掌の温度

「…不覚」

朝の光を感じ目を開くものの、体がなかなか言うことを聞かずに立ち上がらない。

昨晩寝る前までは何事もなかったはず…と昨日の行動を振り返るものの、

濡れた布がべったりと張り付くような、拭いきれない不快感が視界を塞ぐようにその逡巡を妨げた。

薄く痛む頭を打たぬように、再び寝床に横になる。

いつもよりは、若干暖かい朝だ。光から見るに天気もいいだろう。

このところ戦もなければその燻りさえもなく、半蔵は今日一日くらい…と休もうかと思った。

が、ふと思い出す。

「任務の報告だけでなく、廻った諸国を儂に話してくれんかのう?」

生まれてこの方、東海という地方を出たことのない主。

任務や修行で、東海を問わずさまざまな地方に飛び回る半蔵。

主からそう要請されては断る理由など見つからず、半蔵はまだぬくもりを宿した布団から

名残惜しそうに這い出ることにした。

身支度を整え家から出ると、柔らかい温かさを帯び湿気を含んだ空気が清々しい。

だが、それも風が吹くとどこかに吹き飛んでしまうほどに寒くなる。

風が半蔵の体を通り抜けるたび、半蔵は背中を丸めて鳥肌を立てた。

どうにも、気候だけが理由ではない寒気が体を走り、不快だった。

半蔵の家から家康のいる城はそう離れていない。

何事かあった時の為にとわざわざ近くに引っ越してきたからだ。

どうにか、体の芯まで冷え切る前に城に着き、家康のいる城内最奥のその居室の扉を開けようと

襖に手をかけると、中から家康と女の笑い声が聞こえてきた。

「ううむ、これは見事だな。まるで天に昇るように軽いぞ」

「家康様ももう少しお休みを取って下さいませ。

 お体が疲れていては、病に打ち勝つべき気力すらも萎えてしまいますよ?」

「ははは、そなたも最近お父上によく似てきたのう。

 こう、まるで母親のように些細なことにまで口うるさいところもそっくりだ」

最初は、側室でも連れ込んで何やらをしているのかと思ったが、

家康に応える女の声を聞き、半蔵の肩がぴくりと跳ねた。

諭すような優しい口調に、口うるささの中にも厳しさと思いやりが溢れる発言。

そして何よりも、家康をここまで明るく笑わせることが出来るのはたった一人しかいない。

その人物が思い当たると、半蔵の脳裏ではその女の姿が自動的に映し出される。

首を傾けるたびに光が動くつややかな黒髪に、温かい光が宿る同じように漆黒の瞳。

桜の花びらのような唇は、常に穏やかな微笑を湛えているようにも見えた。

会ったことは両手に満たないほど少ない。

城内ですれ違うことだけが二人の接点で、言葉さえも交わしたことがない。

しかしその偶然とも言える出会いで、半蔵は彼女に恋をした。一目惚れだった。

気になって調べてみると、彼女は驚くほど半蔵の近くで仕事をしていた。

父親の代から家康に仕えていて、父親は家康から最も信頼されている薬師らしい。

家康の薬嫌いはかなり有名ではあるが、彼女の父が煎じ施す薬だけは

文句を言いながらも飲み残すことはないほどだ。

そして彼女自身、家康の侍女として仕え、家康や奥方達の着物を選ぶ「更衣」の仕事をしていた。

とは言ってもここは京の宮中ではなく、都から遠く離れた武士の治める三河の地。

色の合わせや柄には特にこだわらない家康だったが、彼女のその審美眼や

家康の心を深く探るような洞察力を、とても気に入ったらしい。

毎日毎日彼女が着替えを持ってくると、何かにつけ話しかけては傍に置いておきたがる。

その家康の傍らで、彼女を見たのが一番の接近だった。

家康が呼びかける言葉で名前を知った。

」。彼女らしい名前だと、口の中で小さな声で呟くと、

まるで彼女の包まれているような、そんな幸せな錯覚を感じたほどだった。

この襖の向こうには、愛してやまないがいる。

一目でも多く、少しでも早くその姿を目に焼き付けたいという小さな欲望が心の中に広がったが、

襖にかけた指は強張り、左右にスライドさせるだけの力すら入らない。

部屋の中は多分家康との二人きり。

これまでは声を掛けられずとも、それは接した時間の少なさや距離の遠さを言い訳に出来ていたが

今回だけは、そういう訳にはいかなさそうで、半蔵は薄くめまいを感じた。

やはり帰ろう。家康には後で使いを出して体調が悪いと説明しようと思った途端、

先ほどには緊張のあまりに力の入らなかった指先に、瞬間的に力が篭った。

半蔵の心がどう思っていようと、半蔵の体はいまだ襖を開けようと奮闘していたらしい。

気付いた時には、半蔵とを隔てる薄い襖はほんの片手分ではあるが開いてしまっていた。

「おお、半蔵。待ちかねておったぞ。今日はいろいろな話を聞かせてくれるのだろう?

