重い瞼が窓を開けると小さな光、硝子張りの出窓に反射する明かりと触れる事の叶わぬ星々が鮮明に姿を現した。
「ふぁ…」
 夜か。カーテンの閉まりきらない窓辺を眺めて赤雷は背中だけで伸びをする。昼間ならば何処か絵を描きに出かけても良かったのだが、だからと言って別段急ぐものでもない、無理ならば無理なのだと覚醒の為に数回瞬きを繰り返す。
(首、いってぇ)
 窓際を向いたまま横になる身体、多分ずっと同じ体勢で眠りこけていたのだろう。顔の向きとは正反対の首筋に痛みが走る。咄嗟に痛んだ場所を撫で擦ろうと手を伸ばした。
「んん? おい、こりゃ一体どうなってんだ…――」
「そりゃこっちが聞きたいんだけど、どうしてこんな時に寝るかね」
 手を伸ばそうとした。その掌に別の温もりが落ちている、力こそ込められていないものの重みで押さえつけられている。軽く首を擦りたいのだと肘を動かそうにも、絡まった指が意思を持ってそうはさせまいと赤雷を阻んでくる。
「すごく無責任なんじゃない? 黄純、ご立腹」
 痛みを堪え前に向き直り、改めて赤雷は文字通り硬直した。
 金縛り以上に身体は融通を聞いてはくれず、幻覚にしては生々しい嘘か本当か、黄純は眉を寄せて視線だけを、どこかへやっている。ただ、黄純とこういう体勢になる事態が全く無い、本当に心当たりが何も無いのならば「何が無責任なんだ」と悪態をつき、腕を跳ね除けて終わっていただろうに。
「…まて、状況を説明してくれ。 黄純君」
 時間がもしも止まるならば、目の前の事実を一旦見ないふりをして無い思考回路を嫌でも叩き起こし、現在の打開策を捻り出したい所だ。
 両腕がベッドの上で黄純に拘束されているだけではない、よくよく全身の感触を確かめてみればシャツの前は肌蹴られ、かろうじて下半身に薄いブランケットか掛けられているこの状況を。同じく、ベッドに座り込みながらも赤雷の両腕を素晴らしく混乱する意味合いで勘違いしそうな形を作りながら拘束し、ご立腹したかと思えば珍妙な生き物を見るような目で見下ろしてくる黄純を。
「――…」
「お、おい」
 黄純が赤雷を見つめている。状況説明など要らないだろう、そんな意味合いがあるのか、呆れられたのか。溜息も漏らさずに見つめられる視線は思わぬ色合いを含んでいて、ただ戸惑うだけの意識に自身が困惑する。
 同じ国の人間だというのに、黄純の瞳の色は青に近い。見つめられれば見つめられる程、異国の地に足をつけたような浮遊感に苛まれ、重そうに肩より下に垂らした髪が赤雷の頬をくすぐっている。おかまだ、おかまだ、そうやって今まで言って来たのにどうして身近に寄り添ってしまうと子供のような考えが飛び去ってしまうのだろう。
「やっぱり嫌だった?」
 何が。聞き返したくても聞き返せない。とりあえずは黄純のその一言で赤雷の意識は完全に覚醒を起こし、垂れきった目が今まで見たどの山よりも高く吊り上りそうになった。
(思い出せ、思い出せ、おもいだせ…)
 あらゆる意味合いで何か嫌な事をされる羽目になった経緯を。赤雷は吊り上りそうになった目をしっかりと閉じて全力で動き出した思考回路を辿りながら寝る前の事を思い出す。
 昨日の夜は夜とて黄純のアパートの一室でベッドを占拠した、それでも二人で寝るなどという事にはならなかったし、していない。朝、文句を言いながら赤雷の枕元でピアノを弾いていた彼の事もかろうじて覚えている。ついでに一度身を投げようと窓辺へ行こうとしてベッドの端に足をぶつけてまた、文句をたれていたのも覚えている。
 しかし、覚えているのは全てそれだけだ。
「ふぅ…」
 黄純が話にならないとばかりに首を振る。頬にかかった髪が静かに揺れ、胸元へと移動して元に戻る。
「――っ、う」
 どうするべきだろう。何も思い出せないと例えば言ったとして、だ。またご立腹になる黄純に身体を退けてもらおうか。相手も自分も男だ、別段そういう事態になっていたとして未遂に終わってもさして問題は無かろう。寧ろ何かあった方が問題なのかもしれない。
「どうしよう…?」
「…」
 片方の掌が自由になった。と、思えば細い指先が赤雷の頬を包む。肘をついて撫でられる、黄純の顔が近い。このまま、彼がそうするようにしてしまえばどうなるのだろう。ふと、そう思って視線を交わす。
 艶のある、長い睫に縁取られた瞳、男らしい骨格ではなくとも女とは全く違う縁取り。友達だから、二つの文字を頼りにしてどう触れられたとしても赤雷は今まで一度も不快に思った事は無かった。多分、案外お互い「友人」としてはもう成り立たない場所に足を踏み入れてしまっていたのかもしれない。
「ああ、…そう、だな」
 どうしよう。この問いに答えた結果がこの一言だった。どうしょうもない、どうしていいか分からない、けれどそれでも良いじゃあないか。今まで答えを出していなかった霧のかかった部分が朝を迎えたように晴れていくのを感じながら赤雷自身も空いた手を黄純の唇に持ってゆく。
 暖かいから熱いへ、口紅の感触がやけに生々しかったが皮膚が矢張り性別の違和感を認識させる。何より黄純の体温がこんなにも熱かっただろうかと、差し込まれた指の好きなようにさせる相手を見ているだけで息が上がってくる。
「んっ…もう、いいかい?」
 唇から引き抜かれる指に当たる空気の冷えた感触でこれから自分がどうなってゆくか赤雷は知った。
 頬を撫でていた黄純の指が肌蹴られた胸元の襟を数度、弄び鎖骨へ伸びる。じんと、甘い感覚を覚えるだけならば今に始まった事ではない。赤雷の意思を確かめるような動きが数度続いた後、指先が敏感になりつつある突起へ近づくのがわかった。
「ふあっ!」
 鼻にかかったような、甘い痺れと自らの吐息に驚愕を隠せない赤雷に暗闇の中から柔らかい、黄純の微笑む空気を感じ繋いだ掌の指を強く、絡ませる。

