早朝は空気が凍ってしまったかのように吐く息が冷たく、吸う呼吸の一息が喉を張り付かせ身体の熱を奪ってし
まいそうな程であったのに。
「いやあ、熱いなァ」
 口内を満たす空気は未だにそう熱い、という単語とは程遠かったが灯かりも付けぬ室内の中。橙次は乾いた声を
上げながらそう吐いた。
「…そうかい。 こりゃ、くそふんどしさんは随分と感覚が狂ってらっしゃるようだ」
 俺は寒い。と言いたいらしい。橙次の頭の上から聞こえてくる声は苛立たしい表情を見せながらも、腕の中の存
在を否定する事はせずに顎を捉え目を、視線だけを奪う。
 黒い眼、獣のような瞳より今は人間臭い瞳だと思う。それは橙次の素直な感想だ。雄の鋭い線に哀愁を含んだ緩
やかな光、芯の通り過ぎた色。それらを取り囲む深海の揺らめき。一見感情の無い目を黒楼は装っているのだろう
が見詰め合えばそんな隠し事などすぐに破られてしまう。分かっているから。
「あーぁ、狂ってるよぉ。 しっかしお前さんも同じよーなもんだろう?」
 部屋には暖房器具が完備されているものの、つけてはおらず。橙次と黒楼の身体は薄い布団と硬すぎるベッドの
上、一糸纏わぬ姿で横たわっていた。視界の下もあまり良く見えはしないが自分の顔の下、銀の混じった色と斜に
構えた真っ直ぐな眼が月明かりの元で薄っすらと輝くのが見えた。
 ふん。と、黒楼の固い、肉刺や皮の潰れ剥けた強固な手が橙次の髪をすく。
 情事の後、これはそんな生易しい物ではない。お互い食い、食われた。そんなものだろうか。二人の人間が横た
わる空間には乾いた土の香りと熱い塩の香りが漂っている。ベッド代わりにしている物も実際は何個もの樽を敷き
詰めそこにテーブルクロスを敷いただけの場所、掛け布団だけが唯一本当の寝具と言える品だった。
「里穂子のやつ、ちゃんと寝てっかなァ…。 案外起きちまったりして、な」
 睨まれているわけではないが、すかれる髪の一部を思い切り引かれ、橙次は大げさに痛いと身体を竦めて見せる
。塗炭屋根に古い煉瓦の敷き詰められた倉庫のような小屋は自分の現在の家である。あちらこちらを旅したせいか
、家と呼べる場所は随分と多く出来てしまったが今回住む事になった住処は住居というよりは飛行機倉庫である。
 愛機を収めるのに適した安い場所、となると限定された建物しかなく、勿論一から建てる。そんな資金も知識も
持ち合わせては居ない。戦時中に作った軽い小屋程度ならば出来ただろうが、何しろ橙次の愛する「愛機」が入る
家だ。妥協は出来ずに既存の建物を大人しく探した。
「てめぇよりうるせぇガキが起きるなんざ、たまったモンじゃねぇ」
 黒楼は、里穂子が嫌いなのだろうか。黒髪を引く男の手は止まり、またすく、撫でる、を繰り返し始めたが明ら
かに苦い顔をしている。
「ひっでぇなァ」
 仮にも情交を交わすまでの仲になった男の妹だというのに、闇夜でもわかる苦々しい舌打ちの音は相当この場所
に来られる事を嫌がっているようだ。
(んま、当たり前か)
 身体に滴る体液はそのままに、互いの身体を撫で愛しむような姿は誰だって見られたいと思うはずは無い。だが
、自然と橙次には自分の妹がここに来て黒楼との秘め事を覗く瞬間をさして嫌ってはいない、そんな所がある。き
っと今鎖骨に顔を埋め始めながら暖を取っている相手に言えば殴られるだけでは済まないだろうが。