 さあ、寒い廊下にいつまでおるのだ。早く入ってまいれ」

「…御前、失礼」

家康に声まで掛けられてはいつまでも硬直しているわけにもいかず、

半蔵は慌てて頭を下げたが、ふと、ある違和感を感じて考え込んだ。

先ほどの自分の声が、朝のそれよりも更に枯れているように思えたのだ。

具合はいいとも言えないがそう悪いとも感じない。なのに、声だけがやけに掠れている。

すぐに合点がいった。

入室後が手づから入れてくれた白湯を飲むと、喉がとても潤された感じがしたからだ。

緊張のし過ぎで喉がカラカラになったことに気付くと、半蔵は少し消え入りたい気持ちになった。

「半蔵、その声はどうした? 風邪は万病の元、こじらせるのはいかん。

 そうだ、儂の薬を持ってくるから、それを飲むといい」

「…我には、無用」

「ならん! よいか、少し待っておれ。

 そうじゃ、その間にに何か話でもしてやっていてくれんか? も待ってておくれ」

「まあ、よろしいのですか? では、お待ち申し上げております」

家康がバタバタと足音を鳴らして廊下を歩いて、その音が聞こえなくなると

は吹き出すようにころころと笑い出した。

「ふふ、家康さまったら、お手持ちのお薬を早く無くしてしまいたいようですね。

 あ、そういえばご一緒するのは初めてですね?

