感情を取り出して、形として見る事が出来れば、誰もこんなに迷ったりはしないのに。

愛する様に憎んで、恋する様に恨んで、けれど矢張り離れがたい情を持つ。捻れてしまう感情を、本人ですら見失ってしまう。

刹那

河内郡温県の名門、司馬防の次子として産まれた司馬懿は若年から聡明であった。建安五年に魏の粟邑令である張汪の娘と婚姻を結ぶが、張春華は未だ壱拾二歳という幼さであった為妻とは名ばかりであった。しかし、張春華が壱拾四歳になると、ある事件から彼女は司馬家の実権を握るようになり、司馬懿は家に帰る事を嫌がり政務に没頭するようになる。建安壱拾参年には漢王朝ではなく曹操の丞相府に出仕せざる得なくなり、司馬懿はいよいよ気の休まらない日々を送る事になる。

そんな折、司馬懿の下に仕える様になったのがだった。二つ程度歳の離れたは、司馬懿にとって丁度勝手の良い話し相手になった。また、には張春華程の猛々しい気性は無かった。二人とも女性には似合わぬ冷徹さを持ち合わせていたが、は感情を隠す事に長じており、司馬懿を苛立たせる事がなかった。妾を持つ事は珍しくも何ともない事だったが、司馬懿が余りに傾倒している為、張春華にとっては目障りな存在では有った。しかし、幾ら正妻とはいえ丞相府の仕事、ましては優秀であり悪し様に言う事は出来なかった。だからこそ、司馬懿は負けを嫌った。司馬懿の傍にがいる所為で敗北を喫したという噂が立つ事は、司馬懿にとって我慢ならない事だった。

「大げさな……司馬仲達ともあろう者が何を気にするのです?」

は、そんな司馬懿の心配を一笑に付す。

建安二十四年、荊州の戦いに於いて討ち取られた関羽の首級をどうするかで丞相府は迷っていた。司馬懿は手厚く葬るべきだと曹操に進言していたが、気性の激しい武将連中には反対する者もいると聞き、司馬懿は柄にもなくの前で弱気になっていた。

「諸葛孔明に破れても、張婦人に殺されても、私は私であるままですし、仲達も何も変わらないのですよ」

「ころっ……! 物騒な事を言うな。あれは本当に肝の据わった女で、何をするか私にも解らないのだ」

は少し笑ったが、心では張春華を羨ましく思った。司馬懿の正妻であり、息子も産んでいる。第一、司馬懿は口で言う程彼女を嫌ってはいない。最初から恋をしていないから、家族としてしか見る事が出来ず、だから疎ましく感じることが多いだけの様だった。それに張春華は、を邪魔に思っているかもしれないが排除する程の興味はない。は、正妻の座や権力にさして興味がある様な女ではない。故に、張春華にとっては司馬懿の溺愛する妾に過ぎないのだ。

「私は、もう少し貴方の傍で貴方を愛する事が出来れば、それで満足……」

は珍しく真面目な顔をしたが、直ぐにいつもの不適な笑みを浮かべると司馬懿にするりと抱きついた。

「そうして、もう少し貴方に愛してもらえれば満足です」

いつ果てるか解らないなら、もう少し貴方の愛情を独占していたい。此の体が存在した事を、忘れないで欲しい。

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お題用に書いていたら暗くなったので変更。張春華が好きな人には散々な内容ですみません。張春華については限りなく捏造です。

2005.07.08 viax