如何様に理由を付けても仕方の無い身勝手な感情。
しかし、其れこそが本能ではないのか。
今すぐ連れ去りたいという思いを、僅かな理性で押し止める。
其れさえも、此の激しい感情の前では何れ意味を成さなくなると解っていたとしても。
恋文
女と呼ぶには未だ幼い少女の肌は陽に焼けて、漢民族とは異なる容姿をしていた。色の鮮やかな服を着、細工の細かい黒い帽子を被り、耳には大きな飾りを付け、首からは大きな輪の様な飾りを下げていた。
三叶簫と戸撒刀を腰から下げた少女の眼は、黒と言うよりは茶に近く何処までも澄んでいた。長い髪は無造作に縛られていたが、幼さの残る顔立ちでは其れさえも美しさを引き立たせていた。
夏侯惇は暫し少女に見とれた後、優れた戸撒刀鍛冶である父親の元へ連れて行ってくれる様頼んだ。
少女はゆるりと微笑むと、夏侯惇の手を取り父親の元へと案内した。
道すがら女と会話をしながら歩いた。少女は漢語を理解するが、自民族の言葉とは異なる為受け答えはゆっくりとしていた。少女自身穏やかな性格なのか、焦っている様子は見えなかった。
「名は何と言う?」
夏侯惇は出来るだけ易しく尋ねた。隻眼の夏侯惇は、其れだけで人に恐れられる事が多く、其れは彼の無愛想な受け答えと端正だが鋭い眼差しの顔立ちと相俟って、兎に角畏敬の念を抱かれやすかった。其れは多分に誤解を含んでいたが、平素夏侯惇は余り気にしていなかった。しかし、少女にはそう思われたくなかった。
「」
は楽しそうに笑いながら、余り上手くない漢語で夏侯惇の名前を尋ねた。
「俺の名は、夏侯元譲だ」
にも解る様ゆっくりと喋る。の口が夏侯惇の発音をなぞる様に動いた。
は阿昌族と呼ばれる少数民族で、ミャンマー語に属する阿昌語の他に、大抵の人間が漢語とタイ語を話す事が出来る。は未だ幼い様だが、どの言語も一通り話す事が出来る様だった。
夏侯惇は、の可愛らしさに眼を細めると優しく頭を撫でた。は嬉しそうに微笑んだ。
「は幾つだ?」
の容姿は壱拾壱・弐程度で、未だ恋など知らぬ様に見えた。阿昌族は既婚であれば紺色の布を頭部に巻いている。当然、細工帽子を被ったは未婚であろうと思った。
怒江流域は許昌からは大分遠い。夏侯惇は、父親に頼んで女官として呼び寄せ、ゆっくり育つのを待つのも悪くないかと考えた。
自分でもおかしな事に、夏侯惇は僅か半刻前に出会ったばかりのこの少女をひどく気に入っていた。其れは最早一目惚れとも言える速度で、夏侯惇は少女を欲していた。今まで恋仲になった女はそれなりに居るし、恋に急く様な少年時代はとうに過ぎたというのに、夏侯惇は少女に恋い焦がれていた。此の儘有無を言わさず連れ去ってしまいたいと、平素抑制している筈の激情が頭をもたげた。しかし其れは許されないと、僅かに残っていた理性が此を押し止めた。その点で、やはり夏侯惇は既に分別のある男だった。
「壱拾四」
は指で数えながら答えた。夏侯惇は、其の仕草も可愛らしいと一層眼を細めたが、些か心が泡立つのを感じた。
壱拾四にもなれば月の物は当然あるのだろう。それならば何時何処ぞへ嫁いでも可笑しくはない。阿昌族は恋愛には比較的寛容だと聞く、此の儘放っておけば何れ同族の農家の若者にでも嫁ぐのだろう。其れは許しておけなかった。
「、恋仲の男はいるのか?」
努めて何でもない様に尋ねる。の髪を撫でる手が僅かに強ばっていたのに夏侯惇は気が付かなかった。
「いない」
