珍しく、モノトーンの上を行ったり来たりとする指が止まった。
 アパートの一室、ここ最近随分綺麗に整頓されるようにはなったがそれも一時の事、何度も物を放り出してまた適度に片付けられる、を繰り返している。人が居る、これがその証。
(一曲、出来たな…)
 楽譜は広げてあるものの、五本の線に音符は踊っていない。それは作曲した本人の頭の中に全て詰まっているというのが一番の理由であり、適度に考えを纏めてからまた寝ずに今の曲をリピートし続けるのだろう。
 荒れるだけならば廃退した物と同じ、散らかった部屋というのは腐った生き物の亡骸にも等しい。必要の無い一つ一つの物から発する醜悪から発生した害悪はさしずめ亡骸に群がる蛆か。しかし、それも定期的に片付けると繰り返していれば「生きている」証となる。人間の皮膚などは必要の無くなった箇所を剥がし、またそこに再生を生んでゆくのだから。見えるようになった床は新しい、皮膚。
「疲れた。 逝こうか」
 作曲してほぼ九割がた呟く言葉はそれだ。黄純の口癖だと、今では誰も自分が「逝く」事に対して口を挟まなくなった事実に対しては喜んでいいものか。
(まさか、俺が逝かないなんて思ってないだろうな…)
 何処から飛び降りても、流れる血を眺めても、有害と言われる空気を肺一杯に満たしても、黄純は入院する程度で現世から旅立つ気配は全く無い。自身としては旅立つ気をもってやっている。そのつもりではあるが。
(飽きないよな、あいつらも。 …あいつも)
 何かと問題ないし、遊びにともちかけてくる風助などは代表格だ。黄純の身体がそもそも弱い事を知っていながら平然と難題を押し付けるあたり何も考えていないのか。いや、きっと考えているのだろうからこそ自分にとっては彼の子供らしい気遣いが可愛らしく思える事すらある。ただ、難点を言うならば。
「そろそろ、そこ退けろよ。 無理だろうけどさ」
「――…」
 部屋は借りた者の物である。所有物ではないものの、場所の権利は黄純にある筈だ。今ここで、あると肯定する人間が居ないのが非常に悔しい。
 寝息は規則正しく、時に寝言のような吐息を吐きながら寝返りを打つ。
「もういいよ、諦めたから隅によって」
 赤雷は、偶に黄純のアパートに来る。頻繁に来る時もあれば忘れた頃に寄る事もある。その程度である筈なのに、来るようになってから恋人の写真を見る機会が減った。
 罪悪感が減ったわけではない、鎮魂曲を作らない日も無い、現世から居なくなろうと何度も考える。けれど、回数として数えれば減っている。視線を棚にやれば写真立てが飾ってある、笑顔で写る男女が何故か微笑ましい。
(ほほえま、しい…?)
 自分はどうして、頭がとうとうおかしくなったのでは。赤雷をベッドの隅に転がして、狭いと眉を顰めながら重くなった頭をシーツに預ける。
 今まで、あの二人の男女を見て、微笑ましいと思った事はあっただろうか。女性の柔らかな表情を見て責めさいなむような気持ちに押され、男の無邪気な笑顔には憤りすら感じたというのに。孤独に駆られない時が増えるにつれ荒波のような激情が緩やかに天空から刺す光を見る海原に変っている、そんな気もする。
 孤独、つまり一人で居る時間が、以前と比べて減っているのだ。戦争が終わり、もう誰の道とも交わる可能性を失った道が別の人間の道に寄り添う事により、その間だけ天啓が降りたように穏やかになる、そんな時が訪れる。決して添うだけで交わる事は無いと理解しながらも。
(そういや逝こうと思ってたんだっけな…。 今から、逝くか?)
 言い聞かせるようにしたのも黄純からしてみれば気持ち悪い以外の何物でもなかった。
 衝動に任せて生を死に変えていたというのに、今の曖昧な感情はなんだろう。潔さも明確な死というモチーフすら存在しない。もしかすると明日も、明後日も目が覚めれば太陽の光に当たっているのではないか、そんな期待すらさせるような。
「やめた」
 馬鹿馬鹿しい。頭を振るにしても、長くなった髪が重く元々薄暗い視界を染めた色は眩く月光と同化するのみ。迷いをもって死に挑むのも、期待をしたまま逝く事も黄純にとっては嬉しくない事態だ。
 けれど、果たしてまた以前のように行くのだろうか。迷い無くただ死を思って弾き続ける旋律も、行動も。意識してしまえば非常に難しい事なのだと今更ながらに思ってしまう。
「赤雷、俺が逝ったらお前は…悲しい?」
 ブランケットに顔半分。埋めながら眠っている固体に語りかける。
 眠っているのだから答えがある筈が無い。分かりはするが黄純の知っている限り眠っている人物程人の言葉を聞いていたりするものだ。赤雷に限った事ではなく、だれでも深層意識で受け取るという話も聞く。
「藍眺は悲しむな、あいつ俺と違って熱いからね。 風助は案外気ぃ遣いだからなぁ。 橙次は…、ああ…」
 こんな事を考える事も無かった。この世から消えてなくなる人間の考える事ではないのに、仲の良い人物の顔が浮かんでは消え、消えてはまた次の顔へ移っていく。走馬灯。ふと、そう思ったがまた違う。
「泣く? 笑う? お前はどっち…」
 どれだけ黄純が喋ろうとも起きる気配を見せない赤雷に手を伸ばす。
