女の寝顔を見ていると、訳もなく嬉しかった。
女の髪を撫でていると、訳もなく愛しかった。
女の唇に触れていると、訳もなく恋しかった。
女の瞼に唇を寄せると、訳もなく心悸くなった。
女の姿を眺めていると、訳もなく心涼しかった。
婚姻
破瓜の痛みは、男である夏侯惇には解らない。ただ、その痛みを夏侯惇の為に笑って耐えていた姿は忘れられない。思ったより冷静に抱く事が出来なかったのは、思いやりの欠如でも技術不足でも無く、愛しい女と繋がるのだという少年の様な興奮からだと言えた。初めて女を抱いた時でも冷静だった夏侯惇としては、恥ずかしくもあり嬉しくもあった。
曹操の右腕として女に興味など持たず、酒宴の後曹操が用意して宛われた女を無感情に抱くか、その気にならなければ追い返す事さえ合った。恋という物がどの様な物か、あの時の夏侯惇には想像も及ばなかった。婚姻に女の意志など関係ないし、男の意志さえ関係ないと思っていた。家の為、国の為、婚姻は当事者同士で収まる問題ではなく、ましてや漢王朝の高官であり曹操の右腕である夏侯惇の婚姻は、夏侯惇の与り知らぬ所で勝手に進む物だと思っていた。
戦乱に明け暮れ、参拾四まで妻も娶らず妾も持たなかったが、其れも仕方のない事だった。曹操の様に都度都度有力者の娘や気に入った娘を娶る訳にはいかない。まして寝所の出入りが許されている夏侯惇としては、曹操に仇成す可能性のある娘を娶る訳にはいかなかった。何時しか夏侯惇は、夏侯の家の為に跡取りが必要ならば、夏侯淵の息子を養子に貰えば良いと思っていた。元より女が得意な訳ではない。妻など持てば要らぬ苦労が増えるだけだと思っていた。
だが恋をした。幼子の様に唯焦がれるだけの恋を。自分がこんなに純情であったとは知らず、だが不快ではなかった。僅かに穏やかな表情を見る事が、夏侯惇の至福となった。曹操への中忠誠は変わらなかったが、を諦める事は容易い事ではなかった。恋心を秘めたまませめて見詰めていたいと思い、其れがいつの間にか恋仲になり、最早手放せなくなっていた。この儘死が分かつ時まで傍にいて欲しいという願い、だが夏侯惇は曹操の従兄弟である。夏侯惇の妻になると言う事は、曹操の親族になると言う事である。両親の敵として曹操を憎んでいるが、二つ返事で了承してくれるとは思えなかった。
だが諦められない。
夏侯惇の眼が切なげに弧を描いた。手放す事も、傍に置く事も出来ない女に焦がれた男は、一体どうすればいいのだろう。夏侯惇の指が慈しむ様にの瞼に触れると、ゆっくりとの瞼が持ち上がった。
「……元譲?」
寝ぼけ眼のの眼前には涙を零す夏侯惇が居た。右眼から静かに涙を零すその様は、もう今は無い左眼からも大粒の涙を零すのではないかと思わせた。
夏侯惇は何も言わず、その良く鍛えられた胸にを強く抱き締めた。此が今生の別れではない。だが妻に娶れぬのならば、何れ手放せねばならなくなる。夏侯惇は妾を持つつもりはなかった。また愛する女を妾にするつもりもなかった。の幸せを願うならば、然るべき男に嫁がせてやらねばならないと思った。
「俺は、が愛しくて堪らぬ。だが俺の妻にはなってもらえぬと思うと悲しくて……」
夏侯惇の涙が頬を伝っての顔にも零れた。隻眼の猛将が女の為に泣いていた。はそのことを意外に思いながらも、自惚れずにはいられなかった。大陸に名を轟かせ、近隣の有力者からも欲せられる曹操の武が、女の為に−の為に−泣いている。
「俺は、孟徳の従兄弟である事を誇りに思っている。だが、其れがとの婚姻の足枷であると思うと、僅かたりとも嘆く心がないと言えば嘘になる」
は僅かに顔を歪めた。愛しいこの男には、曹操と同じ血が流れている。だが今更其れを思い出して夏侯惇を嫌うなど出来ない事だった。の父を殺し、の母を殺した曹操軍。だが、に生きる場所を与え、最愛の人を与えたのも、また曹操軍だった。
