戀すてふ 我名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思い初めしか
私はひっそりと彼方を愛でていたかったのに。
人の口に戸は立てられぬとはいうが…。
この恋の行く末を案じてみても、答えなど見つかる訳もなく。
華の段
「恋しているらしいな。」
当たり前の様に尋ねられたのは、つい三日前の事だった。
「え?」
驚いて聞き返すと、司馬懿も同じ様な顔で張コウを見た。
「貴殿が恋しているともっぱらの噂だが…違うのか?」
違わぬ事はないが、秘めたる想いに噂が湧くとは思っていなかった張コウは返答に迷った。
「いえ…あの…」
司馬懿は溜息を吐くと、張コウに助言をした。
「貴殿の様子を見れば解るが、しかし噂とは尾鰭が付くモノ。今の内に告げられては如何か?」
「…見れば解るのですか?」
「…貴殿の想い人は、殿では無いのか?」
ずばりと当てられた張コウは、少し赤面をしながら咳払いをした。
「…何でご存じなんですか。」
今度は司馬懿が返答に迷った。
夏候淵の息女であるを張コウが好いているのは一目で解る。耽溺という言葉が此ほど相応しい事も少ない。それくらい張コウはを可愛がっていた。
遠征すれば絢爛な土産。何か祝い事と言っては豪奢な贈り物。
第一あの張コウが、の前では大人しいのだ。
−張将軍は相変わらずお美しいですね。
の世辞を聞いた司馬懿は、張コウの返答が手に取る様に解り思わず笑いそうになったのだが
−いいえ、彼方に比べれば私の美しさなど紛い物。殿こそ真にお美しい。
その返答に思わず噎せたのは司馬懿だけではない。傍にいた夏候淵も何事かと目を見張った。
−まぁ…お世辞でも張将軍にお褒め頂けるとは光栄です。
−世辞だなんて…彼方は心身共にお美しいですね。傍において永遠に愛でたい程です。
そんな遣り取りを人前で臆面無く行えば、噂が立つのも道理なのだが、張コウは心底隠しているつもりだったらしい。
「恋する者の華やかさは人目を引くからな…」
司馬懿は言葉を濁して何とか誤魔化した。
「あぁ…噂などになれば殿は大層お嫌でしょうに…」
夏候淵の子供はを除くと男ばかり七人で、その所為かは大層可愛がられて育ち、随分おっとりとした気質だった。噂などになれば、おろおろするばかりで、ともすれば張コウを気遣って避ける可能性があった。
「そうなる前に告げれば良かろう。」
夏候淵と張コウは仲が良いし、張コウは変わり者ではあるが優れた武人で、娘の夫として問題のある人物ではない。
「未だお若いですし…」
「嫁いで然るべき年頃だ。」
「年齢差が…」
「殿など未だに二喬を欲しているな。」
「お美しい方ですし…」
「未だ恋仲の者はいないと聞く。」
「私には勿体ないと思いませんか?」
控えめな張コウの発言に司馬懿は我が耳を疑ったが、友人の為に驚く訳にはいかなかった。
「貴殿と寄り添えばなお美しいであろうな。」
司馬懿の褒め言葉に気を良くした張コウは、やっとに告げる決心が出来た様だった。
「私、会いに行きます。」
颯爽と翔ていく張コウに、やれやれと司馬懿は頭を振った。
「殿。」
夏候淵の私邸の庭先、猫の様に水面の魚を覗き込むに声を掛ける。
は、吃驚した様な顔で振り返ったが、張コウを認めると微笑んだ。
「張将軍、父に御用ですか?」
若い娘にありがちな高すぎる声音ではない。低すぎない甘い声に、張コウは思わず聞き惚れる。
「いえ、今日は殿に用事が。」
は不思議そうに張コウを見上げた。
「まぁ…何でしょう?」
張コウはに跪くと、その小さな手を取って求愛した。
「殿、私を憎からずお思いでしたら、妻になって頂けませんか?」
口付けたの手は、小刻みに震えていた。
「そんな…私如きが…畏れ多い…」
は首を振ったが、張コウは構わず抱き寄せた。
「殿が愛しくて仕方有りません。彼方が望む事全て…この張儁艾に叶えられる事は全て叶えましょう。どんな我儘も愛しく思いますし、私を罵ろうと謗ろうと構いません。」
張コウは美しい顔で懇願した。
「私を憎からず思い、また哀れと思って下さるならば、私へ嫁いで下さいませんか?」
は一端張コウの腕を離れた。
「私は…私は…張将軍を好きだから、贈り物も喜んで受け取って参りました。謗るなどとんでもない。張将軍が望んで下さるならば是非もありません。父もきっと喜ぶでしょう。」
そうして、もう一度張コウの腕に抱かれた。
「お慕いしておりました…」
腕の中の妻に囁いた。
−初恋なんですよ。
妻は笑いながら頷いた。
−まぁ奇遇ですね。
夏候淵は婚姻を大層喜んだが、義父上と張コウに呼ばれる事だけは嫌がった。
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「魏鳥」のそら様に捧げるお正月絵のお礼夢。大分季節はずれですが…。
冒頭の句は百人一首第四拾壱番目の歌、壬生忠見の忍ぶ恋を歌う句からです。
淵ちゃんが呼ぶなと言えば言うほど、義父上と呼びそうな悪どい張コウが書きたかったのですが、其れは遠い夢のようです…(笑)。
そら様の張コウさんと違ってヘタレですが、貰って頂ければ幸いです。
2004.02.15 viax