとより、団体の評価も大きく跳ね上がることだろう。現在、日本女子プロレス界に流出している海外ベルトは、太平洋女子プロレスのブレード上原が持つAACヘビー級シングルベルトだけであり、まだまだ日本人は井の中の蛙と言わざるを得ない状況である。そこで若い利美がベルトを奪えば、国内マットの活性化にも繋がる。明日の試合は、単なる一個人同士の闘いではなく、それほど大きな意味を持っている。
「利美先輩が勝ったら、一躍ヒーローですよ。インタビューとかも増えるだろうし……あっ、写真集とか出たりして。最近は人気レスラーを映画に抜擢する所も多いし、夢が広がるわ〜。先輩も社長もスケジュール管理はザルなんだから、私がしっかりしなきゃ!」
 自分もそれなりに人気があって多忙なくせに、未だに利美のマネージャー気取りな後輩の様子を見ていると、利美の顔にも笑みがこぼれる。だが、一瞬の後には再び、暗く沈んだ顔に戻っていた。
「けれど……私が負けたら、色々なものが壊れるでしょうね」
 能天気に笑っていたレイの表情も、硬く強張る。そして利美は、それ以上に重く沈鬱な顔で、小さく嘆息した。
 誰もが解っている。今の利美がナスターシャに勝利することは、決して容易ではないということを。
 惜敗ならば、むしろ良い。リベンジに向けて本人のモチベーションも上がるし、話題性も十分だろう。
 だが仮に、目も当てられないほど圧倒的な負け方をしてしまったら?
 団体トップエースである利美が敗れたならば、DCGL全体がEWAの軍門に降ったと言っても過言ではない。
 先輩のミミ吉原は一流の選手だが、世界を狙える器ではない。後輩に優秀なのが何人か育って来ているが、まだ利美には遠く及ばない。つまり現在のDCGLは、人気はともかく実力面では、利美一人が屋台骨を支えているようなものなのだ。
 そんな状態でベルト奪取に失敗したならば、EWAは逆襲の牙を剥くだろう。先日設立されたDCGLジュニア級ベルトを、EWAの若手が奪って行くかも知れない。それは団体の威信に大きな傷を付けられることだ。
 利美はもう、幼くも、弱くもない。後ろに、守るべきものが出来てしまった。
 負けることは怖くない。けれど、自分の敗北が、自分の大切なものたちを傷付けることが怖くて、そして許せなかった。
(あ……私、震えてる)
 ロープを揺するほど震えている手に、自分で気付くほどの動揺。時速200kmで疾走するバイクだって、これほどの感情を与えてはくれなかった。けれど、一度認識してしまったら、もう恐怖は顔を隠そうともせず、利美の心を蹂躙していく。
 ――いつから、こんなに弱くなってしまったんだろう。
 自分が一番だと思っていた。望んで叶わないことはなく、怖れるものも何もなく、上だけを目指して行けると信じていた。
 けれど現実には、負けて、挫けて、怖れて、逃げ出して……色々なものを捨てて来た。必死で走って、もう手の中には、一握りの砂しか残っていない。吹けば飛び、投げれば消えそうな一握の砂。それを握り締めたこの手は今、弱々しくロープを揺さぶっている。そのロープすらも手放して駆け出したい衝動に駆られた時、その手を押し止める、優しいもう一人の手が伸びた。
「……レイ?」
「震えてますね」
 レイの手は綺麗だ。もちろん気を遣っているのもあるだろうけど、拳ダコや血豆を幾つも潰して来た利美のいかつい手とは違って、ちゃんと女性らしい柔らかさを残している。けれど、その決して強そうには見えない手に押さえられて、利美の震えは止まっていた。
「うん、もう大丈夫。先輩ってば甘えん坊なんだから」
 にっこり笑う。どこか困ったような笑顔は、まるでわがままな子供をなだめる母親のようで、利美は急に恥ずかしくなってきた。そっぽを向いて手を離そうとしたが、レイの手がそれを阻んだ。大して強くもない力で握られて、ふりほどけない。目を戻すと、レイはいつになく真剣な面持ちで、利美を見詰め返していた。
「しょうがないですよね。私、知ってるから。利美先輩は普段はかっこよくて、クールで、ちょっとワルぶってて、強くて、女の子からキャーキャー言われてたりするけど……本当はとっても脆くて、意地っ張りで、わがままで、臆病で、いつも一生懸命な人。誰よりも貴女の近くに居て、誰よりも貴女を見て来ました。だから、全部知ってます。先輩のダメダメなところ、ぜんぶ」
 握った手を持ち上げて、その指先に接吻ける。それだけで、冷え切っていた手に熱が流れ込む。そのささやかな熱量が、あれだけ重苦しかった雲を、一息で払いのけた。
「だから、安心して下さい」
 レイの指が、熱で浮かされた頬に伸び、
「私が……利美さんの勇気になります」
 最後の言葉は、触れ合った唇の狭間に消えて、心身に溶け込んで行った。
 この接吻は、祝福のキス。あの時と同じ、私だけの女神の加護――




 三年前、二人は新日本女子プロレスに所属していた。利美が若手で、レイが新人と呼ばれていた頃の話だ。
 その日、利美は深夜のジムで一人、黙々とサンドバッグを叩いていた。
 既に人の気配はなく、皮を打ち付ける轟音が絶え間なく鳴り響きながら、それに応えるものは何もない。それをいいことに、利美はもう小一時間もサンドバッグを痛め付けていた。チョップにエルボー、ハイキック。彼女がかつて使っていた空手の技から、プロレスのルールでも使えるものを選んで、次々と叩き込む。
 だが、彼女の表情は決して勇壮なものではなかった。疲労以外の何かが、その美貌に影を落としていた。高速の打撃も、その影を振り払うことは叶わない。
