景耀六年、成都では今更天地が引っ繰り返ったかの様な大騒ぎをしていた。
漢城・陽安関は既に魏軍の手に陥落し、一縷の望みは前線の剣閣で鍾会と睨み合っている姜維だけだった。
無論、姜維は一ヶ月以上前に鍾会の動きを察知し成都へと書翰を送っていたが、宦官の黄皓が劉禅に取り次ぐ事を禁じた為、トウ艾が沓中に進軍するまで劉禅の耳に此が伝わる事はなかった。そして、廖化・張翼・董厥らが陽安関に送られた頃は時既に遅かった。
トウ艾が、緜竹まで侵入して諸葛瞻を撃破すると遂に劉禅は降伏し、姜維も此に従って鍾会に降伏する事となった。
「……旦那様、どうか御髪を結わせて頂けませんか」
其の涙声に、一瞬とんでもない過ちを犯そうとしているのではないかと姜維は思った。
姜維の妻のは、穏和で心優しく涙もろい性格をしていて、乱世を生きるには如何せん不向きだった。お淑やかと言うと聞こえが良いが、臆病で人見知りで……だがそんな所を含めて姜維は彼女を愛していた。
姜維が蜀に降って以来、転戦を繰り返し心穏やかに日々を過ごす事は難しかった。
だが、が居てくれたからこそ此処まで頑張って来られたのだと思う。諸葛亮亡き後、心から姜維を可愛がってくれる者は殆ど無く、また数少ない理解者達は次々と彼岸へと旅立ってしまった。
今、姜維の真の理解者はと幼い娘だけだった。
「うん……私も、今日はに頼もうと思っていた」
の嬉しそうな顔を見て、今なら引き返す事が出来る、と頭の隅で考える。
敗軍の将、それでもが傍にいれば決定的に姜維が不幸になる事など無い。解っているのに、無謀な賭けに挑もうとしている。成功の可能性が低い事は自覚しているにも拘わらず、だ。
「……私が今日邸を出たら、娘を連れて此の地を去りなさい。幸いお前は馬術には優れている。跳ばせば実家まで五日も掛かるまい」
娘には些か過酷だが……そう続けようとした姜維の背中を、の手が何度も叩いた。小さな拳は大して痛くはなかったが、だが嗚咽混じりの其の行動に心は痛みで張り裂けそうだった。
「嫌で御座います……は、は此の邸を離れませぬ!」
「駄目だっ!」
が姜維を怒鳴るのは此が初めてに近かったが、姜維は其れより更に大きな声で怒鳴り返した。もまた姜維に怒鳴られるのは初めての事だったので、先程の剣幕は何処へやらで驚きの余り目を見張った。
「駄目だ……例え成功しても魏軍はお前を狙う。お前が、私の唯一つの弱点だからだ」
姜維に抱きついたは、遂に堪えきれなくなったのか大声で泣き崩れた。其の躯をしっかりと抱き留めながら、姜維は此までの日々を思い返していた。
幸福であったかと聞かれれば困るが、しかし不幸であったとも言えない。馬遵に信用されず蜀に降り、諸葛亮の下で兵法を学びながらも鍛錬を欠かさず、ついには蜀左大将軍になり、だが戦友には恵まれず今此の時を迎えている。
「ああ……私がもう少し早く生まれていればなぁ……そうしたら、趙将軍や馬将軍と同年代だったら、誰に臆する事もなく戦場へ赴く事が出来たのに」
其れは珍しく洩らした弱音だったが、常日頃から思っていた事でもあった。姜維は知勇に優れたが、やはり机に向かうより槍を振るう方が好きだった。姜維が高い地位に付く頃には趙雲達五虎将は亡くなっており、代わりに宦官達が力を持って姜維を牽制した。劉備の跡を継いだ劉禅は、世の評判程暗愚ではなかったが、しかし乱世に立ち向かうには向かない人物であった為、宮中は次第に宦官に牛耳られ姜維は居場所を失っていったのだ。
「旦那様、止めましょう。そうして、此の侭と……!」
「うん……そう出来ればどれだけ良いだろうな。だけど、やっぱり私には出来ない……君主を、皇帝陛下を裏切る事は出来ない」
は、嫌だと頭を振ったが、其れが無駄な事で姜維を辛くさせるだけだと解っていた。それでも、泣かずには要られなかった。
「、今までありがとう。乱が成功して、お前を迎えに行ける事を祈っているよ。でも、もし失敗しても私を哀れまないで欲しい。父姜冏の名に恥じる事無く、私もまた殉死するのだから」
は、じっと姜維を見詰めた。もう二度と会えない人を、此が最後と知りながら送り出すのは、身を切られるよりも辛かった。
姜維は、鍾会と通じて魏に謀反を起こし、其の混乱を利用して蜀を再興しようとしていた。だが、其れが無謀である事は姜維自身も良く解っていた。魏は強大な国家であり、一時的に姜維達が優勢に立っても何れ何倍もの軍を送り込み鎮圧しようとするのは明らかだった。
だが、一縷の望みに全てを賭けるより姜維に残された道はなかった。
「最期まで、私は姜伯約で有りたい。例え、八つ裂きにされようとも」
誰も姜維の邪魔をする事など出来ないのだと、は震える手で彼に槍を渡した。
此が、きっと今生の別れになってしまうのだと良く心に言い聞かせたが、零れる涙を止める事は出来ず姜維の笑顔が霞んで見えた。拭っても拭っても、霞んでいた。
鍾会は、成都入城を果たすと益州牧を自称して魏に叛逆、姜維に五万の軍勢を与えた。しかし将兵は此に怒り鍾会と姜維を殺害。
蜀復興は幻に終わった。
( 2005.10.15 viax / BGM : Get-Sound Project [Ameno(雨の森辺)] )