眼を開ければ、母が笑っている様な、父が笑っている様な錯覚。
しかし、ゆっくりと眼を開いて眼前を見据えれば、微笑むのは精悍な男。
骨張った手で私の顎を掴むのは、戦場で武を誇る猛将。
永遠に私を愛すると誓った、愛しい男。
永眠
曹操は、婚姻の許可を貰い受けに訪れた夏侯惇とを前に穏やかに微笑むと、嬉しそうに祝いの言葉をかけた。その笑顔も祝辞も、不思議なほどの心に敵意を起こさなかった。あれ程憎んでいたのが嘘の様に、曹操の顔を見ても殺意が湧かなかった。其れが母の幸せに気が付いたからなのか、夏侯惇に愛されているという充足感からなのかは、解らなかった。唯、最早眼前の曹操という男は、悪名高き姦雄ではなかった。
改めて見詰めると、曹操はと背丈こそ変わらないが、生まれついての覇者なのか、威風堂々とした雰囲気の男だった。夏侯惇の様な一目見て解る様な鋭さは無いが、軽んじれば何れ大きな竹篦返しを食らわせるだろうと思わせる威圧感が有った。
今も、の中には曹操を憎いと思う気持ちがある。両親を失った以上、其れは仕方のない事だと言える。曹操さえ国を攻めてこなければ、父母の元で今も暮らしていた筈なのだ。だが、今のには同時に父への疑問もわき上がる。父は、何故曹操ではなく亡き君主を選んだのか。凡庸で矮小な尊敬できる処も人を圧倒する様な魅力もない男に、何故父は仕えていたのだろうか。父を攻めるつもりはないが、今となってはそう思わずにはいられなかった。
甘やかされて育った私は、今でも婚姻を両親から祝福されたいと想わずには要られない。こんなにも幸せなのに、其れでも心の片隅で願ってしまう。
曹操という男には、不思議な魅力があった。曹操は善ではない。だが、偽善でもない。偽善が人に嫌悪感を抱かせる悪であるならば、曹操はそんな矮小な存在ではなかった。もっと純然たる悪。最初から悪として存在し他人に過度の理解を求めず、だからといって孤高では無く、大勢の猛者を従え覇者への道を迷い無く歩む男。の愛する夏侯惇が傾倒し、命さえ惜しまぬ男。しかし異質であるが故に筋違いの嫉妬さえ湧かない。曹操という男は、夏侯惇という猛将を手駒の様に操るでもなく、君主として君臨する親友なのだと誰も疑わない。さえも。
「孟徳、俺がと婚姻するに辺り希望がある」
夏侯惇の声が僅かに震えていた。其れは並大抵の緊張ではない事を伝えた。
「……何だ? 改まって」
曹操は希望を知っているかの様だった。また其れに応じる心積もりがあるかの様にも見えた。
「は、俺の妻になる訳だが……孟徳の臣下になる訳ではない」
「……どういう意味だ?」
「……孟徳はの仇敵、俺の妻になる事が孟徳の臣下になる事だというのならば……俺は、と結婚できない」
その言葉には眼を見張ったが、曹操は予想通りだったらしく笑いながら髯を撫でていた。
「成程、其れは困る。儂はには幸せになって貰わねばならぬからな」
眼を閉じて笑う曹操は、其れがへの罪滅ぼしなどではなく厚意だと思わせた。多分そうなのだ。曹操に罪滅ぼしなどと言う詰まらぬ情は無い。だから、曹操はを気に入っているのだ。恐らく容姿では無く、其の秀でた武を、或いは気骨を。そして願っているのだ。最も信頼する無口で愛想は無いが強くて誠実な友人に、という女が嫁ぐ事を曹操は望んでいるのだ。
「……曹公」
其れは、今までのどの呼び掛けよりも穏やかだった。
「曹公、私は夏侯元譲の妻になる事を切望しております。私にとって彼のいない生活など最早考える事は出来ません」
は一度深呼吸をした。唇が僅かに震えていた。
「元譲の元で、私は曹公を見ていました。彼方が中原を支配するに値する人物か……夏侯元譲が命を賭すに相応しい人物なのか……」
の眼差しが曹操に注がれる。鋭い眼光に夏侯惇さえたじろいたが、曹操は笑顔の儘だった。
「私は彼方を許す事は出来ない、両親を愛していたから……けれど彼方を否定する事も出来ない。彼方は生まれついての覇者なのだと、認めなければ私が卑怯な人間になってしまうから。私が言いたい事は其れだけです」
語気がどうしても強まってしまうのを抑えながら、は淀みなく喋った。その姿に、愛しい者の気高さに触れて夏侯惇は涙が出そうだった。
「孟徳、良く考えておいてくれ」
夏侯惇はやっとの思いで其れだけ言うと、の肩を抱いて退出しようとした。扉に夏侯惇の手が掛かった時、曹操が声を掛けた。
「夫人、儂は彼方にとってどの様な認識をされている?」
夫人という呼び掛けに、夏侯惇は眼を見張った。其れは曹操が婚姻を認めた証だった。
「彼方は、曹公……曹孟徳という列強の一人です。それ以上でもそれ以下でもありません」
曹操は優しい顔眼差しでを見詰め、夏侯惇に視線を移した。
夏侯惇は何も言わず曹操を見ていた。深い眼差しに曹操は安心する。
夏侯惇私邸、夏侯惇はを抱いたまま眠っていた。
夜着から覗く首筋には、昨夜の引っ掻き傷が見える。痛みを堪える為に無意識でが縋った様だった。
夏侯惇の落ち窪んだ左眼にが触れても、起きる気配はなかった。其れが無性に愛しかった。が夏侯惇を信頼にする様に、夏侯惇もを信頼してくれているのだと実感できた。
「彼方の傍で生きると決めたから、彼方が私の傍にある限り、私の憎しみは静かに眠るでしょう」
の唇が夏侯惇の瞼に触れた。
「そして、私は憎しみを眠らせた儘死んでいくでしょう。彼方を愛して……彼方の為に……」
夏侯惇の死に場所が戦場である様に、の死に場所も戦場しかない。其処でだけ、愛する者の盾となって死ぬ事が出来るから。
「其れこそが、私の幸せ」
夏侯惇は建安弐拾五年四月弐拾五日に曹操の後を追う様に逝去した。その功績は史書に刻まれ、悠久の時を経ても風化する事なく残っている。
妻、の名は史書に登場する事はない。その武勇も美貌も、全ては夏侯惇と共に埋葬された。其れもまた、史書に刻まれる事のない歴史の一部である。
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遂に完結致しました。七ヶ月に渡りお付き合い下さった皆様には何とお礼を言って良いか解りません。本当に有り難う御座いました。休み休み書いていたので、完結を迎え、感無量です。
もっと書きたい事は沢山有るので、短編として「30のお題」でこの二人を未だ未だ書いていきたいと思います。稚拙な文章ですが此からもお付き合い頂ければ幸いです。
2004.04.29 viax
BGM : 鬼束ちひろ [INSOMNIA]