茶褐色の風景にいつも花は咲き乱れている。
 空気は無い、この風景はただの思い出だ。
 例えるなら写真、けれどそこに残る物ではなくただ一人の記憶に描写されたフィルムなのだ。田園というよりは美しく、豪邸というよりは民家に近い農園には区分けして花々が咲き誇っている。
 季節ごとに植えなければ美しくは咲いてくれず、太陽が無ければ育ってすらくれない。
「良いお天気ね。 今日は雨も降らないかしら」
 古木の扉を開けて女は外へ出た。
 まだ夕方には程遠い昼間、自分一人だけ家の仕事をしていたから農園の仕事には遅れてしまった。風は彼女の結わえた髪をさらさらとなびかせ、頬に暖かな花の香りを芳しく香らせる。
「もう、皆私を置いていってしまったのね。 仕方ないけれど、少し待っていてくれればお手伝いするのに」
 女の居る農園は彼女のものではなく、本来の家ですらない。
 居候のように置いてもらっている家には老いた男女と歳若い男が居る。
 跡継ぎであった青年は都会へと旅立ち、この場所は随分と寂しくなってしまったがそれでも、若い人間が二人居るという事はなかなかにして農園の花を育てる良い栄養剤になっているようだ。今日もまた大きな木の苗を植えると老人は言い、青年は喜んでその手伝いに出かけたのだから。
(私、そんなに頼りなく見えるかしら…?)
 自らの手を見る。確かに、男の固く骨ばった手から見れば女の手はあまり大きくは無く家事での水仕事に疲れた歳からしては少々痛んだ皮膚が痛々しい。けれど、弱い人間では無いと自負している。苗の一つ位ならば微力でも力になれる筈だから。
 足取りは軽く、作業用の花の無い色のキュロットスカートにブーツ、薔薇の棘が刺さらぬように長い袖を着て、日よけには麦藁帽子。全くもって、女としては魅力を感じない格好だと彼女自身思う。とはいえ、一見華々しく見える農園の作業は女らしい、フリルの付いたスカートや袖の無い愛らしいワンピースを着て出きる仕事ではない。
 時に茨の棘に刺さり、出た血を拭い。時にはまた蜂に追いかけられながら、農園の人間全員で喚きながら家へと駆け込む。その一つ一つにあるシーンが自分の女らしさなのだと彼女は思う。
「…あら?」
 ふいに、薔薇の苗が動いた。と、思えば何時からそこに居たのか、男が眉間に目一杯の皺を寄せ、口をもごもごと動かしながら、無骨な手にはこの苗の中には無い種類である薔薇の花を束にして女を見ずにただ文字通り、立ちふさがった。
「あの…ヴェルさん」
「あらあら、はい? なぁに、改まって変なアルーベさん」
 あまりにも唐突で、何より随分と他人行儀なこの農園に住むもう一人の若い人間。アルーベという男に緑里は左右の視線を上下に揺らしながら肩で笑う。
 さして女らしくも美しくもない自分に、格好良くも無いアルーベの芋くさい格好。どちらも仕事着のままで、同じくさして花の無い顔をしていると思う。けれど、ヴェル。と名乗った緑里にとってこのアルーベのさして気の遣わぬ素朴さこそが最も愛おしいと感じたのだ。
「こ、これを。 その、いえ…」
 頭を造作に掻く動作。困っている、恥らっている。緑里にとってそれが非常におかしい。
 男とは本当に女にとって嬉しい事をする度に頬を染め、まるでこちらが悪い事をしたような錯覚に陥らせる程頭を下げるのだから。
「くれるの? ありがとう。 綺麗ね、何処の種類? これからここにも植えるのかしら?」
 きっとアルーベには花を贈るという事自体が天変地異でも起きたようなものなのだろう。いつもそうだ、農園の花を相談しに来るたびに数本束ねては緑里の前に差し出してくる。頭を掻き、困ったように、或いは初めて綺麗な虫を取って嬉しげに母の元へ駆け寄る少年のように。
「違うんだ」
「あら、そうなの? 新種だから…見せに来てくれた、のかしら?」
 まだ彼の口はもごもご動き、時折鼻までくりくりと動かしている。
 農園の花々はこんなにも芳しいというのに、これでは悪い香りに当てられたように見えなくも無い。
「それは、君に。 あと、出きれば、カードを…」
 そういえば、この花束はいつもの花束よりもしっかり包装されているし、洒落たピンク色のリボンまで飾ってある。
 いつも見る花束はそのまま、家の中でアルーベが手渡してくれるのに、今日は何故か薔薇園の真ん中で。木の苗を植えに行った筈であるその人の手から手渡して貰っているのだから、何かが違うと気付くべきだったのかもしれない。
「カード? ああ、これね、ねぇアルーベさん。 言いたい事があれば言葉があれば口にしてくれてもいいのよ?」
 なんだかアルーベだけではなく自分の心もくすぐったいような。もしかしたら今自分は彼と同じように口を動かしながら首を竦めて花に埋もれたカードを探しているのかもしれない。流石に、鼻までをもそもそと動かす事は無かったが、手を入れてみると束ねられた薔薇の花全てに棘は無く、女の手を傷つける事無くすんなりと厚い紙切れを指先に掴ませた。
「え、ええと…これはなんて読むのかしら…」
 文字が汚いわけではなく、異国の文字が一言『I'm sweet on you』と、そうアルーベの文字で記されている。一言、一言の単語は読める。
(あいむ…すぃーと、おん。 ゆー?)
