夏侯惇が戦から帰ってきたのは、許昌を離れて一ヶ月以上経った頃だった。黒山の賊に魏群が襲われ、其れは王肱の手には負えなかった為曹操と共に討伐に出向いたのだが、予想外の抵抗に遭い随分手こずった所為である。結局、完全に討伐する事は出来なかったが、主立った賊は撃破できた様なので、後は太守たる王肱に任せて帰還する事になった。
帰り路で思い出すのは、許昌に置いてきたの事ばかりだ。もっと早く帰るつもりだったので、適当に家の者に面倒を頼んだだけだったが、こうなると解っていたならば曹操の子供達に遊び相手になってくれる様頼んでくるべきだったと思う。は、其処まで幼い訳ではないが難しい漢語は解らない時もあるので、曹丕くらいの幼子の方が話し相手には向いているだろう。しかし今更あれこれ思っても時既に遅く、は邸で暇を持て余しているに違いない。そう思うと、夏侯惇は一層馬を早め家路を急いだ。
愛し
許昌に戻り、まずは曹操と共に朝廷へ報告に行く。最も、夏侯惇は曹操の後ろに控えているだけで、特に口を挟む事もない。朝廷での地位は大差無い二人だが、夏侯惇は曹操を差し置いて行動を起こす事はまず無い。何か発言を求められれば、控えめだが的確な意見を述べるだけで、後は曹操の配下将よろしく後ろに控えているだけだった。朝廷において幾ら同列に扱われようとも、夏侯惇は常に曹操の配下として行動する事を躊躇わなかった。
「……まるで他山の火事といった顔だな」
夏侯惇は、鎧甲が重いのか首を捻りながら、朝廷の外へ出て安心した様に曹操に話し掛けた。
「宦官など戦とは無縁の生き物だからな」
曹操は笑いながら答えたが、其の眼は少しも笑って居らず、なるほど袁紹が妙に曹操を気に掛けるのも無理はなかった。
「少しは落ち着きたいが、どうせまたすぐ戦……民は疲弊する一方だ」
夏侯惇は激情的な一面を確かに持っていたが、儒教を重んじる心根の優しい人間だったので、貧困や不作に喘ぐ民達から高い税を搾り取ろうとする朝廷のやり方には否定的だった。曹操も質素倹約を旨としていたが、夏侯惇は其の上私財を貧しい人々に分けるなどしており、其の行動は強面の外見とは全く似合わず曹操の笑いを誘った。
「しかしまぁ、暫くは落ち着けるだろう。お前も可愛い奥方と仲睦まじい時間が持てるというものだ」
からかう様な言い方に、夏侯惇は苦虫を噛み潰した様な顔をしたが、もうすぐに会えるのだと思うと心の中は喜びで一杯だった。久しぶりの再会に喜んでくれるだろうか、もしかしたら相当怒っているかもしれない、色々な可能性が夏侯惇の心を掠めたが、其れでも兎に角会えるのだと言う事が、夏侯惇の頬を緩ませた。
邸では、古くから勤める女官達が夏侯惇を出迎え、意味ありげな目配せをしながらの部屋へと促すので、相当機嫌が悪いのだと思いながら扉を叩いた。
「、帰った……入るぞ」
返事を期待せず扉を開けようとすると、勢い良く扉が開いてが飛び出してきた。其の顔は全く不機嫌でなく、夏侯惇が愛してやまない大陽の様な笑顔だ。
「元譲、お帰りなさい! すっごく待ってたんだよ!」
一生懸命飛び付こうとする様に胸が温かくなるのを感じながら抱き上げると、の唇が夏侯惇の頬に口吻を落とす。そうして気が付いた。前は抱き上げると目線が並んでいたのに、今はの目線の方が高くに有って優しい眼差しで夏侯惇を見詰めている。まるで眩しい物を見るかの様に眼を少し細めた表情は、今まで見た中で一番大人びた表情でうっとり見惚れる。女官達の眼差しは此を指していたのだと思うと気恥ずかしい。
「……お前は、俺の居ない内に随分美しくなったんだな。心配事が増えたぞ」
少しも困ってなどいない顔で、夏侯惇の指がの髪をそっと梳く。
