部屋には時計が無い。壁にあるのは染みと人影、それも月光に映されたそれだけで、光になる物がこの空間には一切配置されていなかった。
「そろそろ帰れ…」
 何一つ無い暗闇の中で人影は動いている。目を凝らさなければ何も見えない亡霊の棲家にもちゃんと住人は存在しているのだ。這いずり回る淡い光のような、小さい音色を奏でてはそれ以上大きなため息を吐き出して音源であるモノトーンに膝を沈める。
「あ? あぁ」
 硝子が割れる音よりは大人しいが不協和音は人間の心臓にあまり良くない。それが耳を襲えば確実に飛び起きるだろうに、部屋の隅にある影すらも無い存在はほんの少しの身動ぎだけをしたかと思えば窓辺まで這い出し。
「起きろ、馬鹿」
 眠った。いや、正確には多分寝る体勢に入っただけだと、そう思いたい。何せ本当に寝られてしまってはあと数日間確実に住居に居座られる。思えば例え面倒であっても重い腰を上げずにはいられなかった。

 濃厚な酒の香り、煙草を飲みかけて止めた跡。そんな自堕落な生活が色濃く見える棲家は良くも悪くも黄純の借りたアパートの一室である。家賃は払っていない、払うつもりもあまり無い、追い出せば出て行くだろうしそうでなければ居続けるのかもしれないし案外棺桶に入って出てくる可能性だってあるのだろう。
「全く、起きろって言ってんだこの…」
 言いかけて、どうせ聞こえないのだろうと口を噤む。
 そんな風に居場所を作った筈だというのに、意外と昔の仲間というのは切れるものではないらしい。落ち着いた、と思えば昨日の早朝あたりだっただろうか、部屋のドアが勝手に開いたかと思えば何かしら物が盛大に落ちる音と半分目を開けたような、開けていないような。
「馬鹿ばか言うんじゃねぇ…、このおかま」
 ああ、拾わなければ良かった。ベッドの上に座り込みスケッチブックを取り出してそのままの赤雷を。そうなのだ、時間という概念の無いこの部屋で何をしに来たのか行き倒れよろしく、よく寝る生き物を拾ってしまったのだ。
(この野郎…)
 何をしに。これについてはある程度黄純にも察しはついていた。ごくごく簡単に自分の絵でも描きに来たのだろう。そういえば以前守る気もしないような約束をしたかもしれない。ただ、気に食わないのは寝場所を奪った挙句に描くのか描かないのかはっきりしない態度。描いてくれと頼んだわけでも、ピアノの前で寝てもさして構わなかったが人に取られるとなると黄純、ご立腹。という理由が出来る。
「どうせここで寝てないんだろ。 俺一人位でガタガタ騒ぐんじゃねぇ」
「人ん家来てふてぶてしすぎるんだよ、さっさと出てけ」
 この押し問答が確か今朝方あたりからだっただろうか、ひっきりなしに続いている。お陰で作曲はおろか、自分の身の動きようさえ黄純には分からなくなっていた。

 側に人が居る。そんな環境に慣れているか、答えがあるとすればそれは昔なら慣れていただろう。である。別段誰かの存在が気になる性分でもなかったが、他の仲間達ならいざ知らずこと赤雷に関してはちょっとした何かが邪魔をしている。
「いびきが五月蝿いんだよ、おら、さっさと立ちやがれ。 玄関はあっちだ」
 ベッドに近寄り襟元を掴んで引き摺り下ろす。それでもまだ身体の体重が自分の腕に預けられたままだというのには感服だ。
「ったく…お前は何がしたいんだ…」
 言って散らかったままの床に黄純も座り込む。
 温かみの無い床にはあまり座り込みたくも無かったが赤雷の身体もそこに横たわっていると思えば多少は温かく感じられるのかもしれない。実際はただ冷たいだけのそれだったが。
「いや…別に?」
 首根っこを掴まれた状態の頭は黄純から見て後ろを向いていたが、ふいに、その首がくらりとこちらを向いた。所謂膝枕状態で月明かりに照らされた視線が交差する。同時に今まで持っていたというのに初めて、赤雷の持っているスケッチブックから軽く鉛筆の走る音がした。
「今から描き始めてんじゃ、世話ないね」
 眉を顰めると、蕩けるような瞳が薄く笑う。
「…見えなかったんだ」
「あぁ?」
 消え入りそうな声は多分彼がそろそろ睡眠に落ちる。という合図にも聞こえる。
「あのベッドの位置からじゃ…、見えないんだ」
 追い出してやろうか。いっそこのまま襟元をきつく引きずって玄関先に放り投げて。ついでに衝動という言葉を借りてそのまま自分も窓から飛び降りてやろうか。
「そうならさっさと好きにすれば良かったじゃないか」
 全く、頭痛で逝けそうだった。口元はだらしなく笑いかけているし、目元はたれているし、自分より濁った金色の髪は重力に負けて目と同じようになっているのに。

