雨が降ると次第に視界は狭くなっていく。傘、雨宿り。あまり考えない単語をいちいち頭に意識しながら橙次はただ視界の前に佇む姿を眺めていた。
「よーぉ、黒楼さんよぉ。 こんな所じゃあ風邪ひいちまうぜぇ」
 目の前の黒い塊は何も反応を示さないというのだか、足音をわざと大きく立てながら近づく。空から振る無数もの線が肌に、あまり着慣れない服に当たり、文字通り染みこんでいく。こうして潤んでいく視界を客観的に見てみれば自分も随分長い睫ではないか、等と自画自賛しながら。
「おい、聞いてんのかよ。 ほら、立てよ」
 海の見える小高い崖の上、静かに佇む男の影はこの風景にとても似合っていた。
 それは単に絵になる、という一言ではなく黒楼自身の地にいるようでどこかここに居ないような、そんな雰囲気や柔らかそうな髪がただ流されるままに水を滴らせる所が。改めて、これが水を使う人間なのだと思わせるのには十分な。
「…ほっときゃいーだろぉが」
 低い、獣が威嚇するような声。目すらも合わせない。
「そりゃちっとひでぇんじゃねーの? いちおー心配してやってんだから」
 声をかけたのは橙次にとって曖昧な「なんとなく」だ。通った場所に居たから、佇んでいる背中に見覚えがあったから。けれど一人で声をかけるには良い相手では確かに無かった。そう、今更になってから小さな後悔が胸に走る。

 珍しく橙次自身慣れた一張羅ではなく見慣れた服を着て外へ出た、というのにこんな雨に降られたのならばいっその事いつもの姿で十分だったではないか。一見どうでも良い後悔にたまたまそんな自分よりしっかりとスーツを着込んでいる黒楼と出会ったものだからつい奇妙な気分に押されて話しかけてしまった。圧し掛かる後悔と異様な沈黙が気分すら雨の灰色にさせた。
「あー、なんだ。 好意は素直に受け取っとくもんだぜ? おら、手ぇ貸しな」
 どうにも、舌が上手く回らないまま肩に手をやれば。
「うっせぇな」
 ばちり。手が弾かれる音は水音と混ざってそんな生々しい音色を奏でた気がする。
「っ! てめ…!」
 何かにつけて癪に障る、だからと言って無視できない。橙次にとって黒楼とはそんな位置に居る男だ。
 殴り返そうとすれば確実に相手もそうするだろう、だからあえて自分は黒楼の側に座り込む。長く付き合っていれば昔は随分殴りあった仲でも落ち着いてくるものだと思う。
「やっぱし大人だねぇー。 俺は」
「言っとけ」
 橙次と黒楼。どちらもいい歳をした妙齢なのだから、場合、場合で隣に居る男の方が大人しくなってしまったようにも思える。
「ちっ、んじゃあな…」
 息を潜めた黒い獣は橙次の存在を確認したかと思えば立ち上がってしまう。
「待てよ。 折角会ったんだ、話くれぇしてってもいいんじゃね?」
 立て、と言っておきながら自分を置いて何処かへ行こうとするその手を掴んで相手の瞳を覗き見る。座っている瞳は一見落ち着いているようで橙次を見返せば意外に熱い眼差しのようにも感じた。
「話? てめぇとする話なんざ持ち合わせちゃいねぇな…」
「…あー…あ、うん」
 そうだ。考えてみれば喧嘩仲間のような相手に話を持ちかける方がどうかしていた。そもそも風邪をひくだの言ったのは自分だと言うのに、雨の中滴る雫が長くなった橙次の髪をも顔の輪郭に沿って流れていく。
 前髪から滴る雫に一瞬目を細めれば地面を掻く音が聞こえた。
「ん? おい…」
 わけがわからない。そんな言葉や思考を持つ青二才でなくなってしまった橙次はただ、目の前にしゃがみこんだかと思えば濡れた手で同じ、べたついた服の上から上半身を押してくる黒楼の腕に、ただ流されるまま岩と砂の合間に横になる。
 力は殆ど入ってはいない。
「素直だろ? おい、ほんっとうにお前さん聞いてんのかよ…なぁ」
 言葉に意味は特に無かったが、どうしてだろうか甘えてくるでもない、ましてや子供の暖かな肌でもない。温い大人の男の香りが自分の身体を遠慮無く抱き、いつも身に纏っていない服を忌々しげに寛げる音は愉快以外の何者でもなかった。
「――……だ…な」
 胸元はどうやら張り付いた水で解くのを諦めたらしい。大の男同士にしては奇妙な色のついたベルトの音が響くと同時に黒楼の口から小さく声が零れ落ちる。
「ただのふんどし野郎だと思ってたが…本当にてめぇはただのふんどし野郎だな」
「お前…言わせておけば…ッ!」
 為すが侭にされていれば好きなようにする、言葉が少なくなってしまっていたから喋っていればまた橙次の気分を損ねる一言を図々しく言ってくる。全くもって協調性の無い男だから、ついまた拳を振り上げて応戦してしまえば手首を掴まれた。
「いい気に、なるんじゃ、ねぇ…ぞ……」
 掴まれた腕に力を入れる。押し合う、肌に溶ける水。
 けれど同時に欲の炎もまた身体に宿りつつある事実を橙次は自分でも、何より黒楼の反応でも十分に分かった。
「…フン」
 鼻先で一蹴される抵抗。元より抵抗などするつもりも無かったのだから、合図とばかりに貪られる口内に橙次の喉は奥深くで笑った。黒楼の気付かない、もっと奥深くで夜の暗闇よりも深い何かが溢れ始める。
「…っ。 はは、っ、あ…――」
 息を吸うその瞬間に笑い声が漏れてしまう。それでも黒楼は眉間に相変わらずの皺を寄せたまま、両手を橙次の頬に、顎にかけて口内を十分に蹂躙してゆく。口の中だけがまるで海に飲み込まれてしまったかのように、偶に唇を離さなければ息すらもままならない。そんな中で互いの欲望だけをたぎらせ、寄り添わせる行為は随分と面白い光景だろう。
 欲望がたった一枚の布切れだけで交わる事を拒否している。これが黒楼の言葉の意味か、吸われるままでは収まりの付かなくなった舌を一心不乱に絡めながら水音に耳をいたぶられる。それでも笑いだけはどんどんと暗い心の奥底から沸き出でて。擦り付ける欲望を橙次の思うが侭に揺らせば狂おしい程の激流が意識を汚濁していく。

