目の前にある温もりについ、触れてみたくなる時がある。
 空中ブランコのように揺れる腕についている、手を。その掌を眺めながら意外に細いものなのだと、らしくもない郊外の公園で佇みながら黄純は思った。
 隣には椅子に座りついでにそのまま睡眠中の赤雷が置物のように置いてある。
(何してんだろう、俺)
 自室に篭っていても暇だろう、の一言と偶々子供のように暖かな掌に黄純の掌を重ねられた事で赤雷の趣味のお供に来てしまった。それが今までの経緯ではあるが、如何せん、連れてきた者は椅子、連れられてきた者は地面、ついでに目的の絵画もほぼ全く全然進んでいない。
 続いているのは、数時間毎に思いついたように起き出しては絵を描き始め、すぐに寝てしまう。
「終わらねぇだろう…」
 椅子に座った赤雷に対し、体育座りもいい所の黄純は木陰でその寝顔を覗いてみる。案の定、眠っているだけの顔は柔らかくそのままにしておけば笑ってしまいそうな程無垢という言葉に近い。
 そうやって寝ては起きて、を繰り返すのだから、風景上にある人波や物は動き、起きた時にはまた描き直し。赤雷には失礼だが、黄純には意味の無い行動にさえ思えてくる。
(…終われ、さっさと終われ。 ていうか、なんで俺なんだ?)
 呪文というより呪いに近い気を発しながら黄純は自室に戻りたいと暇さえあれば念じ続けている。朝から付き合わされた時間は丁度昼、今まで失神の一つしなかったのが奇跡にすら思えた。それでも、同じ言葉を繰り返すにも飽きれば今度は宙を浮いている――実際は眠っている赤雷の腕が椅子からたれているだけなのだが――手を眺めるようにしていた。
(意外と皺が少ないな、指も長いけど…ちょっとごついか)
 最後には人様の手の感想までが脳裏をよぎり始める。個々が別々に動く人間の中、昔から黄純は赤雷と行動する事が多かったが身体の部位についてまでいちいち見た試しは無い。

 手。ふいに黄純自身が手を見れば今長いと評価した指よりも長く、爪もどちらかと言えば男性らしい骨格よりも女性のそれに近くなりつつあるものが目に入った。
 爪先も日ごろから気にしている形に整った黄純の手。
「…ふん」
 ふらり。目の前の掌が風に動き、黄純は赤雷の掌と同じ位置で見比べる。大きさ自体はそこまで変らない、ただ二人が別々の人間であるという特徴しか現さない形の違い。
 そんな事をしている黄純は傍から見れば変人以外の何者でもないのだろうが、木陰で体育座りをしている金髪の男と言うだけで十分にそういう風に見えるのに行動している本人には理解しづらいものだ。
(馬鹿馬鹿しい)
 一向に動かない赤雷の用事に付き合ってやるのもここまでか。見比べていた手で流れた前髪をかき上げ、立ち上がり高低差が逆になった頭をぽんぽんと叩いてやる。起きる筈は無いと、理解した上での行為にはやっている方もこのまま眠ってしまいたい位である。
(っても、俺のは永眠だな)
 立ち上がった頭から血が引いていくのはいつもの事だ、気にする必要は無い。頭をたれ、また視界に入る髪に眉を顰めながら赤雷の掌に指を這わせた。手の甲にはうっすらと血管が浮き出ており、指の先は少し固く、間接がしっかりしている。
「んん…? なんだ?」
 カンバスに置き去りにされている赤雷の腕が寝起きの状態を偵察する為に背後に回りこむ。
「べつに。 暇だったから手をちょっとね」
 黄純の頭を撫でるように動き回る手には力が入っておらず、言葉すらも「ああ、そうか」程度で赤雷の脳に届いただけのようだった。警戒心の欠片すら無い態度に何故か意識の中で体温と同じ温かみを感じる。
 少し屈んで両手共々右手は右手に、左手はとして椅子から引きずり下ろす。
 公園は昼間という事もあり人は居ても常時同じ人間が居る時は無く、何より寝ながらカンバスに向かう男と、不本意そうにしながら体育座りをしていた男の近くなぞに誰かが寄ってくる筈はまず、無い。
 黄純からしてみれば不本意、赤雷からすればどうでもいい事実だが、昼の区別がつかぬ木陰に下りた足を畳んで、間に只今睡眠中の身体を横にする。
 木の堅さは黄純の背中にあり、前には力無く横になっている赤雷の身体が、立つのも面倒と座り込んだ下には地面の確かな感触があった。
「ああ、やっぱり繊細な方か」
 意のままに操れる指の間に指先を宛がい角度を確かめながら一部一部の感触を見た。
 利き手の間接には分かる堅さが出来てい、親指の付け根はピアニスト程でなくともすらりと伸びている。そのくせ、掌の皮は厚く鉛筆の墨が灰色を帯びてそのままになっている。