 やがて利美の撒き散らした汗が、床一面を満たすようになった頃、その髪に白い布が投げ付けられた。
 動きを止めて確かめると、それは普通のタオルだった。振り向けば、下手人であろう少女が苦笑していた。
「……富沢」
「今更、空手の練習でもないでしょうに。スパーリングくらいなら付き合いますよ?」
 入団一年目の新人、富沢レイだった。この人懐っこい少女は、利美には特に懐いているらしく、最近よく話しかけてくる。タオルで首筋を拭きながら、利美は視線を逸らした。
「あんたじゃ相手にならないわよ」
「そう言うと思って、はい。休憩も練習の内でしょ?」
 利美の態度にめげることなく、レイが差し出したのは、水が詰まったペットボトル。今の自分と同様に汗をかいたそのボトルを、笑顔のまま向ける少女の態度に幾らか調子を狂わされたのか、利美はそれを素直に受け取った。

 二人はリングサイドに並んで座り、言葉少なく時を過ごしていた。
 同じ職場の先輩後輩の間で、それほど豊富な話題があるわけもなく、話は自然と、明日の試合の方に流れて行った。
「明日の試合、盛り上がりそうですね」
「そうかしら」
「だって、南先輩と、あのナスターシャ・ハンの試合ですよ。もうダフ屋が出始めてるくらいなんだから」
 ロシアが誇る闘士、ナスターシャ・ハン。明日の最終日に合わせて来日した彼女とメインイベントを張るのが、利美の仕事だった。関節技にかけては既に国内最強とも言われている利美ならば、若き女王ナスターシャの相手として不足はないと判断されてのマッチメイクである。
「でも、勝つのは南先輩ですよ。イワン女をぶっつぶせー、て感じ?」
「あんたは呑気でいいわね」
 くるくると指を回しながら、やけに嬉しそうに言うレイに対し、利美の声は硬かった。――寒さを感じるのは、汗が冷えてきたせいだろうか。
「関節技の女神、サンボの女王、人体破壊のスペシャリスト……彼女を称える言葉は幾らでもあるわ。無論私だってベストを尽くすけど、勝てるかどうかは別問題よ」
 利美の言葉は、冷静な批評だ。確かに成長著しい利美だが、まだナスターシャの位置に届いているとは思えない。勝負は時の運とは言え、決して楽な勝負ではない。……否、それすら楽観的な言葉選びだと言わざるを得ず、実際には敗色濃厚といったところだろう。
「で、でも、南先輩、いつもあんなに頑張ってるじゃないですか。理沙子さんだって、ミミさんだって、今の南は凄い、関節技なら国内最高だって言ってます! それだけ努力してきたんだから、もっと自信を持って下さい!」
 今日のレイは、やけに食い下がる。応援してくれるのも、信じてくれるのも悪い気分ではないが、その真っ直ぐな瞳が、今は無性に苛立ちを招く。だから利美は、少し意地悪な台詞を吐いてみたくなった。目を伏せ、シニカルな笑みを浮かべ、
「努力……ね。彼女とは同い年だから、経験の差はそれほどないわ。それに……努力じゃ超えられない壁なんて、いくらでもあるもの」
 言ってみて、単なる挑発の文言でないことに気付いた。それは、南利美が、確かに持っている考えのようだった。それが証拠に、利美の思考は、すっかり冷え切っていた。
(……無様ね)
 卑屈でもなんでもなく、敗北を認めている自分。そんな自分に怒りも覚えない自分が、どこまでも無様だった。己を嘲笑う利美の横で、人の立ち上がる気配がした。
「富沢?」
 見上げると、レイが立ち上がり、背を向けていた。ロープに手を伸ばし、肩を震わせる。
「上がって下さい。……スパーリングしましょう」
 背中越しの言葉は、いつになく荒い語気を孕んでいた。一瞬、利美が目を見張るほどの強い意志。そしてレイは返事を待たず、エプロンを踏み越え、ロープをくぐってリングに入った。その後姿に、まるで誘われるように、利美も。

 言葉も無く、準備運動もせず、レイは既に構えている。重心を低くし、アマレスのような構えで、利美の出方を待っているのか。ゴングを鳴らす必要はないようだ。
 今の二人の実力差を簡単に言うならば、「大人と子供」と言うのが手っ取り早いだろう。「歳の離れた兄弟」でもいいかもしれない。そのくらい地力の差がある上に、レイは利美の弟子として練習しているのだから、手の内は全て知れている。どう転んでもレイの勝機はありえない。だから利美も、最初の誘いは断ったのだ。今こうしてリングに相対して立っているのは、彼女が本気でそれを望んでいるようだったからである。
 だが、何故それほどまでにスパーリングを希望するのかは解らない。髪の長いレイが前傾姿勢になっているせいで、表情も読めない。普段うるさすぎる彼女とは打って変わって、不気味なほどの静けさを保っている。
 相手の考えが解らないとはいえ、リングに立った以上は手加減はしない。試合前に怪我をしては困るから、お互い壊れない程度に真剣勝負だ。
 利美の身体が跳ねる。大きく前に踏み込んで、右手の掌底を突き出した。これは牽制の一撃であり、必殺技にはなりえない。鼻や顎に当たれば十分に人を殺せる技だが、プロレスには痛そうに見える受け方というものがある。当然、レイも巧く急所を外して打たせるだろうと利美は考えた。
 次の瞬間、利美は目を見張った。レイの頭は、打点をずらすどころか、掌底に向かって加速してきたのだ。手に頭突きを喰らわせたようにも見えるが、掌底は完全に顎に決まっていた。
(こいつ、何を……!?)
 驚愕は一瞬。だが、その一瞬があれば十分だった。レイの身体が舞い、その脚が利美の腕に絡み付く。その勢いと重量を支えきれず、利美の背がマットに落ちる。
(嘘、これって……!)
