典韋は、其の武勇から悪来と呼ばれ曹操の絶大の信頼を受けていたが、主と違い色事には兎角弱かった。
二十歳も大分過ぎた頃やっと恋を知ったが、想い人と目が合うだけで顔が赤くなり、擦れ違うだけで息が止まりそうになっていた。
擦れ違う時にほんの少し袖が触れ合うだけでも、体躯に似合わぬ繊細さで気絶しそうになる有様だった。
けれど、典韋の心には彼女に触れたいと願望がある。この矛盾に典韋はただ戸惑うばかりだった。
夢中 前編
典韋の想い人は曹操付きの文官を務めるだった。
は未だ若く、女性にしては口数の少ない性質だが、非常に優秀で曹操の覚えも目出度い。
典韋は、が文官になった直ぐから焦がれているが、親衛隊の典韋がと顔をあわせる事は少なく、例え会えても気恥ずかしさで顔を背けてしまい碌に話した事も無かった。
季節は春を迎え中原もすっかり暖かくなる頃、曹操は武将達を労う為、花見の宴を催す事にした。
「悪来、今日の宴には出るんだろう?」
上司であると同時に親友でもある夏侯惇の言葉に、典韋は豪快に頷く。
「勿論です。わしは酒も宴も大好きだ!」
「も、な」
夏侯惇がからかう様に続ける。
「……そ……そうですね……」
典韋は見る間に顔を赤くしてへたり込む。其処には悪来と歌われる豪物の姿はなく、恋に胸を痛める若者が居るだけだ。
元来豪気な典韋故、そのあからさまな好意を多くの者が気付いていたが、当のが気付いているのかは誰にも解らなかった。は、典韋の慣れぬ濃い故の不自然な行動にも全く態度や表示を変えなかった。
典韋もそこはかとなくでも相手の気持ちが――例え拒絶であっても――解っているなら未だしも、其れもわからぬ現状では告白する勇気もなく、悶々とした日々を過ごしていた。
「も参加するぞ」
夏侯惇は、そんな情けない様子の典韋に笑いを禁じえず震える声で告げた。
「本当ですか?」
「ああ」
文官は武官と共に宴に参加する事を嫌がる者が多い。それは武官の酒癖の悪さ故なのだが、本人達は殆ど気が付いて居らず、夏侯惇や張遼など気の付いた数人が後で色々謝っているのだ。
「に聞いたら出るってよ。珍しい事もあるもんだな」
「殿が……」
典韋にとっては華だ。美しく、香しく、愛しく、幾ら愛でてても足りぬ、その様な魅力的な華だった。
「悪来、そんなに好きなら求めれば良い」
夏侯惇は半ば呆れ顔で言う。夏侯惇も色事には疎い方だが、典韋はそんな夏侯惇の目から見ても呆れるに値する奥手具合だった。
「そんなことっ……殿の迷惑になるでしょう」
典韋は俯いて首を振った。華の隣に自分の様な人間が並んでは折角の美しさも半減すると典韋は思っていた。
「そうか?」
夏侯惇は、純情な親友の背を押しながら宴に向かった。
夏侯惇の気遣いか曹操のからかいか、典韋の席はの隣だった。典韋は動揺を隠せなかったが、それでも努めて冷静に振る舞おうとした。
「あ……その…・どうも、久しぶりで……」
必至に挨拶の言葉を搾り出そうとしていると、先に座っていたが典韋を見上げて微笑んだ。
「お久しぶりです、悪来様。今宵は私などが隣では詰まらないでしょうが、どうぞお許し下さいませ」
そつのない挨拶に、典韋は唯首を横に振るだけで精一杯だった。こんなに間近で話す事のは殆ど初めてで、が焚きしめているらしい僅かな香の香りに目眩を覚えた。
酌をされれば見る間に赤くなるり、の指が微かに触れるだけで、鼓動が早鐘の様に典韋の耳に鳴り響いた。典韋は小さな声で呻いた。
「殿、そんな近くに……」
小柄なは、酌をする為に典韋の傍へ寄る。その度、長い髪が小さな肩を滑り落ちて典韋の脚に触れる。鎧を着けていない典韋の脚は、悪戯な感触を敏感に伝える。堪らず腰を退ければ、が不思議そうに自分を見る。
その瞳が、また典韋を煽る事を彼女は知らない。やや上目遣いになる事は、体格差故致し方ない事で故意ではないと重々承知だが、それでも煽られてしまうのが男だ。
酒気帯びているから当然だと、必死に自分を諌めるのだが、それでも恋心は逸る。
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初典韋夢。
上目遣いをする機会って余り無いですよね(笑)。
2003.11.09 viax / 2005.03.18 (修正)