「瑜、聞きたい事があるのだが」
孫権の眉が訝しげに顰められている。孫権は、平素穏和な君主であるから、此の様な表情は珍しい。
「私は先日の戦、女子に負けたのだ」
夷陵の戦いで孫権はホウ統に負けたのだが、正確にはホウ統の配下にいた女子に負けた。彼女は、酷く申し訳なさそうな顔で刀を弾き上げると、孫権の首に戟の刃を当て、今は引いて欲しいと囁いた。
キス・アウェイ 2
「其れは埋伏の毒ではないかと」
周瑜は穏やかな微笑みを浮かべて孫権に答えた。
「埋伏の毒……其の様な事をしていたのか。アレは瑜の配下将か」
「いいえ、彼女は子明殿の副将です」
孫権の視線が周瑜から呂蒙に移る。
「自分の副将で、と言う者です」
「埋伏の毒になれる程毒気の強い娘には見えなかったが」
孫権の言葉に呂蒙も苦笑いするしかない。成程、相変わらず彼女は普通だ。
呂蒙の言葉によって策を用いる様になったは、火計を得意とし、戦場で悉く敵拠点を焼き払った。其の才知を敵将のホウ統に目を付けられ、引き抜きの密書が届いたのだが、其れを逆手に取って埋伏の毒として潜り込んだのだ。
「には、毒気など有りません。有るのは忠節だけです」
穏やかだが有無を言わせぬ強い言葉に、孫権が今度は苦笑いを浮かべた。
「成程、蒙に忠節を誓っているのか。其れは心配が無い事だ」
其の言葉に周瑜が狼狽する。
「子明殿、本当か?」
呂蒙は平然と頷く。特に周囲に吹聴した事もないが、隠していた訳でも無い。恋人を遠くへ遣りたくはないが、彼女ならば出来ると思ったから反対もしなかったのだ。
「何故言わなかった……もし、彼女に何か有ったら私は……」
愕然とする周瑜に、呂蒙は首を横に振った。
「は、埋伏の毒になる事が呉の為に成ると思ったから引き受けたのです。彼女が引き受けた事を自分がとやかく言う必要は有りません」
「子明殿、君は其処まで彼女を信頼しているのか」
笑って頷いた呂蒙だが、顎に骨張った指を当てると急に眉を顰めた。
「でも、一つだけ心配です」
「どうした?」
「はあの通り可憐ですから、敵陣で誰かに目を付けられていないかな……」
孫権と周瑜は呆れ顔で呂蒙を見たが、彼はもう一度心配だと繰り返して首を傾げたので、二人は笑わずには居られなかった。
「戻りまして御座います」
其の声に、誰よりも早く呂蒙が反応する。周瑜の手前、駆け寄ったりはしないが、優しい微笑みで迎え入れた。
しかし、呂蒙の顔を見た途端は駆け寄って泣き崩れた。
「な……何だ、どうした?」
縋り付いて泣きじゃくるに呂蒙は戸惑いを隠せず、慌てて周瑜を見る。
「……目の前でホウ統を裏切らせた……すまない。可哀相な事をさせたな」
其の言葉に、呂蒙はの髪を撫でて落ち着くのを待つ事にした。周瑜は、すまなそうにそう言うと、少し離れた窓に寄り掛かった。
「いえ……其れも将として学ぶべき事です」
そう言うと、呂蒙はを幼子の様に抱き上げた。が涙の溜まった瞳で呂蒙を見詰めたが、呂蒙は優しく微笑み返す事で彼女の働きを言外に褒めた。
「殿の前では泣かずに報告できたか」
呂蒙は、頷いたを殊更愛しげに見詰めると、少し強ばった手を握り、周瑜の目も憚らず其の指に口吻した。
「そうか、其れは偉かったな。此でお前はまた一つ、戦いに於ける駆け引きの玄妙さを学んだ筈だ。裏切る、という事は哀しい事だが、だが必ず何処かで行われる事だ。は今回は裏切る側であった。しかし、次はお前が裏切られるのかもしれない。そういう可能性を持って戦に挑む事は、残念だが将には必要な事だ」
「……を、許して下さいますか」
「泣いた事か?」
恥ずかしそうに頷いたの頬を撫でた呂蒙は、周瑜の方を見遣り、照れ笑いを浮かべた。
「うむ、次は二人きりになるまで泣く事を我慢できる様に成らねばな。周都督を困らせてはいかん」
「……はい」
は恥ずかしそうに周瑜を振り返ったが、周瑜は優しく首を横に振った。
「お前は良く働いてくれた。暫くは子明殿に褒美がてら甘やかして貰え」
呂蒙は笑いながら頷き、周瑜はやっと安堵の溜息を吐いた。
此の時間が永遠であれば良い。
お前が笑ってくれるなら、俺は何だって出来る。そう、お前の為に死ぬ事も。
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2010.01.31 viax
BGM : 天野月子 [ ゼロの調律 ]