 二人してマットに倒れ込み、レイの両手が利美の手首を捕らえ、両足は利美の肩に噛み付いている。レイが仕掛けているのは、飛びつき腕ひしぎ逆十字。サンボ発の、シュートにおける瞬殺のマジックと言われる高難度のサブミッション。
(甘いッ)
 未熟者には早すぎる技だ。技が極まる前に利美は身を起こし、あっさりと脚を振り払った。後は手首のロックを外して、フェイスロックに持ち込んでやる。利美が仕掛けようとした刹那、レイの両手は、捕まえていた利美の手を自ら離した。そしてレイの身体は利美の視界から消え、その背に回り込んでいた。二人してうつ伏せで、利美の上にレイが乗っている格好である。
(マズイッ)
(隙だらけ)
(立て直ッ)
(腕!?)
 反射の速度で思考し、咄嗟に動こうとする肉体を嘲笑うかのように、背後から伸びた腕が首にかかる。更に左脚が、自分の意思によらない力で持ち上げられたのも感じた。
(嘘!?)
(この体勢はッ)
(首、脚、――STF!?)
 STF――ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック。顔締めと膝折りを同時に極める複合関節技であり、全身を痛め付ける強烈なサブミッション。どう考えても、今のレイの手に負えるレベルの技ではない。だが、現に利美は、その技で全身を締め上げられている。何箇所からも訪れる激痛は、痛みの発生源を理解させないほど、間断なく全身を駆け巡る。
 油断があった、虚を突かれた――どんな理由であれ、今度のSTFは、先程の腕ひしぎとは違い、がっちりと極まっている。タップするべきか否か、秒に満たない逡巡をしていると、その決断が出るより早く、レイの唇が震えた。
「これでも……! 努力は無駄だって、言えますか! 二つ年下の後輩に負けても、才能の差だって言い訳するんですか!!」
 格下と侮っていた相手に手玉に取られた。その屈辱が、関節の痛み以上に利美の心を締め付ける。利美の中で、何かが崩れ始めていた。
「もっと言わせてもらうなら……!」
 自信、誇り、威厳――全てが音を立てて崩れていく。光の差さぬ泥沼に沈み込んでいきながら、自分の中で萎え始める闘志を、利美は確かに感じ取った。
 もう、何も無い。闘う意義を見失い、闘う意思を放棄して、力無い手でマットを叩こうとした頃、レイの声がどこか遠くから響くように、しかしはっきりと聞こえた。

「今の南先輩に負けるような人は、ウチにはいません!!」

 ――眼が、開いた。
 目の前に見えたのは、新女に所属する選手たち――このジムで日々の練習を共にし、ぎらぎら輝くライトの下で共に闘う仲間たちの顔。花形もいる、中堅もいる。ベテランも新人も、練習の鬼もいれば不真面目な連中もいる。けれど、そこに利美の姿は無い。
 そして気付く。彼女たちは、笑顔だ。苦しい日もあれば、辛いこともある。華やかなだけではないこの世界だが、彼女たちはこの日常を楽しんでいる。それは決して真剣味に欠けるということではなく、生命力に満ちた、充実した生き方をしているように見えた。不安や恐怖、嫉妬や羨望、悲しみさえも受け止めてみせる度量が、その笑顔の奥に垣間見えた。
 ――ああ、そうか。きっと、これが答えなんだ。
 鎖は砕け、瞳はゆっくりと上を向く。ずっと暗闇だと思っていたこの世界でも、上を向いたら光はあったのだ。
 太陽に向けて不敵に微笑む。心は、軽くなっていた。

 利美の身体が、跳ねた。密着して攻めているレイには、相手の身体の中で何かが爆ぜたかのような衝撃が感じられた。自由に動く右脚一本の力で、利美は二人分の体重を軽々と跳ね返して見せた。二人の間に生まれた薄い空気の層。それだけの隙間があれば、切り返すのは彼女にとって造作もないことだった。
 瞬く間に、次々と外されていく関節の捕縛。危険を察して離れようとする身体を逃すこともなく、利美の手足は、一秒前と正反対の体勢にレイを捕らえていた。全く同じ形の、しかし完成度は段違いの完璧なSTF。
 何も考えていなかった。意趣返しなどという意地悪な理由ではなく、利美の肉体が咄嗟に選択したのがSTFだった。恐らく必死で練習したのだろう後輩への、せめてもの敬意だったのかも知れない。無我夢中で締め上げる利美が我に返ったのは、レイのタップが痛覚を刺激するほど必死なものになってからだった。


「……ごめん、やりすぎた」
「いえいえ、先に仕掛けたのはこっちですから。……まあ、正直、死ぬほど痛かったですけど」
 二人はマットに大の字で寝転がって、薄汚れた天井をぼんやりと眺めていた。
 ひどい有様だ。関節は悲鳴を上げているし、全身汗でぐっしょり濡れて気持ち悪い。しかし、二人の表情は晴れやかだった。全身の痛みも、どこか心地よい疲労だった。
「……ありがとう」
 何気なく呟く。レイは一瞬反応に窮したが、すぐにいつもの元気な声で答えた。
「どういたしまして」
 仰向けでマットに寝転がり、脱力した身体で天井を見上げる。何となく感じる既視感。その答えは、すぐに見付かった。そう、あれはもう一年以上前――
「私、ハンとは一度闘ったことがあるのよ」
「そうなんですか?」
「お互い、デビュー戦でね」
 利美が新女に入団して間もない頃の話だ。道場破りとして訪れ、新女に入門した破天荒な新人、南利美。サンボのジュニア王者として名声を勝ち取った後、プロレスに転向した期待の新星、ナスターシャ・ハン。大型新人同士のデビューシングルマッチに、日本中が期待の目を寄せた。