しかも曹操はの憎しみを知りながら生かしている。最も信頼する従兄弟の恋人である事にも文句一つ言わない。には曹操という男が解らなかった。残虐かと思えば柔和、非道かと思えば温厚、その深淵な人格がの憎しみを暈かした事は確実だった。
「……私の母は、父の正妻ではありません。美しさと聡明さを持ち合わせるには分不相応な家に生まれ、政治の道具として王から王へ嫁ぎ、父は褒美として母を賜ったのです。母にとっては自分を物の様に扱う王がさぞ憎かったでしょう。でも父とは仲睦まじかった。幸い子供は女の私一人。正妻から疎まれる事もなく穏やかな生活を送っていました。煌びやかな調度に囲まれた生活に比べれば、父との生活は質素だったかも知れません。父は持たざる者に多くを与えてしまう人でしたから……けれど、母の幸せは父の傍にいた20年弱に集約されるのではないでしょうか」
夏侯惇はの両親については殆ど知らなかった。討伐軍の話では、最後まで屋敷にて王を庇い立てしたので殺したと聞いている。知謀で知られる文官であったから、庇い立てしたのは己の武を誇る為ではなく忠誠心よりの行動であろう。権力に譲らない――その姿は確かにに重なる物があった。
「……憎い君主を持つ夫の元でも人は心穏やかに暮らす事が出来るのですね」
夏侯惇は相槌を打とうとして考えた。今の言葉には大きな含みが持たされていた様な気がした。
「……何と?」
は夏侯惇を見上げて、もう一度繰り返した。
「憎い君主を持つ夫の元でも母は幸せでした。父が母の事を心の底から愛していたからです。ならば私も元譲の傍で幸せになれるでしょうか」
夏侯惇は暫く呆然との顔を見詰め、やがて激しく頷いた。
「勿論っ、勿論だ! お前に後悔などさせない!」
は夏侯惇のあまりの激しさに眼を見張ったが、やがて笑い出した。
「そういう元譲だから、こんなにも恋い慕わずには要られないのですね」
は深く息を吐き出すと、事も無げに呟いた。
「曹操への憎しみが揺らぐほど」
夏侯惇は耳を疑ったが、聞き直す事は出来なかった。の眼差しが聞き間違えではないと伝えていた。夏侯惇の為に曹操を打たないという事は、の苦肉の決断だった。男の為に刃を振り上げられなくなるのが女の宿命ならば、なんと女とは脆く情に流されやすい生き物なのだろうか。だが隣でを抱き締める男が愛しいのも事実だった。最早歪める事の出来ない事実。
「……」
夏侯惇の腕がを抱き締めた。これ以上ないと言うほど、優しく。
「の幸せが俺の傍にあるならば良いと幾夜も願った。もし此が幻でないならば、俺の妻になって欲しい」
は涙を零して頷いた。の幸せは最早曹操を打つ事ではなかった。
母の幸せは父の傍にある事だった。子を為し愛する者の傍で永遠を終えた母は、思っていたより幸せだったのかも知れないと今更思う。
母に愛され、父に愛され、末子という理由で異母兄姉達にも愛されて育った自分は、例え両親や親族を失っても、其れでも自分が思っていたよりは遙かに幸せだったのではないかと今更思う。
愛されて育ち、愛されて嫁ぐ。この乱世において、私は恵まれている。
朝日の中、夏侯惇の接吻を受ける。
不思議なほど晴れやかな気分で、曹操に会いに行く。
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4ヶ月振りに更新致しました。お待たせしてしまい申し訳無い。
女は情に脆いからこそ、良く夫を支える事が出来たのだと思います。今とは時代背景が違いますし。
2004.04.20 viax
BGM : 大塚愛 [さくらんぼ] 遠来未来 [鎖]