景初三年、曹叡から事後を託されたのは曹爽と司馬懿であり、互いに牽制し合う事で其の関係は微妙な均衡が保たれていたが、曹爽の画策により司馬懿は名誉職の太傅に任ぜられ権力の一部を失ってしまう。

だが、其の後も司馬懿は着実に功績を挙げた。正始元年に朱然が包囲する樊城に自ら軽騎兵を率いて迎撃し、正始三年には諸葛恪討ち破っている。

しかしながら身の危険を感じた司馬懿は、正始八年に風痺を理由に隠居する。此を怪しんだ曹爽が、腹心の李勝を使いにやって様子を探らせようとしたが、其れが解らぬ司馬懿ではない。逆に李勝の前で一芝居打ち、耄碌した呆け老人の振りをしてみせた。張春華亡き今、其の迫真の演技を見破れる者など居るはずもなく、勿論李勝はすっかり騙され油断した。

世界が跪けば良い

「もう、ほんま堪忍しておくれやす」

少しばかり司馬懿を睨んだは、直ぐに口角が緩むのを堪えられなくなって笑い声を漏らした。

司馬懿が呆けたと慌てて報告しに来た下女の知らせで心の蔵が止まるかと思う程驚いただが、事の顛末を司馬懿が話すと今度は間抜け顔の李勝をつい想像して笑ってしまう。

「ふん、私が呆けるはずが無い」

司馬懿も笑いを含んだ声で応えると、を膝の上に抱き上げて美味そうに酒を煽る。

老齢の司馬懿が若く小柄なを抱き上げると、其れはまるで孫をあやしているかの様にも見えそうな者だが、二人の間には一種淫靡な空気が漂っている所為か誰が見ても逢い引きと思うだろう。

「確かに見た目は若いけど、ほんまは如何かなんて誰にも解りしまへん」

抱きついたは、しかし年齢に合わぬ司馬懿の体躯に安心感を覚えた。武将とはいえ軍師であるから所詮痩躯には違いないのだが、其れでも戦場に慣れ親しんだ身体は年齢を感じさせない物が有る。

司馬懿もまた、を容易く抱き上げる事が出来る身体に、未だ老いさらばえた訳ではないと安心する。

正妻を失った司馬懿は、そう間を置かずに馴染みの遊郭から水揚げ前の少女を引き取った。

は何と言っても器量好しで、少し吊り目がちの大きな瞳で意志の強そうな眼差しをしていた――其の遊女らしからぬ美貌に司馬懿は惹かれたのだ。器量こそ違えど、其の眼差しは図らずも張春華を思い出させたが、司馬懿は気付かぬ振りをした。司馬懿は、誰に対しても慕情を伝える事は得意でなく、まして長く連れ添った妻に対する想いを口するなど好まなかった。

自身は、自分の与える印象が何処か張春華に似ているらしい事は家の者の反応で知っていたが、特段気にもならず口に出す事もなかった。それに、司馬懿が其れを認めない事も解っていた。

そういう察しの良い所も、司馬懿がを気に入っている一因だった。

「……私は、何だったんだろうな」

を抱き抱えた儘、司馬懿は似合わぬ遠い目をした。其れは、つい漏らした本音だった。

「仲達様、後悔してはりますの?」

司馬懿は誰にも仕官したくなかったのだが、曹操に出仕せざる得なくなり、やや疎まれつつも其の才覚故重用されてきた。司馬懿なりに三国が争う絵図を書き換えようと――魏に勝利をもたらそうと――してきたが、曹叡が亡き今魏にとって司馬懿は不要の様だった。其れは司馬懿にとって軽い失望を与えた。

「後悔か……そういう訳ではないが、しかしもう少し早く死ぬべきであったな」

の絹の様に細い触り心地の良い髪を撫でていると、本当に楽隠居の儘余生を送るのも楽しい様な気がしてくる。曹爽を欺く事は、曹操を欺く事に比べれば遙かに容易いが、それだけにもう良い様な気分になるのだ。

「私は、少し長生きをし過ぎた」

「そんなん……」

未だ年若いは、何と言うべきか迷ってしまう。

生きているからこそ二人の今があるのだが、しかし乱世を豪勇達と共に過ごした司馬懿には、曹爽との陰湿な腹の探り合いは気分の良い物では無い。

「そんなん、言うたら嫌や……」

司馬懿は傲慢な程自信家で、皮肉めいた笑い方が特徴的だった。はそんな司馬懿を愛していたので、翳りの有る表情を見せられるのは堪らないのだ。

「仲達様は、誰にも縛られまへん……」

「ん?」

「仲達様は笑って何でもしたらよろしおす……は何処までも着いて行きます……」

「……そうか」

司馬懿の少し乾いた唇が米神に押し当てられ、は切ない思いで目を閉じた。

誰も彼を支配する事など出来ない。彼が、誰かを支配するだけ。

2006.07.08 viax

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