 ……ひどい試合だった。利美の打撃は悉く空振りし、ナスターシャの的確な関節技が次々と利美の身体を痛め付けていく。極め技への対処法も知らない利美を適当なところで放し、またぶつかっては締め上げる。その繰り返しで疲弊しきった利美は、最後は単純なチョークスリーパーで締め落とされた。セコンドやドクターが駆け寄って騒ぎ立てる中、うるさいくらいに眩しいライトの光が、ひどく脳裏に焼き付いている。
「悔しくて、関節技の猛特訓を始めたわ。半年もする頃には、新女の中でグラウンドで負けることはなくなってて、他団体に殴り込んだりして……ああ、市ヶ谷と組むようになったのも、その頃かしら」
 南利美ファンの間では、結構有名なエピソードだ。彼女だって、最初から関節技の名手だったわけではない。しかし横で寝ている後輩にとっては初耳だったのか、時々感嘆の声を漏らしていた。
「因縁の相手だったから、少しナーバスになってたみたいね。でも、貴女のお陰で、少し吹っ切れたかも。……ありがとう、富沢」
 礼を言う利美の顔は優しく微笑み、今までの張り詰めた表情はどこかへ消えていた。それを見てレイも笑顔を返す。頬を桃色に染めた、可愛い笑顔だった。
「あのぉ……それじゃあ先輩。その……二つほど、ご褒美が欲しいんですけど」
「二つ? 随分贅沢ね」
 そう言う利美だが、別に嫌そうな顔はしていない。子供のわがままに困る母親のような優しさが見えた。了承の意を伝えると、レイはすっと身体を起こし、利美の方に這い寄る。黙ってその動向を見守っていると、レイの顔がゆっくりと利美の顔に近付いていき――やがて、二人の唇が触れ合った。
「――? ……〜〜〜〜〜〜っっ!?」
 一瞬の当惑の後に訪れる驚愕。何度か瞬いてみても、そこにあるのはレイの閉じられた瞼のみ。事態が把握できず、利美の手は暫く中空を彷徨っていたが、やがて落ち着いたのか、それとも諦めたのか、両手が力なくマットに落ちた。
 レイの唇は柔らかかった。二人が離れるまでの数秒間で、利美が認識できたのは、そのくらいだった。
「えへへ……これが一つ目です」
 舌を出し、悪戯っぽく笑う。けれど、その頬は真っ赤に染まり、瞳は熱く潤んでいた。恐らく、今の利美も同じような表情をしていることだろう。だって、脳を茹でられたみたいに、こんなに顔が熱いだなんて。
 利美が未だ動けないでいると、レイは身を起こし、女の子座りに姿勢を正した。
「私、先輩のこと、大好きです」
 気持ち良いほど真っ直ぐな告白。冷えかけた頭が、再加熱されている。
「私、弱いし、バカだし、年下だし……気の利いた台詞も、ためになる話も言えませんけど……先輩は、いつも気を張りすぎだと思います。カッコイイ先輩は私も好きだけど……わ、私といる時ぐらいは、気を抜いて下さい」
「気を、抜く……?」
「そうですっ。よそではどんなに気張っててもいいですから、私の隣にいる時だけは、笑ったり、泣いたり、愚痴ったりして下さい。私、頼りないでしょうけど、気楽さには自信がありますから! いっつも頑張ってる先輩が、その時だけは頑張らなくて良いように、一緒に笑ったり泣いたりしますから! ……これが、二つ目のご褒美……というか、お願い、です」
 一息に言い切って、レイは大きく息を吐き出した。脱力しきっているのか、どことなく元気がないように見える姿は、普段の彼女とはまるで別人だった。
 貴女の隣に居させて欲しい。それが、彼女の願い。尊敬する先輩の笑顔が見たい。大切な人を笑顔にしたい。大好きな人の笑顔を、一番最初に見れる人になりたい。それはとても純粋で、この上なく献身的で、ひどくわがままな恋心。その想いが、今日まで彼女を動かして来たのだろうか。その熱病が、いつも明るい彼女をこんなにも震わせているのだろうか。
 その純情にどう答えるべきかと考えるより先に、利美は己の中にある、掴み所が無くて、切なくて、仄かに甘い香りの靄に気付いていた。そして、一層熱くなる頭と、同じくらい熱い胸の痛みも。――それは、彼女と同じ病?
「……やっぱり、二つってのは贅沢ね」
 利美の呟きに、震えていたレイの肩が一度だけ跳ねる。そして、より速く小刻みに震える肩に、利美の手が伸びた。優しく抱き止めるような両手。恐る恐る顔を上げたレイの、可愛く震える唇を、利美の唇が攫っていった。
「……え?」
「これで、一つ目はチャラにしてあげるわ」
 先程の利美と同様に、呆然としていたレイだったが、数秒の思考時間の後、涙いっぱいの笑顔で、利美に抱き着いて来た。優しく背中を叩きながら、利美の心は、期待と不安と、それを包み込むほど大きな安心感を覚えていた。
 この気持ちが、彼女と同じものかは解らない。けれど、今は放したくなかった。誰よりも強くて優しくて、情けないくらい甘えん坊な、この少女を。

 二人の想いが、初めて通い合った夜。
 “関節のヴィーナス”誕生に日本中が沸き立つ、その前夜の出来事だった。




 あの日から二人は、多くの日々を共有してきた。闘う場所も、二人の立場も大きく変わってしまったが、この唇の温かさは、ずっと変わらない。
「ン……」
 唇が離れて、誰からともなく呻き声が漏れる。紅の差した顔で見詰め合い、暫し。
「もう大丈夫ですか?」
 にっこり笑い、レイは手を放した。自由になった身体に、一挙に押し寄せる寂しさ。その寂しさに負けて、口が勝手に次の言葉を発してしまいそうになる。その先を言うのは、自分の弱さに負けること。それは利美にとって屈辱だった。
