その人は幼い私の妹と根気良く遊んでくれて、色々話し相手になってくれて、食事の世話もしてくれた。私も若かったので、大人は皆子供に優しいものだとは思っていたけれど、それでも特に優しい人だと感じた。
優しいオジサン。ずっとそう思っていた人が、私より年下で、何より戦場では恐れられる武人だと知ったのは随分経ってからだった。
舌の上で溶けたモノ
曹操には複数人の妻がおり、その中にの妹もいた。少し歳の離れた姉妹で、未だ姦雄であった曹操に嫁ぐと言い出した時は家中がひっくり返った様な騒ぎになった。今となっては笑い話だが、は徹底して妹の味方だったので何度なく両親と口論になったものだった。地方官吏である親からすれば、明日の知れない群雄より今が確かな地方豪族にでも嫁がせた方が家の為だと思うのは無理からぬ事だった。結局、曹操は誘拐同然に婦人を連れて行ったが、だけは曹操を責める事無く両親を何とか諫め続けた。
妹である婦人は、其の様に常に自分の支えでいてくれた姉に恩返しをしたいと思っている様だったが、多くを望まぬに何をすれば喜んでもらえるのか解らず、寝物語に曹操に相談をしてみた。
「では、儂がに恩返しをしよう」
そう言い出した曹操に、婦人は感謝した。何をするつもりかは教えてくれなかったが、曹操のする事だから間違いなく姉は喜んでくれると思った。
数日後、は何時もより少し華やかな出で立ちで婦人の元を訪れた。蓮が美しい池に船を出して茶会をするという文を、曹操から貰ったのだ。いつもは色味を押さえているが、今日は華やかな刺繍が施された着物を着ており肌の白さが際立って見える。
「義姉上、此方です」
曹操の声に、は微笑みながら近付いた。決して若くはないが、年相応の落ち着いた雰囲気が周囲を優しい気持ちにさせる。
そもそも婦人は曹操が目を付けるほどの美人であるから、其の姉のも当然美しい女性である。ただ、色恋にはとんと興味が無い様で親の声を無視して独身の侭でいる。周りの者は勿体ないと思っていたが、本人に気がないのでは仕方が無い。
「本日はお招き頂き恐悦至極に……」
「いやいや、そんな堅苦しい挨拶は結構。今日は義弟として此処に来ております。義姉上もおくつろぎ下さい」
曹操は、の挨拶を遮って船へ促した。が慣れぬ足取りで乗ろうとすると、艪を持っていた人物が手を掴んで支えた。
「ありがとうござ……」
が船頭と思った人物を見上げると、其処にいたのは魏国が誇る隻眼の勇将、夏侯惇であった。
「義姉上、今日は其の無粋な男と見合いをして頂きたく席をご用意致しました。後で四人で食事をするとして、暫く二人で蓮を眺めて下れ」
曹操の言葉に驚いてが振り返ると、曹操は船を足で思い切り押して船着き場から離してしまった。頼みの妹も笑顔で手を振っている。は諦めて船に座り、力なく妹に手を振り替えした。夏侯惇の表情は逆行で良く見えなかったが、艪を漕ぎだしたのだから、きっと苦笑していたのだろうと思った。
夏侯惇は蓮の花を傷付けない様に慎重に船を漕ぎ、その姿は彼の実直で誠実な性格を如実に現していた。けれど真面目一徹で融通が利かない訳でもない。何時だったか、前線に布陣していながら学者先生を招いて講義をしてもらっていた事があったと、曹操が半ば呆れながら話していた。良くも悪くも大らかな人だと、其の時から思っている。きっと夏侯惇は、そんな事をが知っているとは思いもしないだろう。
「……婦人に甘いな」
丁度池の真ん中に来た頃、夏侯惇が話しかけた。笑いを含んだ夏侯惇の声に、ははにかんで頷いた。
「あの子とは歳が離れておりますし、妹でもあり娘でもある様な気がします」
「婦人は周りの人を和ませる。孟徳でさえ婦人の前では控えめだ。あなたの教育のお陰だろう」
夏侯惇は口調はぶっきらぼうだが、話す眼はとても優しく、は柄にもなく少し照れた。其れは大切な妹を褒めて貰ったからだと思ったが、其れだけでは説明のつかないときめきが胸を締め付けた。
「教育など……大袈裟な物では……」
「いや、あなたは良い姉だ。だが……だが、そろそろ良い姉以外になっても良い筈だ」
が良く意味が解らず夏侯惇を見つめると、顔が真っ赤になっている。もしや今のは愛の言葉だろうか、と思うとも顔が熱くなるのが解った。
「それは、どういう?」
「つまり、つまり、俺は、殿が好き、なのだ。だから、孟徳に頼んで……しかし! しかし断りたければ断ってくれて良いのだ。嫌なら、戯言と思って、聞き流してくれて良い……」
赤くなったり青くなったり忙しい夏侯惇に、は思わず吹き出した。夏侯惇は、隻眼とはいえ見た目の良い男なのでそこそこ女に騒がれているが、曹操とは違って女の扱いは上手くない。伽の女も使わないというから余程変わっている。そんな夏侯惇がを好きだと言うのだから、此は相当本気としか思えない。
「夏侯将軍なら、こんな行き遅れ選ばずとも宜しいでしょうに……」
は、三十路を迎えており世間ではとうのたった行き遅れである。それでもは見目立ちが良いし、妹が曹操の側室であるから、中級程度の家ならば泣いて喜ぶだろうが、曹操の従兄弟である夏侯惇に良い事は何も無い。寧ろ、の両親が狂喜乱舞するだろう。妹は時の権力者に、そして行き遅れと思っていた娘も権力者の絶大な信頼を得ている男に嫁ぐとなれば、笑いが止まらなくて無理はない。
「俺が、あなたを好きなのだ。あなたは……あなたは、盲夏侯に嫁ぐのはお嫌か?」
僅かに皮肉めいた口調に、は反って夏侯惇の幼さを見た気がして微笑ましい気持ちになった。夏侯惇は、実は弐拾九であるからの一つ下になる。一つなんて大した差ではないが、少し世話好きのとしては子供っぽい人の方が可愛い気がする。其れに、夏侯惇は子供染みているだけではなく、勤勉で勇敢な尊敬に値する男でもある。
「嫌では……でも、そうですね……もう少しお付き合いしてから、もう一度求婚して頂きたいです」
は思わず子供をあやす様に囁いたが、夏侯惇は嬉しさと恥ずかしさで先ほどより赤面している。其れは夏侯惇の素直な気質が現れている様で、は夏侯惇をずっと愛せる気がした。
「それは、もう……必ず……」
夏侯惇は、決してその場でを抱きしめたりしなかったが、手を握りしめて誓われたその言葉に、嘘がある筈もない。
妹の面倒を見てくれたあなたは、私の事も自分より年下だと思ったのか、眠った妹を抱いた侭私に手招きをした。妹を渡されるのかと思って駆け寄った私に、あなたの手は私の舌に甘い砂糖菓子を乗せた。ゆっくり溶けたあの甘さを、私は今でも覚えている。其の事は、あなには当分内緒だけれど……。
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私の妄想の中の夏侯惇は、男前で愛妻家です(笑)。
2005.07.30 viax
BGM : 黒夢 [CORKSCREW]