『市、この身が彼岸にあろうとも、そなたが一等好きだぞ』

長政は市が共に自害する事を頑として許さなかった。娘達が心配というのもあったが、幾ら兄――織田信長――でも可愛い妹は殺さないと思ったのだろう。長政は唯ひたすら市の無事を願っていた。

優しく公正な長政は乱世には似合わぬ人だった。その微笑みは乱世の覇者の物ではなく、もしや一国の主の其れですらなかったのかもしれない。長政は、穏やかな人生が似合う人だった。

野望など、似合わぬ人だった。

「長政様……市は、もう疲れたよ……」

聞こえぬ様な小さな声で呟くと、市は苦しげな微笑みを浮かべ、切腹する為に上衣の袖から腕を抜いた。夫――柴田勝家――が介添の刀を振り上げ、もう一度市を見詰めた。市はしっかりと頷き、刀を握りしめた。覚悟はとうに決まっていた。

あの時、長政の最後の願いを叶えようと、自害せず柴田勝家と再婚し織田家再興を願ったが、最早其れも叶う当ても無いものになってしまった市は、此処で自害しなければ最後の誇りまで失うだろうと思った。市は秀吉の好意を知っていたが、市は秀吉を好まず、故にその好意に甘える気など無かった。

「市は、勝家様と結婚して、幸せだったよ」

勝家は嬉しそうな顔をした後、隠しきれぬ嗚咽を漏らし、刀を握る手が震えていた。

「……でも、市が一等好きだったのは長政様だけ……市が愛したのは、長政様だけだったよ……」

市は、もう一度口の中で勝家に聞こえぬ様に呟くと、勢い込めて腹部に刀を刺した。

お市の方、享年35歳。当世一の美女と呼ばれた織田信長の妹であった。

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市は、少しアンケセナーメンに似ている。

2004.12.01 viax