 ――けれど、今だけは。今は、負けていいんだ。
「あ、あの……レイ」
「はい?」
 他の何者に負けずとも、私の前でだけは弱さを見せてほしいと乞われ、自分もそれを願った。
「その……まだ、少し怖いの……だから」
 だから、その普段の凛々しい姿からは想像も出来ないほど弱々しい顔を見ても、彼女は笑顔でこう言うのだ。
「もう。しょうがないなぁ、利美さんは」
 そして再び、利美の身体を抱き寄せた。腰と肩に回された手には、柔らかく、しかし頼もしい力強さがあった。それだけで利美の身体は、これから始まる睦事への期待で震えているというのに、レイは容赦が無い。顔を寄せ、再び利美の唇を奪った。先程までの、慈愛に満ちたキスとは違う。利美の全てを奪い尽くさんとするような、情熱的なベーゼ。
 レイの唇が、貪るように利美を攻め立てる。唇という、柔らかい部位での接触なのに、まるで肉食獣の爪や牙のように、利美を喰らい尽くそうと吸い付いてくる。ほんの触れるようなキスでも羞恥に身を捩る利美にとって、彼女の接吻はいつだって濃厚で、刺激的で、官能的だ。
 熱に浮かされ、蕩けた頭はすっかり脱力し、口が半開きになっていく。その隙を見逃さず、唇の隙間から伸びた舌が、ぬるりと口中に侵入を始めた。驚き、一瞬は身体を硬直させた利美だが、すぐにそれも受け入れた。
 ――キスする時、舌を入れるなんて驚愕の事実も、レイに教えられたことだ。初めてそうされた時、思い切り舌を噛んでしまい、大変なことになった。それから幾度となく逢瀬を重ねて、今では彼女の舌に口腔を蹂躙されるのも、快楽の遊戯と感じられるようになってしまった。まだ、積極的に舌を絡めることは出来ないが、今夜は少しだけ恩返しをしたかった。容赦なく舐め回すレイの舌に、おずおずと舌を伸ばす。舌先が微かに触れ合った時、レイの瞳は嬉しそうに光った。
 気を良くしたのか、それまで腰を掴んで固定していたレイの右手が、ゆっくりと下りて行く。ディープキスに意識が集中していて、利美はそれに気付かなかったが、やがてびくりと震えた。
 ――レイに、お尻を触られている。
 背筋を、寒いものが駆け上がる。しかしそれは、一瞬の内に熱に変わった。レイの手が、ゆっくりと利美のお尻を撫で回す。触れるか否かという、ほとんど掠めるような強さの手付きは、撫でるというより、何かを誘っているようでもあった。その緩やかな恐怖から逃れようと、利美の腰が前に逃げるが、ぴったりとレイの手も追って来る。触れず逃さずと絶妙な距離を保つ愛撫に、利美の身体はまるで尿意を堪えるように強張っていた。
 眉根を寄せる利美から、レイの顔が離れる。久方ぶりに、新鮮な空気を吸った気がした。
「利美さん、こうされるの好きですね?」
「な、何を……」
「しらばっくれてもダメですよ。時々、お尻がヒクヒク動いてますよ。もっと強く触って欲しいんですよね?」
 意地悪そうに笑う恋人に、咄嗟に否定の意志を伝えようとしたが、それに先んじてレイの指がすっと再浮上する。脇腹から背中にかけてのラインを撫で上げると、利美の口から出たのは言葉ではなく、艶っぽい悲鳴だった。
「ひ、ぁっ……!」
 震える身体を必死で支えていた脚は限界を突破し、膝から崩れ落ちた。レイの手もそれを抱き止めはせず、そのまま利美はマットに倒れ込む。尻餅をついて、後ろに倒れそうになる身体を両手で支えた。
 無事に着地を果たして落ち着いたら、今の自分がひどく間抜けな格好をしていることに思い至った。体育座りのような体勢から立ち上がろうとした利美の肩が、上から押さえ付けられる。いつの間にか背後に回ったレイが、利美が立ち上がることを禁止していた。
「レイ?」
「まあ、そう焦らずに。どうせ最終的には寝転がるんだし、ちょうどいいじゃないですか」
 あっけらかんと言い放つ態度が、むしろ羞恥を加速させる。レイの顔も紅く染まってはいるものの、その言動は終始冷静で、利美を弄んでいるようだ。まんまとその思惑に乗って、一人でドキドキしている自分が馬鹿みたいじゃないか。ムキになって、肩の手を振りほどこうとする利美をあやすように、
「ああん、そんな怖い顔しないで。ちゃあんと、気持ち良くしてあげますから、ね?」
 レイは自分の頭の位置を利美の所まで下げ、彼女の首筋に啄ばむようなキスを落とした。途端、利美の身体から力が抜け、またレイの操り人形に逆戻りしてしまう。そんな彼女を嘲笑うかのように、肩を押さえていた両手が、紫の布地に隠された乳房に伸びた。赤子の頭を撫でるように、優しく丁寧な愛撫で、利美の全身に微弱な電流が走る。
 時に撫でるほど弱く、時に強く揉みしだき、しかし常に強すぎることはなく、丹念に愛撫していると、利美の性感が徐々に高まることを、レイは熟知している。彼女は、多少なりともマゾヒスティックな一面を持っているものの、最初から乱暴にされるのは好きではないのだ。
「気持ちいいですか、利美さん?」
「んッ、そんな、こと……」
「あら、気持ち良くなかった? じゃあ、やめちゃいましょうか」
「や、違ッ……じゃ、なくて、その……」
 そんなことない。ではなくて、そんなこと言えない。
 いつまでたっても処女のように初心な彼女に少しだけ意地悪をするのが、レイの秘かな愉しみである。やりすぎると拗ねてしまうから、その匙加減は三年という恋人付き合いの長さが弁えている。
(……うん、今夜は、もうちょっと攻めてもオッケー)