 頭の中で和訳し、解釈するまで数分を要した。甘い、貴女。スゥイートは異国では特別な人を意味している、緑里の記憶が正しければそうだ。そして、最初には僕の。
「……――」
 沈黙が流れた。アルーベは大きな身体を小さくしてしまったかのように、首を下げたまま緑里からはもう、顔すらも見えなく行き場を失った手は数回彼の腰あたりを彷徨ってから片手はポケットに、もう片方は頭に乗せられたまま。
 緑里も同じようにカードの語句を一つ、また一つと心の中で読み上げた。たった一言を一生記憶してしまわんが如く。もしかすれば自分の和訳は間違っているかもしれない、全くの読み違いかもしれない。手にしたカードは酷く素朴で、農園に来たチラシの綺麗な部分を切り取って厚紙に貼ってあるだけ。それだけの紙切れに過ぎないというのに。
「ありがとう、本当に。 嬉しいわ、ありがとう」
「はい。 ええ、はい」
 畑を耕す機械のようなやり取りだったと思う。
 ありがとう。そう口にする度にアルーベの顔は上がり、恥らったまま頷く。そしてまた緑里は彼に礼を言う。頷く。同じ事の繰り返し、けれども一つの単語は何度も違う意味合いを含んで、染める頬はいつしか自分にもうつってしまい、アルーベは少しはにかんだ顔になって瘡蓋だらけの手をこちらに差し出した。
「それじゃあ。 帰ろうか…」
 低い声に緑里はアルーベを見る。
「え? 苗は大丈夫なの? 皆の力じゃとても…ねぇ?」
 一番の力持ちが居なくては老人二人の力でどうにか出来る作業ではない。というのに、アルーベは緑里の手を珍しく取り、そのまま辿ってきた道を戻る一歩を踏み出して。
「皆もう家に戻ってるよ。 グリチネさんがお菓子を作ってくれる約束…なんだ。 夕食はきっとヴェルが用意してくれていると思ったから」
 握る手の力は弱かった。緑里が振り払ってしまえば容易く離れただろう。だから、しっかりと握り返すとアルーベはすぐに微笑みながら困りだす。
「そう、そうだったのね。 ふふ、夕食の読みは正解。 でもこの歳でお菓子を食べるなんて私達って小さな子供みたい」
 歩き出す歩調は男の方が強く、速い。女の歩調は小さく、農園に続く小道の砂利を小さく跳ねながらその後を付いてゆく。だから、まるで歳の近い兄妹のように二人はお菓子の家ではなく、木造の古ぼけた味気無い家へと帰っていくのだ。
「知っている、かな。 今日は…」
「うん? なあに?」
 前を歩く背中は大きすぎて声があまり聞こえない。男は大きいわりに、何かとても大切な事を話すと小さな声でしか打ち明けないのだ。女はいつもそれに戸惑いながら、小さな身体から大きな声で聞き返す。
 今なんと言ったの? もう一度話して頂戴。口にして、嬉しそうに微笑むと大きな身体からはまた。
「いや、知らないならいいんだ」
 困ったような一言は嬉しげな声色に乗って消える。
「もう、折角言いかけたのだから気になるじゃない」
 今度は女が困ったような、拗ねた声を上げると、男は面白おかしそうに声を上げて笑った。そうやっていればなんだかそのまま聞かずにいても良いような気さえして、手に手を取った足を速め、二人は並んで歩き始める。
 一陣の風、舞い散る花びらの雪。淡い香りが幾重にも重なり女と男の髪に散らばる。着飾る事は出来ないがこれがきっと、美しいという事なのだ。
 茶褐色の思い出というフィルムの中、女の手にした薔薇の花束だけが明るい赤色に輝く。


素=素朴、素顔、素直//2008.02.14バレンタインデー文//この祝い方はNY流です//2月一杯お持ち帰りフリーです

素〜2008.02.14〜フリー