孫堅を宿した母親は、腸が飛び出して呉の昌門を取り巻くという夢を見たと言う。しかし、其れは吉凶で言えば吉を現す兆候であった。

孫堅は、闊達で義を重んじる若者へと成長し、十七の時の海賊対峙が元で仮の尉に任ぜられた。

美丈夫で知勇共に優れた孫堅だが、やはり武勇の方をより好み、許昌の乱や黄巾の乱などで都度都度大きな戦果を上げている。

曹操とは全く異なった覇王の質、其れが孫堅を英雄たらしめる物であり、豪放磊落で大陽の様に眩いばかりに純粋に輝く、其れが孫堅だった。

千夜涙話

孫堅は、呉の礎を築くと早々に孫策に家督を譲り楽隠居の身になっていた。

魏呉蜀の所謂三国の君主の中では確かに一番年上だが、曹操とは数ヶ月違いに過ぎず劉備ともさほど違わない。第一、戦場に立つ事を止めた訳ではない。彼は、陣の後詰め等ではなく、周囲の制止も聞かず最前線に立つ。あくまで君主という名を捨てたに過ぎない。其れは、如何にも権力欲の少ない彼らしい行動だった。

今の孫堅には君主などと言う偉そうな肩書きが無くとも、誰とでも堂々と渡り合える実力があった。

「それに、家督を譲る信頼できる息子がいるというのは、実に幸運な事だしな」

孫堅はの髪を梳きながら、其の滑らかな指通りを楽しむ様に眼を細めた。は、閨事から暫く立っても収まる事無い高揚感から未だ荒い呼吸をしていた。其れを労る孫堅の仕草は実に気持ちが良く、彼女も又眼を細めながら孫堅の言葉に頷いた。

実際、孫堅は運の良い男だ。彼の息子の孫策は勇猛で孫権は明晰、親子とはいえ必ずしも似るとは限らないが、二人は孫堅に良く似た才気溢れる若者だった。

「此も全て、文台様の日頃の行いでしょうか」

が笑いながら孫堅を見詰めると、孫堅も笑いながら「そうだろう」と頷いた後戯けて見せた。笑い合う二人には何の屈託もなく、今が乱世である事を時折忘れる事が出来る事に感謝した。誰に感謝したのか――強いて言えば此の雄大な大地に対してかもしれない。

心地良い疲労感と髪を梳かれる気持ち良さに、はうっとりとした表情を浮かべた侭、孫堅と同じ次代に生まれた事に思いを馳せていた。

大分年若く生まれたが、孫堅はを愛しい存在として傍に置いてくれて、関係も隠す事は無い。孫堅にとっては当たり前の行動が、にはどうしようもない嬉しさをもたらす。妾として日陰の身になっても全く可笑しくないのに、孫堅が妻の様に扱ってくれるので稀に城内で誰にあっても皆下にも置かない扱いで接してくれる。

其れは、勿論孫堅の部下達が皆心清らかな人ばかりだという事でもあり、は自分を温かく見守ってくれる孫呉の人々にも言い尽くせない程の感謝を感じていた。

?」

微笑んで自分を見詰めるの眼差しが余りに深い慈愛の眼差しに見え、孫堅は幾分途惑いながら呼びかけた。

「どうした? まるで全てを知っている巫女の様だったぞ」

は笑っただけだった。先程の感情を口にする事は難しく、口下手なには上手く伝える自信がなかったのだ。

孫堅は無理に問いつめる事はなく、ただ嬉しそうに微笑むと優しく口吻をした。情事の後の柔らかな口吻は、閨事とは違った意味でを蕩かす。は孫堅の首に腕を回すと、少し癖の有る柔らかい髪に愛しそうに触れた。

「私は、全てを知っているなど嫌です。始まりも終わりも、幸も不幸も、全て知っていて毅然としている巫女様達は本当に御立派です」

「……そうだな、俺でも嫌だ。巫女として生まれてくる者は、きっと其の試練に耐える事が出来る強靱な精神の持ち主のみなのだろう。それが幸か不幸か迄は彼女達も解らんだろうが、な」

は無言の侭頷くと、孫堅の首筋に額を擦りつける様にしがみついた。

「私は、全てを知っているのではなく、許す事が出来る者で有りたいです……」

何時の日か、この優しい男の心が自分から離れてしまっても――其れさえも笑って許す事が出来る女でありたい。決して憎しみの心など持つ事が無い様に。

別れを考える事は恐ろしい事だが、どう仕様もない不安が時々を襲う。それは、例え正妻という立場にあったとしても変わらないだろう。人の心は見えない物であるのに、其れなのに孫堅は余りに魅力的で人の心を惑わせる。何時の日かもっと素晴らしい女性を手に入れたとして、其れも仕方のない事だった。

「其れは素晴らしい事だ。だが、何を許す?」

孫堅はの口調に何かを感じ取ったのか、真剣な眼差しをしていた。

「俺を許す為に、其れを望むのか?」

其の言葉に、は少しの途惑いの後頷いた。隠す自信は無かった。

「そんなに自分を卑下するな」

孫堅は少し寂しそうに笑うと、きつくを抱きしめた。其のぬくもりが嬉しくて、は頷きながら涙を零さずには要られなかった。永遠に此の腕の中にいられるのならば、此以上の幸せなど有ろう筈もない。

「許されずとも縋り付く位の事、お前を此の腕に抱いている為ならば幾らでもするさ」

掠れ声で耳に押し込まれた言葉に、私は泣きじゃくる事しかできないけれど、此は全て嬉しくて零れる涙だ。

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恋愛が始まれば醜態をさらす事も始まっている。私達は醜態をさらし続ける、一人で生きていく事が出来なくても其れは極当然の事だ。

2005.11.10 viax

BGM : B'Z [ Pleasure]