 レイの右手が、利美のコスチュームの胸部、開けた下部から素肌に直接触れる。そして、服の内側と外側から、より強く揉み始める。利美の口から、一際高い嬌声が漏れた。
「ああ、レイ……そんなに強くしないでぇ……」
「そんなに強くなんてしてませんよ。利美さんの綺麗なおっぱい、形が崩れたら大変だもの。すごいんですよ、利美さんのおっぱい。コスチュームの上からでも解る弾力と、指に吸い付くような柔らかさ……」
「そんなの、言わないでぇ……!」
 利美のコスチュームは、身体にぴったりとフィットするタイプで、彼女の見事なプロポーションを鮮明にしている。スマートだが、柔らかい曲線を描く肢体は、正にヴィーナスと渾名されるに相応しい美しさである。
「利美さん、技術だけじゃなくて、容姿やキャラクターも大人気なんですよ。ムカつくからこっそり処分してるけど、本気でラブレターじみた手紙まで書いてくるファンがいるんだから。利美さんの技を見て自分も極められたいとか、利美さんが攻められてるのを見て自分も苛めたいとか思ってる人、男の子も女の子もいっぱいいるの。利美さんで初めてオナニーを覚えた子も、いたりしてね?」
「〜〜〜〜〜ッ!」
 羞恥心の許容量を超える言葉責めに、利美の肌が熱射病に陥ったように真っ赤に染まっていく。目尻には、うっすら涙も浮かんでいた。今の彼女には、このジムのリングが、大観衆に囲まれた大舞台に思えているのだろうか。それならばきっと、観客たちは食い入るようにして彼女の痴態を観察しているだろう。乳房への愛撫だけで快感に咽び泣く女神の姿に興奮して、人目も憚らず自慰に耽る不埒な輩も、それこそ居るだろう。
「――でもね、利美さん?」
 二本指で思い切り、震える乳首を捻り上げた。突然の痛みに、利美の意識が瞬時に引き戻される。なおも続く乳首への攻撃で、既に痛みを越え、更なる快感として利美の身体を蕩かしていく。
「今ここには、私しかいないんだよ。利美さんの恥ずかしい姿を見てるのも、利美さんの感じる所をいっぱい苛めてるのも、利美さんの可愛い声を聴いてるのも、全部私だけの特権。私以外には、絶対許さないんだから」
 耳元で囁かれる愛の言葉。独占欲ではあるけれど嫉妬はない、絶対な自信に裏打ちされた愛の語彙。鈴のような声が鼓膜を打つたび、利美の中にある恐怖や羞恥が少しずつ薄れていく。それと反比例して、背中に感じる温かさが、利美の心に安らぎをもたらしてくれた。それをレイも察したのか、首筋に再び優しく口付け、
「だからね、利美さん――」
 レイの左手が、肋骨を撫でるように下へ伸び始め、
「私の前では、思い切り乱れていいんだよ?」
 既にねっとりと熱を持った、利美の秘泉に指が触れた。
「ひぁっ――!?」
 コスチュームの上から押し付けるように、レイの指が利美の股間に触れている。微かだが、深夜には良く響く、湿った音が聞こえた。





「あれぇ――これ、汗じゃないですよね?」
 股間部分の紫は、楕円形に黒く変色していた。二度三度と指でこすると、その音は更に粘着性を増し、黒色もじわりと広がっていく。その音が鳴るたび、心臓に大量の血液を強制的に送り込まれているように、利美の肩が小さく跳ねる。しかしレイは攻撃の手を休めず、布地ごと利美の肉壺を味わうかのように指をめり込ませる。水音に呼応して、利美の口から出る声も次第に大きくなっていった。
「いやぁ、レイ……そんなにしないで! 私……おかしくなっちゃう!」
「おかしくなってよ。おかしくなっちゃった利美さん、私に見せて!」
「はぁぅ……っ!」
 秘所を愛撫する傍ら、もう片方の手は依然として乳房を責め立てている。乳首を摘まみ上げるたび、陰部に指を蠢かせるたび、水音は強くなり、口から漏れ出る嬌声は必死に堪えてもどんどん溢れ出て来る。
「てゆーか利美さん、もうおかしいかもね。いっつも思うんだけど、敏感すぎ。コスの上からでこんなに感じるなんて、ちょっと異常ですよ?」
「やぁっ……レイだから、レイに触られてるから、そうなるの……っ!」
「あら、私ってそんなにテクニシャン? 嬉しいなぁ、それじゃ期待にお応えして」
 ぺろっと耳朶を舐める。突然の追い討ちに、それまで抑えていた声が、一気に弾け口から飛び出た。
「はっ、はぁっ、んあぁぁ〜ッ!!」
 その嬌声に負けてたまるかとばかりに、秘所から零れ出る愛液も、一層勢いを増し、繊維を伝わって垂れた雫がマットを濡らし始めた。完全に力の抜けた利美は、レイにもたれかかるように体重を後ろに落とした。背中に伝わるレイの鼓動は、自分の息と同じくらい荒立っていた。

 衣擦れの音がする。
 快感の爆発で、意識に靄がかかったようだ。利美は、マットに仰向けに寝転がっていた。もしかして気絶していたのだろうか。背中を支えてくれていたレイはどこに行ったのだろう。そう考えたところで、先の衣擦れの音の正体が気になった。ぱさりと、何かが落ちる音がする。それは利美の頭の上の辺りで聞こえたようだ。
 そこまで分析して、やっと利美は気付いた。自分の目の前――つまり上空にある色に。
「あ、利美さん、気が付きました?」
 レイが、自分の頭上に立っている。しかし、その姿は、下半身が全て肌色だった。つまり彼女は、コスチュームのパンツ部分を脱ぎ捨てていたのだ。
「レイ、何を……!」
「何ってナニに決まってるじゃないですか。いくら私がタチだからって、するだけ奉仕させて気絶しちゃうなんてズルイですよぉ。全裸が礼儀だと思ったけど、もう我慢出来ないのでこのまま……」