「俺みたいに、好きにすればいいじゃないか」

 襟元から胸元へ指を滑らせる。そこからまた下へ、服の存在すらも無視して赤雷の頭のように眠り始めているそれを包み込みゆっくりと握りこむ。
「……っ」
 決して不快ではない、だからと言って良くもない。少なくとも黄純にはそう聞こえる。即物的とも言える性的な刺激に対する赤雷の反応は確かに、彼は息をもって根付いているという気持ちにさせられた。
「寝るなよ」
 耳元で囁いてやる、この声に熱が篭っているなんて肯定してやらない。ただ、行為自体は意味の無い、服の布肌触りの悪い質感上から赤雷自身を撫で、握りこみ、その形をはっきりと認識する。とても事務的だと、そう思う。
(おかしいとは思わないの…?)
 関係か、情事か、どちらがおかしいのだと言われれば困る。強いて言うならどちらともなのだろうか、布地の下で次第に高ぶらせていくその欲とは裏腹に小さく吐息を吐き出す赤雷は今にも意識を手放しそうだ。かろうじて、黄純の指の感覚でまどろんでいる。
「ん…、なに…?」
「なんでも? なんでもないけれど?」
 おかしいのは、もしかしたら自分なのかもしれない。意識の奥底でそう思いながらも指先は服越しでも湿ってゆく彼自身を解放へ導いていく。元々細くなっていた瞳が閉じる瞬間に訪れる自分自身へ甘い痺れが待ち遠しいとでも言うように。
「ああ」
 言葉を紡ぐのに苦しい、傷口は黄純の身体の何処にも無いというのに、針がちくちくと何かを刺激している。
「きすみ、黄純。 …なぁ」
 スケッチブックと鉛筆の硬質な音が部屋を一瞬、支配した。ここにはもうピアノの音も、ましてや紙の上を走る愛おしい音も無くなっている。あるのは、小さな歓喜の悲鳴。或いは出口を失った溜息。
 そうしているうちに、黄純よりも男らしい腕が身体を抱き寄せている事に気がついた。
「…意地が悪いな…」
 どちらの言葉だろう。吐く息が互いの頬にかかる位置、そこにお互いが居る。
 けれどそれが口付けに変る事は無く、寸での場所で頬を啄ばむ様な仕草をした。赤雷が、いや黄純が、だ。口内を確かめるような舌の動きは皮膚の上で行われていて。

(…ああ、時計が随分五月蝿いね)

 赤雷の身体が震えている。自分の、ピアノばかり弾いている指が先程よりもずっと湿っている。意味している事は理解しているから、彼がもう睡魔に持っていかれているのはすぐに分かった。
「だから邪魔だって言ったんだよ」
 背中に回された腕に力が入っていないと確認するや否や、黄純は赤雷の身体から離れてしまう。ベッドで寝かせてやるべきか、そのままにしておいても文句は言われないだろう。
 ただ、無い筈の時計が随分と早く秒針を刻んでいる。その音が、視線をまた赤雷の無防備とまで言えてしまう寝顔に向けられる言い訳になってゆく。
「やめた。 曲は一から作り直しだ」
 メトロノームが規則正しいリズムを刻むとしたなら、今時を刻んでいる時計の音は正確な音すら奏でてくれない。
 硬質な足音、行き場の無い溜息はまだ部屋の中を行き来している。長い髪をかき上げ、つい先程まで熱を持っていた指を見れば細いそれに染めた金色が薄く、濡れた先を淫靡に見せた。
「次は無い。 次は無いよ、赤雷」
 とはいえ、こんな言葉を吐いたのはもう何度目だったろう。
 床に放っておくのも案外可哀想だとベッドに投げた彼の身体を背に、黄純はピアノの椅子に座り、伏せる。ピアノの上は全く整頓されていないがそれすら、今は赤雷の顔と同じくらい、眺めるだけで罪悪感すら覚える程、汚された無垢に思えた。その、すぐ後ろでもう一度人の気配が身動ぎするが後は自分も睡魔に身を任せるだけで、もしも気にしてしまえば。

 この部屋の時計がおかしくなってしまうかもしれない。


針=秒針=病身=身体//鼓動=心臓=動く