夏侯惇は何れまた戦で長く邸を離れる事になるだろう。太守にでもなればを連れて行くが、いつそうなるかも解らない。今は、こんなにも美しいを置いて行くしか無いという事実が、甘く胸を締め付ける。其れは不義を疑っている訳ではなく、戦に行かねばを守る事が出来ず、しかし日毎美しくなる愛しい存在を見守る事が出来ないというジレンマ。勿論、夏侯惇は自分がどうすべきか良く解っているが、少しだけ勿体ないと思う気持ちがあって、其れは仕方のない事だ。
「え? 美しい? 背が伸びたから?」
は不思議そうな顔で聞き返すが、夏侯惇は何も答えない。誰でもそうだろうが、言外に含みを持つ言葉の真意を推し量る事は難しい。まして、其れが異国の言葉では。結局、大きくなると言う事は美しくなるという事に似ているのだろう、とは勘違いをする。
「でも、元譲が無事で良かった……もう当分無い?」
夏侯惇は少し困った顔でを見詰める。今暫くは戦の予定は無い。けれど、何れ董卓討伐の狼煙が上がるだろうし、其れ以外にも戦になる火種なら掃いて捨てる程有る。極端に言えば、今日また出陣しなくてはいけない可能性さえ有る。けれど、其れをに言えばまた悲しむだろう。そう思うと何と答えて良いのか解らない。
「…………また、行くのね?」
目を伏せたの姿に心が痛む。夏侯惇は心根の優しい男であるから、戦場で斬った多くの兵の事を思うと居た堪れない気持ちになるし、戦火と搾取で疲弊する民草の事を思えばまた心苦しい。しかしを悲しませる事が一番辛い。そんな利己的な自分に呆れる事しかできない。こんなにも心が痛むのは、人を殺めているという後悔からではなく、を悲しませているという唯それだけの自分本位な感情からだ。曹操の為に刃を奮う事はひいては民の為でもある筈だが、其れが民を苦しめているという矛盾は最早諦観でさえ有るのに、が涙を零すからもっと別の道は無かったのかと内省する。勿論、戦場に立つ事に迷いはなく、やはり戦わずして平和を得る事など望めない。
こんな時、自分は何て勝手な生き物なのだろうかと思う。曹操の為、の為、結局は愛する者の事しか考えていない。
「朝廷内に、不穏な動きがある……そう遠くなくまた大きな戦になるだろう……」
は、夏侯惇の顔をじっと見詰めた。辛そうで、悲しそうで、見ている此方まで心が痛くなってくる。夏侯惇は、強い男だが冷たい男ではない。きっと、戦に出る度我が身を斬られる様な想いだろうと思うと、この前責めた事を後悔した。人を殺める事に躊躇しない訳がない。ただ、其れは躊躇よりも遙かに強い信念によってなされる行為だから繰り返す事が出来るに過ぎないのだ。
夏侯惇がいない間、はずっと夏侯惇の事を考えていた。そうして、ただ闇雲に戦を嫌う自分の方が余程優しくない人間だと思ったのだ。誰かを守る為に自分が傷付く事をいとわない、そういう人間が本当に優しい人間なのだ。そして、其れは夏侯惇の事だ。
「私は、いつだって此処で帰りを待っているよ」
行かないで欲しいという言葉を飲み込む。必要なければ、夏侯惇は行かない。行かなくてはならないと思うから、其処へ行くのだ。夏侯惇は、自らの矜恃で戦場に立っている。其れは、にも曹操にも穢せる領域ではない。
「……」
てっきりまた涙を見せると思ったので、その言葉に今度は夏侯惇が言葉を詰まらせる。抱き上げた身体は羽の様に軽いが、この中には沢山の強い意志が根を張っているのだと思うと、心に大きな安心感が広がった。
折れない矜恃、其れだけが此の世界を支えている。
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誰かを守って死ぬ。躊躇無くその道を選ぶ人が、今も世界には居る。其れがどんな悪を伴おうとも、非難する権利なんて私には無い。
2005.08.29. viax
BGM : RADWIMPS [ 愛し(かなし) ] / Jannne Da Arc [ JOKER ]