 見下ろしながらそう言って、レイは邪悪な笑みを浮かべた。ゆっくりと腰を落とし、四足歩行の獣のように、のそのそと前に出る。利美の視点では、上から視界に入って来たレイの顔が最初に見えて、次第に下がっていくように見える。我慢出来ないという言葉通り、上半身の衣装は残っている。可愛らしくくびれたウェストを見届けた後、鮮やかな茂みが目に入った。
「ほら、利美さぁん。見て下さいよ。私、利美さんのこと苛めてたら、こんなに濡れて来ちゃったの……」
 レイは自分の秘所に手を伸ばし、朝露に濡れたように黒光りする叢をかきわけ、その入り口を自ら開いて見せた。グロテスクな肉の扉の奥には、彼女の膣口と、その傍で小さく屹立して存在を示す淫核が、今か今かと期待にヒクついているのが見えた。そしてその周辺は、汗をかいたようにじっとりと濡れている。
 ――レイも、感じてたんだ。
 その事実を認識して、少しだけ心が軽くなった。レイの腰がゆっくりと下りて、利美の顔に近付いて来る。
「ね、利美さん……私にも、してぇ」
 少し首を傾ければ触れられるほど、レイの股間がすぐ目の前にある。毛先から香り立つ雌の匂いが、利美の脳を甘く痺れさせる。正常な思考は既に失われていたのか、それとも自分と同じように快感を露にしている恋人を愛しく思ったのか――ともかく、意外なほど自然に、利美はそこに舌を伸ばしていた。
「あン、そう……気持ちいいよぉ。利美さん、もっと舐めてぇ」
 クリトリスを舌でつつくように舐めていると、レイが甘い声を上げて腰を揺らす。その動きが新たな刺激となって、彼女の腰を痺れさせていた。利美の舌遣いは、まだどこか臆病で、決して上手とは言えないものだったが、レイは何度も甘ったるい嬌声を絞り出し、それを証明するかのように肉壷から口移しで蜜を飲ませてくれる。それが利美には、どこか背徳的な意味すら持っている快感に思えた。
 レイの方も、世辞や演技で嬌態を演じているわけではない。あの堅物で奥手な利美が、自分の最も恥ずかしいところを、おっかなびっくり舌で愛撫してくれていると思うと、それだけで達してしまいそうになるのだ。快感でだらしなく開いた口から垂れた涎が、目の前にある利美の秘部を濡らした。
「うふふ……私も、もっとしてあげますね……」
 黒く濡れた楕円に舌を伸ばす。衣装独特の質感は既に失われ、じっとりと濡れた気持ち悪さが舌先に纏わりつく。再開された攻撃に、利美からの愛撫が中断された。しかしレイは、特に気に留めることもなく、嬌声をBGMに舐め続ける。舌で押さえつけるように愛撫していると、その箇所に変化が見え始めた。
「利美さん、すごい……カタチ、浮き出ちゃってますよぉ」
「ん、ぷぁっ……そんなこと、言わないで……」





 リングコスチュームはその用途上、たっぷり汗を吸っても、ほとんど透けないように作られている。にも関わらず、レイの視線に晒された利美の恥丘は、布地が肉にぴったりと張り付いて、その形がくっきりと浮き彫りになっていた。
「利美さんってば、濡れすぎですよぉ。試合中にこんなに透けちゃったら、カメラ入れられなくなっちゃう」
「だ、だからそんなこと言わないでよ……!」
 利美の羞恥心を煽る言葉責めに、いやいやと身を捩ったが、この体勢で逃れる手立てはない。利美の輪郭を確かめるように、じっくりと指を這わせながら、なおもレイは弾んだ声で残酷に責める。
「でもホントに、ほとんどコスの上からしか触ってないんですよ? この調子じゃ、試合中でも感じちゃうんじゃないですか? ハン選手に極められて、胸やお尻を触られてると思って濡れちゃうとか。そうなったら彼女も試合どころじゃないですね。お子様も見に来てるリングで、公開レイプショーになっちゃったりして」
「いやぁっ……そんなこと言わないで……」
「あぁ、心配だなぁ。そんなことになったら私、泣いちゃうかも。氷の女王に勝てる自信ないもの。イワン女に利美さんを寝取られちゃったりしたら……悲しくて、死んじゃいそう」
 口では拒絶しているが、その光景を妄想して利美の快感が加速していることは疑いない。マットに垂れた蜜が溜まり始め、失禁したように広がりを見せている。彼女は今、灼熱のライトの下、ナスターシャの細長く逞しい指で全身を撫で回され、口腔や耳の穴、果ては眼球にまで舌をねじ込まれる痴態を、万人の大観衆に視姦されている。レイはただ、それらの羞恥を代表して彼女を愛撫しているに過ぎない。
 調子に乗って更に凄惨な情景を創り出してやろうとしたが――秘所から零れる蜜よりも熱い液体が、利美の瞳から流れ出していた。涙声が、レイの耳に届く。
「どうしてそんな意地悪を言うの……私にはレイしかいない、私は、レイ以外は誰もいらないのに……! ひどいよ、ひどいよレイ……!!」
 悲痛な声に、レイの指が止まる。下敷きになっている利美の身体が、不定期に跳ねる。そのたび、彼女の口から嗚咽が漏れた。
 頭が一気に冷える。悲しみと怒りと――喜びが、一息に押し寄せて来る。
 彼女を泣かせたのは、これで――三度目。けど、そんな冷たい涙を流させたのは、きっと、これが初めて。
(大人気ないなぁ……私のバカ)
 すっかり忘れていた。二つも年上だけど、彼女は可愛い可愛い、私の大切な仔猫ちゃんなのだ。一転して優しい口調に変わり、囁く。
「ごめんなさい、利美さん。意地悪しすぎました。お詫びに……」
 言いながら、再び股間に手を伸ばし、