 空気が冷たい。
「ぐわあッ!」
 甘い痺れどころではない、頭に鈍痛を感じ赤雷は奇妙な声を上げながら文字通り飛び起きた。傍らには頬を膨らませたまま座り込む黄純。
「起きろってんのがわからねぇのかよ…」
「き、黄純…――」
 実に冷たい空気だ。このまま凍って死んでしまってもおかしくない程度には冷たい気がする。今まで見ていたのは夢か幻か、いや、確実に夢だろう。目の前の黄純は怒気こそ含んでいても赤雷に絡んでくるような「何か」は持ち合わせていない。
「お前、殴ったな? 殴っただろ?」
 少しづつ冷静になってゆく頭はようやくいつもの赤雷自身を取り戻しそうではあるが、逆に下手に怒らせた黄純の方が怖かったかもしれない。何しろ彼はこの部屋の主なのだからどこでも眠れるとはいえ、ベッドを取られるのはあまり嬉しくない。
「殴ったよ、思いっきり。 コーヒー淹れて、って聞こえなかったっけ?」
 殴ったから手が痛いのだと、黄純は赤雷の目の前でわざとらしく腕を振ってみせる。
「んなの聞こえるか、このおかま!」
 どうやら黄純自身はピアノのある場所から移動してきたのだろう。彼の背後に見えるグランドピアノの椅子は少しばかり引かれており、先程の甘い感覚が全て夢であった事を赤雷に告げた。
(頭いてぇ…)
「何? 淹れてきてくれるの?」
 覚醒した頭を抱えていれば案の定、甘えるようなそれでも食えない言葉が降りかかってくる。
「淹れるか。 飲みてぇんなら俺のも淹れてきて」
 どうやら完全に赤雷が起きたのを知り良いように言っているようだ。そんなに自分と話したかったのか、それとも何か意味があるのか。黄純自身の分だけのコーヒーの数がもう一人分増え、確実に不満の声しか上がらなくなった彼をどうしても、まじまじと眺めてしまう。
「だから何さ」
「い、いや」
 用も無いのに起きている赤雷が珍しいのか、黄純は小首を傾げたまま顔を覗き込みに来るが犬を追い払うが如く、仕草だけで「あっちへ行け」と言ってやれば意外と素直に重い身体を持ち上げた。
「あ、口紅。 はげてるぞ」
 足取りのさしておぼつかない後姿につい、声をかけて赤雷は、はた。と黙り込む。眺めた時につい目に行った場所を指摘しただけに過ぎないというのに。
「ふうん。 そうか」
 黄純の反応はそれだけ。ただそれは、何の考えも無しに発せられた言葉とは何か意味合いが違う。奇妙な「何か」を含んでいて、果たして何か自分に心当たりは無いだろうか、赤雷はまたゆるやかな睡眠にまどろみだす視界と共に子供のような思考で考えた。

 下唇だけが擦れたようになった、黄純の唇。そういえば、あれは。


夢=夢の中の出来事、夢に出てくる程、将来的になる夢//世にも奇妙な黄赤//実はこれには現実で何処から何処までという設定があったりします。