傍にいると全てを忘れそうになる。

主が天下人で有るべく戦っている事や、自分がその主に仕える忍頭である事を、忘れそうになる。

この手で数えきれぬ人を殺め、歩いてきた道全てが血塗られていて、最早極楽など夢に見ることさえないことも、忘れそうになる。

否、そういった全てを忘れたくて忘れたくて堪らなくなる。

その所為で反って思い出す。自分が本来傍にいるべき人間では無いと、思い知らされる。

ラスト・カルテット

半蔵が足音も無く傍へ歩み寄るが、女は直ぐ気配に気が付き顔を綻ばせる。

「半蔵様、いつお帰りに?」

戦場で何度も思い出しては焦がれた其の穏やかな微笑みに、半蔵はもどかしそうに口元の布を取り去ると、他の人間には見せたこともない様な満面の笑みで女を抱きしめた。

「……会いたかった……」

魂から零れた様な切実な半蔵の本音に、女は心底愛しそうに目を細めると、頭巾を外して乱れた髪を直す様に撫でた。束ねられた黒髪が僅かに解れており、それが一層半蔵を艶やかに見せた。

「半蔵様、そんなに力を込められては苦しゅう御座います。私は逃げませぬのに……」

女が笑いながら文句を言うと、半蔵やっと腕の力を揺るめ、女の顔をまじまじと見詰めた。女は半蔵の視線に少し頬を染め俯こうとしたが、半蔵の手が其れを許さなかった。半蔵の骨張った手が女の頬を包み込んで離さないのだ。

「美しいな……お前は美し過ぎる。俺は、お前より美しいものを知らぬ」

半蔵は言い終わらぬ内に女の耳に舌を入れる。女は恥ずかしそうに身を捩ろうとしたが、再びしかと抱きしめた半蔵の腕は先程同様其れを許さず、寧ろ女の恥じらう姿に半蔵は優しい微笑みを浮かべた。

女の名はと言う。戦で敗れた城主の娘で、道連れに殺されそうになる所を半蔵が偶然助けたのだ。は穏やかな娘で、父を見殺しにした半蔵を恨む事もなく戦国の習いとして其れを受け入れ、そして半蔵の愛も受け入れた希有な存在だった。の穏やかさは驚く程の穢れなさの上に成り立っており、その穢れなさは時として半蔵の枷になった。しかし半蔵はを見捨てようと考えた事は唯の一度もなかった。疑う事、憎む事、裏切る事、嘲笑う事、はその様な醜い感情は一切持たず、産まれた赤子と何も変わらぬ儘だった。

そんなだからこそ半蔵は愛したと言える。は半蔵が忍頭であることも、幾度と無く人を殺めた事も知らない。は半蔵を諜報役の忍だと思っているし、半蔵も此を否定しないからだ。半蔵の身体からは洗っても拭い切れない血の臭いがしたが、此も戦場を行き来する身故の事だとは信じて疑わなかった。

ふと半蔵がの指先に目を向けると、形が良いとは言え爪が伸びすぎている事に気が付いた。半蔵は慣れた様子で爪を丁寧に鑢始める。

「ああ……俺の背を傷だらけにされては堪らぬ……」

その言葉には反論しようとしたが、丁度良い言葉も見つからず不服そうに僅かに呻いただけだった。

「お前は……は本当に可愛い」

感嘆混じりの口調には一瞬不思議そうな顔をしたが、半蔵が余りに優しいので、何も言わずに微笑み返した。

初めて半蔵がを見た時、半蔵は違和感を覚えた。何処が、とは言えなかった。臥床で寝息を立てているは確かに美しかったし、また怪しむ所もなかった。半蔵は違和感を抱えたまま城を後にした。

二度目に見た時、半蔵はその違和感の原因を知った。は昔山賊に襲われた事があり、其れが原因で両目を失明した上、片方の瞼には酷い裂傷の跡が有った。人前に出る時は正絹で両目を覆っている様だったが、臥床では外している。暗闇でよく見えなかったが、半蔵が違和感を覚えた原因は此だったのだ。だが、眼が見えなくともは変わらず美しかったし、半蔵にとって重要な事は姿形ではなかった。

三度目は、燃えさかる城内で今にも父親に喉を斬られそうになっている所を見つけた。半蔵は反射的に城主の首を斬り落とした。は突然緩んだ父の手に驚いた顔をしたが、半蔵は人を殺めた跡とは思えぬ優しい声で話しかけた。

姫……主の命で助けに参った」

は突然現れた声の主に驚いていたが、その穏やかな口調に安心した様だった。

「有り難うございます。……あの、父上はどうなさったのでしょうか?」

半蔵はの手を掴むと指を開き、城主の手から離した。崩れ落ちた身体に冷たい視線を向けながら、半蔵はを抱き上げた。

「お父上は喉に刃を刺して御自害なされた……姫だけでもお助けしたい」

は傷付き、悲しそうな顔をしたが、半蔵を親切な同盟国の忍と思い努めて穏やかな顔で礼を言った。半蔵は腰に城主――の父親――の首級をぶら下げた儘、ひどく愛しげにを抱いて白から逃げ出し、家康の許可を持ってを屋敷に住まわせる様になった。

半蔵は恐ろしく冷酷であり、用意周到であったが、にはそんな様子は少しも見せなかった。

本当は、半蔵は同盟国の忍ではなく敵国の者だったが、それもには告げなかった。半蔵は自分が用意した心地良い籠でだけを愛で、主に仕えて生きていたかった。他の事には露程興味もなく、しかし其れが本来の服部半蔵だった。

「半蔵様、一生御傍にいさせて下さいませ」

の言葉に半蔵は極上の笑みで頷き、其の小さな手の甲に接吻をした。負の感情など知らぬ穢れなさが愛しかった。

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芹ナズナ様に捧げる二周年記念御祝夢。御祝とは思えない暗さに自分でもげっそりしました。ナズナ様からのリクエストは「目を背けたくなる程甘々な半蔵夢」だったのですが……目を背けたい程の溺愛ってこういう話では無いと思うのですが……しかし此しか書けない……。

ラスト・カルテットという題名は、沈没船タイタニックの船上で最後までカルテットを奏で続けた楽士達をモチーフにしたので其処から。

2004.02.04 viax

BGM : T.M.Revolution [vertical infinity]