「ほぅ、以外と女ってなァ、鋭いモンだぜ? 黒楼さんよ、ちゃあんと里穂子の顔見てこっち来たかい?」
 しかし、黒楼という男が橙次にとってあまりにも面白い存在だったという理由が自分の口を止め処ない迷路に彼
を誘いこむ。思ったとおり、首下で聞こえる喉の詰まったような声。
 昔、まだ戦争を知らない橙次がその破片を知る黒楼と出会った時、心に決めた女性が居た。
 それは橙次が長年思い続けてきた女性であり、自分の中で彼女という存在は永遠に少女のままだったのだ。あの
時、好意を伝える術しか知らなかった中、永遠に歳をとらず心の奥底で咲き続けた花はいつの間にか大人の女にな
ってしまい姿さえ見せずに手の届く場所から消えた。変りに入ってきた真実は真紅の血液とそれを食む男、黒楼で
あったのである。
「くそふんどしさんと同じカオしてやしたよ、甘ちゃんでやけに噛み付きやがる…」
「ぶっ、お前さん意外と見てるんだな」
 肌から乾いた唇が離れたと思えば、ばつが悪そうに振動する音色に橙次は暗く澄んだ瞳を大きく見開き、無い光
を最大限に受けて黒楼の頭を見た。勿論、表情など見えはしないがきっと忌々しい物を見るような、けれどもその
顔の隅で朱色を灯しているのだろう。
 黒楼との出会いが自分にどんな結果をもたらしたか。それすらも橙次自身もうとっくに理解している。
 結論から言えば壮絶な痛みだ。敗れた幼い恋へのものではなく、育ちきっていない子供の腕でもなく、ましてや
殴られた痛みでもない、一過性の痺れはあったもののこれらは全て過去から橙次を育ててきた記憶の破片の集まり
でしかない。例えるならば、身を裂かれるような、背中を這いずる快楽にも似た感情の渦。
「惚れるなよ?」
 思いの他、声色に感情が含まれずに橙次自身が驚く。冷静な音は部屋の寒さの中鋭く空間を射抜く。
「はァ? 何言ってンですかァ?」
 甘い雰囲気など最初から持ち合わせていなかったが、動く機関全てを止めて黒楼は橙次を見た。
 そして、小さく息を呑む。光の少ない場所とは認識していたが、黒楼にも橙次がどういう表情で何をしているか
位把握できる。瞳の中で、今まで冗談と本気を混ぜていた男の顔は今、何もたたえてはおらず冷たく彼を見下して
いた。含まれる意識は軽蔑か羨望か、判断がつかないわけではない。
「自信がねぇってのかい? くそふんどし野郎」
 唾を吐くのと同じように、黒楼は言葉を投げた。
 いつもただそうしているわけではない行為に橙次はどれだけ気付いているだろうか。まだ生きている、そこに存
在している証拠がそこかしこに散らばる様子はいつも彼を自嘲の渦へ誘い込んでいる事を。急速に成長してしまっ
た子供にはどれだけ理解できているだろう。
「…はッ。 いやいや、お前さんに言われるたぁ、俺もおちたもんだねェ。 黒楼さんよ」
 光の無い空が急速に晴れていくような。橙次の表情はまさにそれだった。くすんだ黒が雨に濡れて艶やかな色を
取り戻していく。同時に、黒楼にとっては気に食わないけれど見ていて一番安心する、口の端だけを吊り上げた悲
しい笑みになるから、彼も笑わない気に食わないと言うように、への字に曲げた口と相手を見ない視線へ変化させ
る。
「てめぇのそりゃ元からだろうが、甘ちゃん」
 橙次は胸を押されて樽のベッドの上、背中を丸くして黒楼の唇を覗き込み、そのまま自分のそれを近づけた。
「お前さんもだろ…」
 黒楼は、甘い。本来甘いと言われるのは彼の方だと橙次は思う。自分は一瞬、あどけない妹にですら嫉妬した。
確かに妙齢の女になりつつある里穂子は思い人が居るのだと日々喚いている。が、彼女は女であり不純な無垢さが
男にとってどれだけの毒であるか、知らない。
 何よりその知らない事が橙次にとっての脅威なのだ。
「フン。 弱気だな」
「あぁ、慰めてちょーだい」
 お互いの吐息を混ぜながら口付ける様は情けない。どっちがそうであるか、橙次には分かりたくも無い。しがみ
つく腕の中で息をしている黒楼が自分の元から去る事実など無いというのに、女々しくもこのまま一つの固体にな
ってしまいたいと願うのはあまりにも。

「あんのガキ、お兄ちゃんを宜しくぅ、だとよォ」

 低いのに、途中女声を真似た黒楼の言葉はやけに自分の妹に似すぎていて。
「…っは、い?」
 口付けの合間だというのに、色よりも寧ろ情けない問いの混ざった吐息が白い霧となって出たものだから。言っ
た黒楼の眉間にある線はいつもの倍になって波打った。それ以上相手の口から聞き出す事も出来ず、ただどういう
状況下で妹から彼に言葉が吐かれたのだろうと思い。また、塞がれる唇の合間、瞳は天井だけを眺めていた。
 多分、これは推測でしかないがきっと。人相の悪い男が定期的に兄の元を訪れ、兄も兄で時折どこか別の所を眺
めるものだから彼女は生物の中で一番鋭い器官で何かを察したのだろう。そして、嫌々まるで黒楼と同じように唾
を飛ばしながらそう言葉にしたに違いない。
「情けねぇ…」
 身体に残る情交の跡に身悶えながら、橙次はその視界を閉じた。
 生理的な涙が、頬を下る。


情=情け、情けない、情けをかけて