 ベッドは元々セミダブル程度だから、大の大人。しかも男が二人ともなれば十分狭く隅に追いやっても下手をすれば黄純か赤雷、どちらかが落ちてしまいそうだ。伸ばした手に自分の髪がかかり、彼の頬を掠める。何をしても寝息しか吐かない、ある種睡眠時というのは死に最も近いのだろうか。意識が無いにも関わらず話を聞き、見る者にとって話しかける意味を失わせる姿。
 まるでそれは幽鬼のような、闇夜に漂うそれだ。
「俺はお前が死んだらきっと」
 息を呑んだ。目を覚まさない人間を見るのはもう慣れているというのに、ふと死について延々と自らで語り続けるうちに眠る姿が永遠に目覚めないそれと重なってしまったのだから。
 頬を寄せて、そこに置いた指を首に滑らせ脈を計る。生きている鼓動が聞こえ安堵と不思議な笑みが零れた。
(俺が居なくなってどんな顔するか、見てみたいかもな)
 どうするのか、どういう顔で黄純が居なくなった日を過ごすのか。一度見てみたい。思いつかないからこそ願ってしまう、ただもしかすると赤雷もまた自分と同じように心の隅に何かとてつもない針を置いていたなら。その針で心臓を突き、生涯鎮魂曲、ならぬ死をモチーフにした絵を描き続けたなら。
「くっ…ははは…」
 腹を抱えて笑いそうになるのを堪え密着した体温の中で黄純は笑った。微笑むのですら珍しいというのに、意識しなければ意外と笑えるものだ、今日は随分いつもとは違う思想を何度も思いつくと、そう考えながらも自分のようになる赤雷を想像するだけで面白おかしい。
 いつも何も考えないようでいて、考えると一人で突っ走って知らない所に居る彼を思うと。
「俺の知らない所で逝くなよ。 赤雷、なぁ…」
 顎の骨を辿って耳の裏を撫でる。なんの表情も浮かべぬまま、そうやってもう片方も同じ動作をしてから近づける唇に戸惑いは無く。柔らかい感触が楽しめるようになっても黄純自身さして同様もしなかった。
 これは、静かな衝動である。
 唇が触れれば舌でその縁を辿るのも、寝息と共に開いたその先を求めて内部に侵入するのも。全て理性を持ってゆっくりと侵食を続けている、矛盾した衝動なのだ。生きているという感覚も、温もりも、今は全て黄純が赤雷を支配しているかのような、口付けが深くなるにつれて一人上がっていく吐息に自嘲し、うっすらと覚醒を告げる彼の瞳を覗いた時。なんとも言えぬ痺れを感じ口元だけを持ち上げた。
 赤雷には理解出来るだろうか。己の口内が今現在彼以外のもので満たされているという事実が、覚醒の前散々黄純が放った言葉が。そして、全てまではなくとも温もりを共有するこの空間を突き放してしまうのだろうか。
「…きすみ」
 実に覚醒しきってない言葉の曖昧さではあったが黄純は驚愕した。
 赤雷は相変わらずさして完全に起きようという意思など持っていないようであったが、起き抜けに意識がそう飛んでいるとも言いがたく唇を落としている黄純の背中をただ、ただ包んだのである。
「ばか、何やってんだよ…」
 きっとまた「何してるんだ、おかま」という居候にしてはふてぶてしく、ある種ごもっともな言葉を放って自分をベッドから叩き落すと、黄純はそう踏んでいたのだ。
 けれど、与えられるのは子供のような暖かな温もりと乱れない脈。なんとなしに「おんぶして」だの何かしてくれだの頼む時は相応の確立で無視する癖に、突き放して欲しい時に限って受け入れてくる。いつも半分しか開いていない赤雷の瞳はもっと狭い視界しか見えていないだろうに、黒く心地よい中に溺れそうになる。
 もう一度、まだ足りない、もう少し。何度も同じ理由で重ねる唇は次第に熱をもって、互いに求め合う。口内のうねりは相手と認めるや否や濃厚に吸い上げまた柔らかな粘膜を追って食らいつく。赤雷はただ、黄純の背中に腕を回し、少ない意識下の中自分を蹂躙する相手の服を握り、時に苦しいと引き上げる。
「うん。 俺も苦しいよ」
 心臓が見えない紐で括りつけられたような錯覚。恋ではない、この感覚は苦しみとしか理解する事が出来ずに、側にある赤雷をただ求め続ける。耳の裏から髪をすいていた指を名残惜しげに解くと、背中を通り越し腰へ、尾?骨の始まりを撫でつけ中に入りたいのだ。そう、明確な意思を服越しに伝えてやるとようやく、彼の唇が黄純の意思以外の力で離れ、夜に溺れた瞳でこちらの意識を伺ってきた。
「ったく、お前は。 やっぱり、」
 掠れ声できっと、この先おかま。と、口にするのだろう。けれど赤雷の声に否定的な感情は含まれていない。
「黄純、なんだな…。 あったけ…」
 言葉で紡がれる筈が無いと思ったそれらが空気中に跳ね返り黄純の耳に届く。じん、と身体全てに電流が走ったようで一度赤雷に触れる全ての場所に力が入れば相手も小さく悲鳴交じりの吐息を吐き出す。そうやって、遠慮の必要がなくなってみればモノトーンに走らせていた指は別の体温へ交じり合う進入を戸惑わない。
 離れた唇が黄純の頭より更に下に潜り込み、服の肩側をいじらしく噛み始める。柔らかい髪を頬に感じて黄純はカーテン越しに見える月をただ見つめる。

 本当に、悩ましい。


悩=そのまんま(笑)