「利美さんのしてほしいこと、な〜んでもシテあげます。何してほしいか、言って下さいな♡」
「やっぱり意地悪じゃない……!」
 声のトーンで少し安心したものの、再び利美の声が濁る。その声を遮るように、レイの腰が落ちて口を塞いだ。
「じゃあ、言わないでいいから……態度で示して下さい。利美さんは私だけを愛してくれるって……レイは利美さんだけのモノだって、刻み込んで欲しいの……んんっ!?」
 求愛の言葉が終わるのを待たず、利美の舌がレイの膣口に突き刺さった。今までの彼女からは考えられない、荒々しい舌遣い。子宮まで舐め尽くそうとせんばかりの奇襲に、レイのヴァギナは歓迎の愛液を噴き出す。利美の口周りが、熱い果汁で絶えず汚されていく。口に入ったものは空気と一緒に飲み込んで、休みなく愛撫を続ける。
「すっ、すごぉい……ひゃっ、とっ、利美さ、ん……そんなに、はげ、激しく、したらぁ……!」
 普段が攻め役とはいえ、快楽にも相応の耐性を持っているはずのレイが、呂律が回らなくなるほどの衝撃。あの利美が、迷いも怖れも羞恥も捨てて、一心不乱に自分を貪っていることが、あまりに予想外の悦びを与えていた。
「ひぁ……わ、私も、いっぱい、してあげるねぇ……」
 負けじと、利美の秘部を守る衣装をめくり上げる。外気に晒された陰部からは、今まで抑えつけられていた雌の匂いが、むわっと立ち上った。彼女の清楚な顔からは想像も出来ない、生々しい性の香りが鼻腔を刺激し、自然とレイの指は肉壷に押し入っていた。
「はぅっ……!」
「あはっ、いきなり二本も入っちゃった。これだけ濡れてたら、馬のオチンチンだって入りそうですけどね」
「んっ……むぅっ」
 反論するよりも、態度で返すつもりだろうか。利美は文句も言わず、舌攻めを再開した。相変わらずの乱暴な愛撫に、腰が砕けそうになるが、負けていられない。彼女の愛情に応えねばならない。肉襞の感触を堪能するようにねっとりと指を暴れさせながら、淫核を舌でつつく。
「んぶぅっ、うん……ふぁっ!」
「ひぁぅっ!?」
 利美に刺激を与えれば、その反応が愛撫にも影響を与え、結果的に更なる性感をレイにもたらす。三本目の指を差し込むと、ヴァギナがきゅっと収縮し、指をきつく締め上げた。同時に舌による愛撫も、鬼気迫ったように荒々しさを増していく。
「うぁぁっ……利美さん、私、もうっ……」
「んんンっ……ぷぁ、レイ、レイぃ……!」
 膣がひくひくと蠕動し、指と舌を舐め回す。限界が近いと悟った二人は、もはや意味のある言葉も発さず、獣のように無我夢中で恋人の蜜を求めた。汗と涙と愛液が顔中に塗りたくられた頃、二人の頭は真っ白になり、意識は忘我の彼方まで追いやられていた。
「ふぁっ、アァッ、はっ、イッ、……あっ、ああッ、アァァァーッ!!」
 最後に一際高い声を上げ、二人は全身を痙攣させながら愛液を放出し、やがて糸の切れた人形のようにマットに沈んだ。六十分の試合に勝るとも劣らない疲労が全身にのしかかっていたが、二人の表情は穏やかだった。荒い息も、今はお互いの子守唄のように聞こえた。


 ――私は、随分と長く走り続けてきた。
 走り続けて、やっと手に入れたのは一握の砂。吹けば飛び、投げれば消えそうなその砂は、きっと希望と呼ばれる砂だった。余計な殻を脱ぎ捨てて、重い鎖を投げ捨てて、裸になってやっと見つけた、誰もが持っている最後の財産。その名を教えてくれた彼女に、私は全ての愛を捧げよう。最高の夢を見せてやろう――





 大歓声が、遠く地鳴りのように響いてくる。熱狂の爆風が、一つの祭りの終焉を告げていた。
 吉原と斉藤のタッグは、勝ったのだろうか。……それは、これから向かう廊下ですれ違う時の顔を見れば解ることだ。レイにとってはその程度の関心だったし、ウォーミングアップに余念の無い利美に至っては、あの遠雷が耳に入ってすらいないことだろう。
「そろそろ時間ですよ」
「そう、丁度良かったわ」
 肉体は温まったらしい。全身に薄っすらと汗を滲ませながらも、その表情は清々しかった。既に今日の白星を上げたレイは、自分も疲れているだろうに、利美のセコンドを買って出てくれている。その後輩の前で、しょぼくれた顔を見せるわけにはいかない。
 控え室を出て、花道へ続く廊下を悠然と歩く。利美の歩みは淀みなく、その背中はいつかの夜より一段と大きく見えた。ふと、顔を傾けるでもなく、利美が言った。
「レイ。私のサザンクロス・フェイスロックのことだけど」
「え、はい。何か?」
 サザンクロス・フェイスロック。利美が必殺技(フィニッシュムーブ)として愛用するSTFの愛称だ。あの日――今夜と同じ、ナスターシャと雌雄を決した勝負の日以来、利美が最も得意とする関節技。南という苗字と、組み付いた体勢が十字に見えることから名付けられた。命名者は、表向きには利美本人ということになっている。
「ちょっぴり改良してみたの。彼女相手なら、お披露目としては持って来いだろうから――」
 そして利美は振り返り、いつになく不敵な笑みを見せ。
「――オイシイ場面で、リクエストしてちょうだい」
 爪先から頭まで、冷たい電流が駆け上がる。これだよ、これが“関節のヴィーナス”の姿なんだ――総毛立つような興奮を必死で抑え、レイは少年のように眼を輝かせながら頷いた。それきり利美は振り返らず、ライトの下に躍り出ていった。
 今夜も、最高の試合になる。新必殺技に格好良い名前を付けてやらないと。それが、今のレイの最大の関心事だった。