 私は家康様の御側仕えをしております、と申します。お見知りおきくださいませ」

「…ああ」

名前も、側仕えだということも知っているとは言い出せず、そしてまた緊張のためか

気の利いた返事も出来ない自分がどうしようもなく情けなかった。

そんな気まずさを胸に隠しながらも、いざ好いた女と二人っきりになってしまうと

何をして、どう過ごせばいいのか分からない。

黙り込んだまま俯いてしまった半蔵を、は少々寂しく見やったが、ふと思いついたように言った。

「服部様、家康様は私に何か話をと仰られておられましたが、

 そのお声ではお話しするのも大変でしょうから、私は気にせず少しお休みになって下さいね」

「…しかし」

「ほら、本当にお苦しそう。お体は辛くありませんか? お熱は?」

のすっと上がった眉が顰められ、目には心から心配そうな色が浮かぶ。

その表情を見るだけで、半蔵は心苦しく、ないはずの熱が上がってしまいそうな錯覚を覚える。

の顔を間近で見、息遣いが聞こえそうなほど近くにいるというその事実で

半蔵の顔が少し赤らんだ。

それを、は熱があると思い込んだのだろう。

「ご無礼を、お許し下さい」

半蔵が返事をするよりも早く、半蔵は額にひやりとした感触を感じた。

そしてそれがどういう状態なのか気付き、後ろに飛び退ってしまうほどに狼狽した。

の白い右手が、半蔵の額を覆っていたのだ。

後退した半蔵の様子に、は無礼が過ぎたと考えて平伏して謝りだす。

「出過ぎた真似を、申し訳ありません…!」

「…いや、構わぬ。我こそ無礼をした」

少し距離を取った今でも心臓の高鳴りは収まらない。

に聞こえてしまわないかが気がかりで、半蔵は気が気ではない。

きっと、今声を出せば掠れた上に上擦っていることは確実だろう、そう思うと声すら出せなかった。

と同じ空間にいられるのは至福、だが自分の至らなさゆえに空気は冷えるばかり。

居た堪れなくなって俯いた半蔵と、同じくどうしたらいいのか分からない様子の

半蔵に触れた右の掌を左手で包み、なにやら落ち着かない様子でもあった。

「…如何、した?」

「あの、まことに申し訳ないのですが、私の手、冷たくありませんでしたか…?」

つい先ほどの出来事を反芻する。

出来事自体を思い出すだけで、半蔵は耳が熱くなるのを感じたが、

確かに、思い返せばの手はとても柔らかかったが、とても冷たかった。

「…冷たかった、な」

「だから服部様の額が普通よりも温かいのかそうでないのかが分からなくて…。

 でも、熱があるかないかで飲まなくてはならないお薬も違ってしまいますので…」

やりたい事は決まっている。

だが、先ほど飛び退った半蔵を思うとなかなか口に出せずにの語尾が弱くなっていく。

「…正確に計る方法があるなら、試せばいい」

自分の体を気遣ってくれるの行為を断る理由もなく、

ややまだ気恥ずかしい気持ちを抑えながら半蔵が答えると、は決心して言った。

「では、少し目を閉じていただけますか…?」

言われるがままに半蔵が目を閉じると、がにじり近寄る衣擦れの音が聞こえた。

「失礼、いたします」

のその言葉の一呼吸後に、半蔵の少しほつれた前髪がかき上げられた。

そして、また一呼吸ほどの間の後に、額に次は冷たくなく硬い感触があった。

コツンと小さな音が聞こえたような気がした。

何事かと思って半蔵が目を開けると、そこには目を閉じたの顔。

半蔵の額とのそれがくっつきあい、お互いの熱を移しあっていた。

長い睫毛に一点の曇りのない肌。

気恥ずかしいことはこの上なく、時間にすればほんの一瞬の出来事ではあったが、

その美しい顔に半蔵は目と、そして心を奪われていた。

次の刹那、の黒耀の眼が開き半蔵の目を捉える。

見惚れていた半蔵と、目を開いたばかりのの視線が交錯し、半蔵は硬直してしまった。

顔が赤くなるのが自分でも分かる。耳も、首筋も熱い。

全身が心臓にでもなったかのように高鳴る鼓動が痛かった。

飛び退ったのはの方。かあっと頬を朱に染め、両手で覆う姿は何時よりも美しかった。

飛び退ったものの、距離は拳一つ分ほども開いていない。

の着ている着物が、とくんとくんと鼓動に合わせて震えているのが分かった。

「…あの」「…、殿」

口を開いたタイミングが揃い、二人顔を上げるとまた目が合い、

二人ともまた顔を更に赤くして俯いてしまう。

「…我の、熱は?」

声が上擦っているのは自分でも分かった。

「…とても、お熱うございました」

震える声でが答える。

「でも」

「私もきっと熱いので、正確には分からなくて…」

お役に立てず申し訳ないと、か弱い声で付け足してまたは両手で頬を包む。

先ほど冷え切った空気が嘘のように、部屋の中が熱く思える。

「もう一度、計るか?」

「きっとまた、上手に計れないと思いますが…」

薬師の娘という自負と責任感があるのだろう、きちんと検温しようと半ば意地になっているかもしれない。

「失礼します」

また一声掛けて、が半蔵の前髪を手で上げ押さえる。

それを合図にするように半蔵が目を閉じると、一旦近付いたの発する熱がすっと遠くなった。

訝った半蔵が薄く目を開くと、は慌てた様子でまた目を閉じ顔を近づけた。

コツンと額ではなく鼻の頭が触れる。そして額が重なると同じ瞬間に、二人の唇が微かに触れた。

「……!」

「〜〜〜!」