 同じ空気を吸った始めての時から、こんな勢いづいた若造のような行為に及ぶ等とは考えても居なかった。邪魔か、気になるか、一体いつからお互いが奇妙な境界線を踏んでいたのだろう。
 踏みにじられる境界線はきっと交わってしまえばあっと言う間にどちらかに偏り、すぐに消えてなくなってしまうのだろう。だから、全ての行為には、言葉には意味をつけて返してやる。
「…ちったぁ黙ってろ」
 箍が外れて貪り合う中、ようやく空気が開放されたと思えば矢張り橙次の笑い声に苛立っていたのだろう、黒楼の声が色を含んだ低音で囁かれた。
 お互いの事などかまってはいられない、空気が肺を満たせばそれ相応の嬌声が橙次の口内から這い出たが熱すら奪われる雨の中、初めてこちらから腕を伸ばしその身体の温もりを確かめればなる程、黒楼も欲の限界だという事か触れる機会は少ないものの人間の熱としては熱い。
「う、あぁ…」
 漏れる嬌声を押さえる理由も無いが黒楼のちょっとした仕草一つで何の反応も示さない人形のような態度をしてみたくなる。こうして交わりの少ない情交でも橙次に腕を回し、意外と甲斐甲斐しささえ伺わせる様子を感じ取ると、情だけではない気持ちのわだかまりが心臓を支配していくのだ。
「ッ、てぇな」
 声を一度殺す為に耳たぶを噛んでやった。こんな静かで熱い男にも柔らかい場所があるのだと思うとまた笑えてくる。
 そのまま、何度か舌で柔らかいと確認し、そこに付いているピアスの付け根からをゆっくりと味わってからまた、声を荒げた。お互い開放が近いせいだろう、最早雨すらも降ってくる一つ一つが冷たいと感じずに交わり合う肩を離して視線を絡ませあう行為に甘い刺激が走った。

 口内に降り注いだ水はきっと不味かったと思う。いつもならば飲み水にしてもさほど気にならないというのに、唇を貪ってから飲み込んだ雨水のなんと不快な事か。
「いやぁ、俺らもたいがいにしねぇとなぁ」
 下腹部に滴った雨は熱く、そこだけが一瞬だけ同化したようだった。等と思っていたならば多分、愚かの一つに過ぎないのだろう。
「若造じゃあるめぇし、てめぇは黙らしとくのが一番だぁな」
 ああ、そういう事か。拳を、熱を絡め合っている時以外は本当に冷めたものだと。しかしだからこそ、癪に障る一言で終わらない何かがある。
 黒楼が纏うスーツは乱れてはいたものの、着こなしが良いという理由で別れは余韻という文字を辞書から外してしまったようだ。一方、橙次はというとシャツの前も、ズボンの前も肌蹴たまま、一線を越えられなかった一枚をだらしなく見せているという始末だ。

「はは、…言ってろよ」

 なんて自分勝手なのだろう。言うだけ言って黒楼の姿は既に海の上に消えていく寸前だ。黙らせておく、そう言われても悪い気はしなく、黙っていてやる気も無い。
 きっと、多分これから先ずっと。


線=線を引く、線を引かれる、線を越える、線が消える