建安四年、白馬の戦いに端を発する争いは既に抜き差しならない状態であり、中原一体を巻き込む大規模な抗争になっていた。

夏侯惇は、烏巣の兵糧子陥落に向かう曹操に代わって後詰めを任され、本陣の守備に心を砕いていた。

曹操のいない隙を狙って袁紹軍が攻めてくる事はほぼ間違いなく、夏侯惇は将達に抜かりなく戦準備をする様伝えていたが、少しも不安がないかと言えば其れは嘘だった。

夏侯惇は無敗の将という訳ではない。自らも手負いになるが、敵には其の倍以上の痛手を負わせるという力業のきらいが強く、やはり知将とは言い切れない。其処が夏侯惇の魅力であり配下の者も其の剛直な武を慕っているが、夏侯惇は己の苛烈な性質を屡々持て余していた。かっとなると後先が見えなくなるのは、十四の頃から変わっておらず、夏侯惇は其れが配下将達の命取りになるのではないかと懸念していた。

味方は勿論、敵とて最小数殺めるだけで戦を治めたいというのが夏侯惇の望みだ。しかし、自分が激高してしまえば其れは叶わなくなる。平素穏やかな夏侯惇の何処にあれ程の気性が隠れているのか、其れは本人にも解らなかった。

戦い

「血を見ると気分が高揚するのかもしれない。つくづく、俺は戦う為に生まれてきた様な物だと実感する。戦う前は投降兵の扱いや敗将の扱いや色々細かに考えているつもりだが、一度戦となると殲滅する事に心を砕いている。俺は策略には疎いし、そういう性質を狙われれば将兵の命を敵に曝す事になり兼ねない。平素は穏やかなつもりだが……所詮は欺瞞なのかもしれぬ……」

戦を前に夏侯惇は珍しく悩んでいた。其れというのも、興平元年に宛城の張繍を攻めた際、部下が宛城付近で略奪を働いていたという事があったからだ。夏侯惇は兵卒に至るまで良く心を配っているつもりだが、結局自分の矜恃は伝わっていなかったのかと思うと哀しくなる。

珍しく戦にを同行させたのは、そんな心の弱り故だったのかもしれない。

「平素は温厚で学問を好み、戦場では苛烈で勇猛果敢。此以上ない程立派な将の在り方では?」

幼い仕草が殊更愛らしかったは、弐拾弐歳となった今も其の愛らしさを幾分か残したままで美しく成長していた。幼かった口調もすっかり大人びたしっかりした物になっていたが、時々甘えた様な口調になる事もあり其れが夏侯惇には一層愛しく思え……つまり二人は相変わらず仲睦まじかった。

「其れでは、駄目だ。俺の短慮で軍に……孟徳に迷惑を掛けてしまう」

前年の関羽の件も未だ気にしているらしく、夏侯惇にはいつもの雄々しさが無い。其れでは将兵達の士気も上がらず困るばかりだが、曹操は気にする様子もなく夏侯惇に陣を任せて行ってしまった。

「盲夏侯、失くしたのは目玉だけでは無かった様ですね」

何時になく辛辣な言葉に、流石に夏侯惇も不快さを露わにした。興平元年、呂布討伐戦により左目を失った夏侯惇は、夏侯淵との区別で盲夏侯と渾名される様になったが、此を大層嫌がり怒りの余り鏡を叩き割る事も有る程だった。

「其れはどういう意味だ? 、お前俺がそう呼ばれる事を嫌っている事を知っているだろう?」

苛立ちを隠せず、に対する言葉とは思えない程語気が強い。しかし睨まれたくらいで黙るではない。

「戦は、どちらかが仕掛けねば起こらぬ物。民草は巻き込まれるのだから悲しみもしましょうが、元譲は武将……自らの意志で戦場に立つのでは有りませんか? 自らの意志で其処に経つ以上、期待と信望に見合う働きをしてこそ……何より全力を尽くし曹公の為になる事が、あなたの矜恃では無いのですか?」

夏侯惇は一瞬行き場のない程の怒りを感じたが、直ぐに落ち着くとを一睨みした後笑った。

「解った……お前は俺の扱いを良く解っている。成る程、そう言われては俺もおちおち気落ちしている訳にもいかん」

其の言葉にもにっこりと笑った。夏侯惇で有れば、の真意を見誤るはずがないとは思っていたが、実際伝わればやはり嬉しい。

、陣奥に下がっていろ。俺は、此の陣を襲ってくるだろう袁家の将を討つ」

は頷くと夏侯惇の傍から離れた。戦場の夏侯惇は、の大好きな夏侯惇と同じ人間であると同時に違う人間でもある。としては、戦場の夏侯惇は曹操に貸している様なつもりだ。

優しいから悩む、其れは弱さではなく、誰かを思い遣る事が出来ると言う強さ。

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隻眼については誤魔化しました。この時夏侯惇は既に四十過ぎ位ですが、其れは其れで個人的には萌えます。

2005.10.31 viax