この部屋で何回繰り返されたか分からない、二人の飛び退り。

先ほど額を合わせた時に、半蔵ももこれ以上ないほど頬を紅潮させたのだが

あまりの出来事に二人の体を流れる血液が顔に、そして触れた唇に集中する。

全神経までもが集まったように、その柔らかい感触が何時までも残って離れない。

上唇が微かに触れただけの、口付けとも言えないような触れ合いだったが

もともと鋭敏な箇所が更に敏感になっているような気がして、半蔵は自分の唇を手で触れた。

先ほど触れたのそれよりも、薄く硬い唇。

そこにあの薄桃色の、つやのある柔らかい唇が触れたのだと思うと

半蔵はかえって申し訳ないような気持ちになった。汚してしまったようにすら思えた。

「…すまぬ」

返事はなく、ただは掌で顔を覆い首を激しく横に振った。

指の隙間から覗く顔は、もっと寒い時期に咲く椿のように赤い。

「…悪い、ことをした」

少し項垂れながら半蔵がそう言うと、は両手の覆いを除けて真っ直ぐに半蔵を見つめた。

「悪いことだなんて、仰らないで下さい…」

瞳は潤み、柳のようにたおやかな眉は今は下がってしまっている。

今自分が愛しい女を困らせてしまっていると思うと、半蔵の眉も悲しげに顰められた。

家康との約束を反故にして、退出できるならしてしまいたい。

だが、目の前にいるともっと共にいたい。

そう思うと半蔵は、ただを見つめることしかできなかった。

の右手が唇に添えられる。

自分の額に触れ、髪にも触れた白く細い指先が、桃色の唇を押さえ、なぞる。

愛しい、大切なものを触れるかのようなその仕草に、半蔵の中で何かが弾けた。

まだ震える手を伸ばしの左の頬に触れる。

ぴくりと小さくの肩が跳ね、伏せられていた目がゆっくりと開き半蔵を見つめた。

瞳はまだ涙を薄く湛えたままであったが、は確かに微笑んだ。

「…我は、そなたを」

細く頼りない糸を紡ぐように、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。

声がかすれているのも、今は気にもならない。

「ずっと、愛していた」

その言葉には、左の頬に添えられたままの半蔵の右手をぎゅっと強く左手で包んだ。

大切なものが離れてしまわないように、ずっと自分に留めておくかのように。

「…夢ならば、こんなに醒めてほしくないと願ったのは、初めてです…」

「夢では、ない」

「嬉しい…、すごく、嬉しいです…!」

顔を上げ、また真っ直ぐ半蔵を見つめる大きな目。

湛えた涙は今にも零れそうになり、だがその涙には悲壮な色など何処にもなかった。

半蔵は両手で、の両頬を包むと、未だ熱いままのその唇を次はしっかりと、

二人の唇が溶け合い混ざり合いそうなほどに重ね合わせた。

山ほどの薬を抱えてきた家康が戻ってきたのはその四半刻後。

過ぎるほど熱い空気を孕んだ室内と、二人の頬がいまだ赤いことには微塵も触れずに

自分が持ち運んできた飲みもしない薬の解説を自慢気にして、その日は一応終わりを告げた。

だが、二人は後に知ることになる。

二人の胸のうちに秘めた思いを誰よりも早くに敏感に察知したのは、他ならぬ家康自身だったこと。

そして、なかなか進展せぬどころか思いを秘めたまま人生を終えそうな二人をもどかしく思い、

どうにかして二人の仲を取り持とうと画策していたこと。

そして、「この機会を逃しておったら、無理矢理にでも見合いさせていたわい」と

笑いながら話す様子を見て、どうやらあの日あの部屋で何があったかなど見通されていたことも。

「喰えぬ狸よ」

生まれて初めて、そして生涯で唯一、半蔵が己の敬愛してやまぬ主君についた悪態だった。

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viax様から頂いたリクエスト、ヘタレ半蔵夢です。

掲示板への書き込みを拝見した時から脳みそにこびりついて離れない、

押すに押せないようなもどかしい半蔵をそのまま直球ストレートに書いてしまい まし た…。

目標に掲げている、viax様の浸るほどの甘さを目指したつもりではありますが、

半蔵がヘタレなばっかりに(嘘です、私がヘタレなんです)、最初から最後まで甘いというか、

煮え切らない感じになってしまってもう本当にお詫びのしようがありません…! 気合だけは入ってます!(笑)

構想にはあったのですが、歯をぶつけるような勢いもない、そんなヘタレ半蔵ですが

半蔵もろともこの管理人を今後ともよろしくお願いいたします!

リクエスト本当にありがとうございました〜!

(2004.12.13)

「掌の温度」の副次著作権は、愛の庭の芹ナズナ様に帰属致します。よって該当作品の一切の無断転載を禁止致します。

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「愛の庭」様の弐周年企画でリクエストさせて頂いた半蔵夢です。半蔵さん大好きなのですが、ヘタレな半蔵さんは殆ど見かけないので思い切って「純情ヘタレ片思い」でリクエスト致しました。ヘタレ万歳(笑)。

常にヘタレヘタレな半蔵さんで、でも最後は男で締めてあるので、読んでいてとてもどきどきしました。赤面する半蔵さんとか素敵すぎる。思わず何度も読み返してしまいました。

ナズナ様、本当に素敵な夢を有り難う御座います。

2004.12.22 viax