は恥ずかしそうに首を振った。其の仕草は本当幼く、の言葉が嘘ではない事を裏付けていた。
「そうか……好みの男はいるのか?」
髪を撫でる手が、幾分柔らかくなった。
「お父さん」
は嬉しそうに夏侯惇に告げた。
「……そうか、父が好きか」
は頷き、遠くを指さした。其の先には比較的大きいと思われる民家があり、戸口に人影が見えた。あれが父親かと、夏侯惇は目を凝らしたが、大柄な体躯の人物である事しか解らなかった。
「兄姉はいるのか?」
最悪攫う様に奪うかも知れないと、夏侯惇は心の何処かで考えていた。出来れば音便に事を進めたいが、血気盛んな若者が親族にいれば反対される可能性は否定できなかった。漢王朝の高官であり曹操の右腕である夏侯惇も、阿昌族にとっては異民族の男に過ぎない。
「いない」
は父に手を振りながら恥ずかしそうに笑った。父の見ている前で夏侯惇の手を取って歩くのが恥ずかしいのかも知れなかった。
「そうか」
夏侯惇はの手に唇を寄せた。は擽ったそうに笑っただけで、嫌がる様なそぶりは見せなかった。
本当に幼いのだ、と思った。名鍛冶の娘、何苦労なく育ったのだろう。一人娘というから、余り早くに嫁がせる気も無かったのだろう。何処まで色恋の知識があるのかも解らなかった。この調子では口付け一つで叫ばれかねない。其れも悪くはない。何も知らない生娘を、自分好みに仕込むのも男の楽しみの一つだ。だがをその様に扱うのは気乗りがしなかった。元より夏侯惇は色恋に関して言えばかなり穏やかな気質であり、曹操の様な強引さは余り持ち合わせていなかった。父親を説得したら手元に置いて掻き口説けば良いと思った。
夏侯惇は歩みを止め、優しげに眼を細めて尋ねた。
「は恋文は貰った事は無いのか?」
は不思議そうに首を傾げ、首を振った。
「こいぶみって何?」
夏侯惇は一瞬戸惑ったが、理由は直ぐに思い出せた。阿昌族は文字を持たない。学問も伝統も、全ては口頭で伝えられるのだ。当然文章などと言う物は存在しない。夏侯惇も学問は好むが、詩作は得意とするところではない。恋文を書かずに済むならば其れは其れで結構な事だ、と思わず笑みが零れた。
「愛を伝える手段だ。は可愛い……何か言われた事くらい有るだろう」
優しい表情は変わらないが、を見詰める眼差しは真剣そのものだった。
「無い。未だ誰も三叶簫を奏でてくれた事無い」
意外にも夏侯惇にとっては喜ばしい事を言うと、は腰に下げていた三叶簫を差し出した。
「吹いて」
夏侯惇を見詰める眼差しは、多分に幼い儘だった。幼子の様な純粋な眼差し、乱世においては最早幼子さえ時に失っている眼差し、にも拘わらず其れを見て何故か女を感じた。
「好きなら吹いて。阿昌の男は、好きな女に吹く」
夏侯惇は、眩暈を覚えながら三叶簫を受け取り唇を当てた。何か吹けるという訳ではなかったが、を手に入れる為にはそうしない訳にはいかないと思った。
簫の音は、長く心地良く響いた。
+++++
最初は彜族の娘設定にしようと思ったのですが、彜族は三国時代に存在していたかが怪しいので阿昌族の娘にしました。阿昌族はアチャン族と読み、現在も雲南省に住む中国少数民族の一つです。世界に有名な戸撒刀(阿昌刀)ですが、其れを作る人々の気質は穏やかだと言います。
今回は、異民族の娘と夏侯惇の可愛らしい恋を書きたいと思います(笑)。前回よりはヘタレていない予定。
2004.05.19 viax
BGM : T.M.Revolution [SEVENTH HEAVEN]