陸遜が訪れたのは、が呉に帰って直ぐの事だった。

熱く燃え滾る陸遜の眼差しは若さ特有の物で、も其れが嫌いではなかったが、しかし陸遜の要望を受け入れる事は出来なかった。

「どうしても、受けては頂けないのでしょうか」

陸遜は珍しく食い下がったが、にとって其れは到底叶える事の出来ない願いだった。

「もう、何処へも行きたくないのです。もう、後はずっと、死ぬまで呂将軍のお傍に居たいのです」

キス・アウェイ 3

「貴方なら適任と思ったのですが……」

再び埋伏の毒になる様頼まれただが、弐度目は引き受けないと既に決めていた。

「申し訳有りません、陸将軍。ですが、私は二度と呂将軍のお傍を離れないと誓ったのです」

「……矢張り、愛しい方の傍は離れたくない物ですか?」

特定の恋人を持たぬ陸遜には、一人しか見えなくなる程の想いは解らない。其れが疎ましい様な、しかし羨ましい様なきもちになるだけだ。

「そうですね……でも陸将軍が思っておられる物とは違うかもしれません」

は、弟を見守る姉の様な眼で陸遜を優しく見詰めた。

「私は呂将軍の副将。兵の在り方を教える為にも、まず私が死んでやらねば」

「……え?」

「兵卒の死に方という物を、私が示してやらねば、誰も死に方が解らないでしょう。私が見せる事で、彼らは躊躇無く死に臨む事が出来ると思います」

陸遜は、の覚悟に背筋が凍る気がした。其れ程強い思いで彼女が戦場に立っているとを、誰が知っているのだろう。呂蒙さえ知らないのではないか。

「陸将軍、呂将軍が生きていれば、孫呉は安泰だと思って納得して頂けませんか」

其の強い思いの前には、陸遜も引き下がる事しかできない。

「……解りました」

は微笑んだが、陸遜の目には彼女が殉死者の様に映った。殉死者が持つ、不可侵の気高さを彼女は持っていた。

、此の任お前にしか託せぬ。遣ってくれるな?」

呂蒙の言葉に、は瞬時に逡巡する。

本陣に敵襲来の知らせを受けた呂蒙は、に敵将撃破を命じている。だが、敵本陣に向かう呂蒙から数人とはいえ兵を割いても大丈夫かどうか、はっきり言えばは危険を感じている。敵将である曹丕の周りには、歴戦の猛者達が控えているのだ。

「周将軍がお傍にいらっしゃったのでは?」

「いや……恐らく敵の数が予想より多いのだろう。俺の事は気にせず、幼平殿を助けて遣ってくれ」

そう言われては、は頷くしかない。

「敵将の首など直ぐ取って御覧にいれます。直ぐ戻りますので、どうかご無理成されません様」

心配そうなの口振りに、呂蒙はいつの間にか彼女が深慮遠謀の将に育った事を感じる。其の成長こそ、呂蒙がに一方ならぬ愛情を注いできた証でもある。

「ああ。そう心配するな」

呂蒙の言葉には、不思議な重みが有る。は、自分の考えなど杞憂に過ぎない事を感じ、数人の部下と共に本陣へ向かった。

其の姿を見送る呂蒙は、戦場には不似合いな程慈愛に溢れていた。

「すまない……」

あわやという所を助けられた孫権は、君主とは思えぬ程申し訳なさそうな顔をした。

「勿体ないお言葉で御座います」

敵の追走の為に馬に跨ろうとしていたは、思いも寄らぬ孫権の言葉に敬礼した。

「お前は……蒙の副将の……」

で御座います」

「そう、そうだ……蒙は……敵本陣か? すまない! 直ぐに戻ってくれ!」

其の言葉にが返事をしようとした時、一人の兵卒が血塗れで飛び込んできた。其の兵卒を鍛錬で見掛けた覚えのあるは、自分の動悸が異常に速まっていく事が解った。

「呂子明将軍が……討ち死に為さいました!」

は、世界が瓦解する音が聞こえた。其れは、正にの世界の崩壊だった。

泣き崩れたの視界に、僅かに敵将の影が見えたが、最早には如何でも良い事だった。

貴方の為なら、どんな事でも出来た。

だから、貴方が居ないと何にも出来ない。

+++++

2010.01.31 viax

BGM : 天野月子 [ 銀猫 / 蝶 / 聲 / ゼロの調律 ]