建安弐拾弐年、夏侯惇は魏国前将軍として揚州方面全二十六軍を総括していた。其れは。魏国の人臣として最高位に居ると言って良い。夏侯惇は、呉の孫権が曹操に臣従の意を示すまで、張遼や曹仁と共に其の儘巣湖に留まり中華に睨みを効かせた。
彼が許昌に戻ったのは、年が改まって新年を迎えた賑やかさも一段落した底冷えの日だった。雪のちらつく道中、白い息を吐きながら家路に着いた彼を出迎えたのは、頭の上に幾分か雪を載せた愛妻であった。
無垢
「お勤めご苦労様で御座います」
夏侯惇と数人の配下を出迎えたは、穏やかな笑顔で彼らを出迎えた。配下将達は、夏侯惇の妻を見るのは初めてで、やや動揺しながら彼女に挨拶をする。魏国は曹操の気風故堅苦しい儒教思想が色濃くないが、清廉でやや生真面目な夏侯惇は女性が妄りに夫以外に顔を晒す事を好まず、故にも人前に姿を現す事は稀だった。
は中華の民だが漢民族ではない。其の所為か、似ている様で少し異なった容姿をしている。配下将達は、つい物珍しげに彼女を眺める。夏侯惇は、其れがが晒し者になっている様で実に不愉快な気持ちになる。配下将に悪気がないのは解っているが、実に面白くない。
「護衛すまんな。もう充分だ。今日は冷える。早く帰って良く暖まれ。お前達も妻女が待っているだろう」
優しいが何処か強ばった声に、配下将は少し気まずそうに夏侯惇を見る。だが、夏侯惇はと共に手を振っている。
「はい、失礼します」
来た道を引き返していく配下将達の足跡は、直ぐに雪によって真白に直されていく。其の間に二人の頭上にも雪が積もる。夏侯惇は、の姿を見て吹き出した。
「、頭の上に雪達磨を作りたいのか?」
は慌てて頭を振るうと、頬を膨らませて顰めっ面をして見せた。夏侯惇は、何時までも無くならない、そういう幼さが好きだった。
「何だ、随分しっかりしてきたと思ったが、やはり子供だな」
嬉しそうに笑いながら、夏侯惇はを抱き上げ、髪に付いた雪を払ってやる。は、彼女を甘やかす夏侯惇の指の温かさに、彼の帰ってくる場所であると言う事に、嬉しさで眼を細めぴたりと寄り添った。
「……最近孟徳の加減が良くない様だ」
邸内に足を進ませながら、夏侯惇はやっと聞こえる程の小さな声で呟いた。
「頭痛は、前からでしょう」
夏侯惇の頭を撫でながらは眉尻を下げる。
曹操も夏侯惇も病とは縁が無いが、曹操は偏頭痛を長年患っており、其れは最早病と呼ぶには常と化しているらしい。其れが最近特に頻繁で、薬も殆ど効かなくなっているらしいのだが、元より神医の名高い華陀にも治せなかった病であるから如何ともし難いのだ。
「恐らく、痛みが増しているのだろう。苛立つ日も多い様だ」
額に掛かる夏侯惇の髪をどけてやりながら、は曹操の顔を思い出そうとする。神経質そうな、夏侯惇から見ると随分小柄な男で、従兄弟という割には余り似ていない気がした。唯、にそれとなく気を遣ってくれる所など性根の優しさを感じさせ、やはり夏侯惇と血が繋がっているのだと思った。
「……神に捧げる?」
懐から戸撒刀を取り出したは、夏侯惇に其れを渡そうとした。其れは、が父親から託された宝刀だった。
「いや、祈祷なら佃煮にする程術師を呼んでやっているだろう。は余り気にするな」
家宰が暖かい茶を用意してくれていた。夏侯惇はを椅子に降ろし、少し淋しそうな微笑みで庭を眺める。
「呪いだと、言う奴もいるらしい」
「呪い?」
「……俺達は、随分人を殺した。俺達を恨む者も多い」
夏侯惇は、諦念を持って笑った。曹操の描く覇道を誰よりも理解してきたのは夏侯惇だ。彼にとって、曹操の仰ぐ天が唯一の天であり、曹操を理解できない者は愚者だった。だが、彼らには彼らの天が有り、覇道が有ったのだろうと今更思う。
「でも、元譲達は乱世に終わりを見つけているのでしょう……此の戦いは、終着点が有るんでしょう?」
「……」
「仕方ないよ。此の世界が戴く事の出来る天は、一つだけだもの……たった一つだからこそ、人は天を崇めるのだもの」
の涙が、静かに頬を伝った。彼女は、此の世の摂理全てを理解する事は到底出来ない。だからこそ、曹操の天を夏侯惇を通して見詰め続けた。そして、其れが確かな軸を持っている事を知っている。軸を持つ者は、人を惹き付ける。
「曹丞相は、確かな軸を持っている人。其の人の善悪は立場次第で如何とでも変わるけれど、曹丞相という人は常に其処に有るだけ。何時も、何も、変わらないよ」
が夏侯惇に近付くと、夏侯惇はを抱き締めて泣いた。声を殺して無く夏侯惇を、は優しい笑顔で抱き締め返した。
「元譲は、私の胸で泣けば良いよ。曹丞相が居なくなっても、私は元譲の傍に居るよ。何時だって、此処に居るよ」
夏侯惇は頷きながら、自分達の時代が終わろうとしている事を感じた。
俺の祈りは、お前という神に捧げよう。お前が支えてくれた、俺の全てで。
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夏侯惇も、軸のぶれない人。
2010.02.08 viax
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