 手を繋ぐ、いい大人になれば純粋な意味でその手を取る事など無くなってしまう。まれに、ふとした出来事からそうなったとして、例えば今別の温もりを感じているとは感じないだろう。
 感じないからこそ、時に意識した場合の思考回路は困惑と化す。

 暖かい。そう思うのは黄純も赤雷も同じ事ではあったが意識を手放していた方としては次第に暖かさが熱く湿ってくるのはどうにも夢に出てきそうだ。今までは確か持参した椅子に座っていた筈だと赤雷の睡魔は逐一確認を取る。
 連れてきた黄純は時々不服を言っていたがこの際関係なしに側に居る心地よさと日差しにそのまま身を委ね、静止した世界に居たというのに。
(寒い…いや熱い…?)
 覚醒しきらない頭は船を漕いでいて、赤雷の意思はというと幽体離脱のようにふらふらと辺りをさ迷い、偶に目に入る視界をぼんやりと観察していた。
 頬にかかる金色は柔らかい化粧の香りとどこか男を思わせる酒の香りがして、多少なりとも距離を置いていた黄純と現在、密着している事実を理解する。ただそれだけならば別にどうという考えもわかず、もう一つ両腕がそれぞれ手に手を取られ、利き手に湿り気のある熱を感じれば。
(あ、れ。 俺何やってんだ? …っ)
 自分は何もしていない。何かしている、されている、どういう経緯だったか何故なのか、考える暇も無く意識はただ睡魔と現実に漂い感情だけが先走る。赤雷の肩から身を少し、乗り出して黄純が手を舐めている。
 先を舐めたかと思えばそのまま下へと息を伸ばし付け根を押しながら時折溜息とも吐息ともつかぬ様子で視線を細め喉の底をこくりと鳴らした。
 時折見える赤い舌が蝶のように漂う。
「…っ、うう…」
 幸か不幸か赤雷の意識はまだ汚濁したままだ。いや、逆にそのまま肌に伝わる熱に駆られて焼け切れ、喚いてしまいそうな程に。
 自然な睡眠が混乱といたたまれない空気で不自然な波に乗る。
(この…っ)
 おかまの癖に。とでも叫んでやろうか。流されるままでは癪に障る、筈だというのにこうして触れられる感触を嫌悪出来ないと赤雷は思う。
 それは所謂哀れみか、こうなってしまって一度赤雷自身が問うた事もある。戦時中に大切な人を失った者への、行き場を無くした情愛かとも。勿論それは否に終わり、ただ側に居るという事実が心地よいから、そんな結論にまで達してしまっているのだから深く考えるのは精神に悪い。
 黄純が触れたければ触れればいい、赤雷も好きなようにやっているのだからと。

「――…ぁ」
 漏れる声は少ない。性的な行為をしているわけではないのだから当たり前ではあるが、白昼堂々公園でする行為ではないと黄純も赤雷も思う。
 やられている赤雷としては人目にはつき辛いという情報すら与えられていないのだから、余計に船を漕いでいた首筋がふいに堅くなり、落ち着いたと思えば頭をたれながら深い息を吐き出す。
「起きてるだろ」
 何度か面白い反応が見れた、とばかりに黄純が声をかければ、赤雷はただ肩を竦めその場に居づらそうにしながら荒い息を数度肺へ送り込んでいる。
 強情なのか、気分でも害したか、表情の見えない赤雷の温もりを求めて片手を開放し、腰に腕ごと回してやる。暖かい、体温は黄純よりきっととても熱いのだろう感じただけで心臓の後ろに火が灯りそうだ。
「ッ! いい加減にしろ…っこの、おかま…」
「…赤雷」
 なんという、ムードを知らない人物なのだろう。指に絡めた舌を引っ込め「黄純イライラ」とばかりに赤雷の顔を覗き込めば。

「お前に、起こされた」

 暗がりに広がる前髪が起き抜けの瞳に艶を出し、息継ぎが難しいとばかりに歪められた眉と笑顔が酷く、扇情的だった。
 それは交差する、指先に何かが灯る時――。


指=指先=咲き//花=華=咲き