雄々しい彼方の背を見て、まるで知らない人の様に思う。
私が縋り付く優しい背は其処に無く、ただ怒りに隆起する筋肉。
抱かれる度、必死で縋り付いた愛しい背なのが、まるで嘘の様に思える。
彼方の手に堰月刀が握られる度、私は吐き気を覚える。
後何回血に塗れたら、彼方の持つ正義が太平の世を作る事が出来るのか。



   − 青龍の閃き −



久し振りに遠駆けに出かけた関羽とは、恐らく曹操が放ったであろう食客に囲まれていた。
「…喉から手が出るほど欲していらっしゃたであろう雲長様でも、手に入らなければ殺すのですね」
は、誰に言うでも無くぽつりと呟いた。
それはとても正直な思いだった。体の良い人質として、客将という名目で曹操の下にいた関羽を曹操は何度と無く魏軍に欲した。関羽が応じる筈は無く、しかし曹操も簡単に諦める筈は無く、関羽は「千里行」と称される逃亡劇を演じて劉備の下へと帰ったのだ。其れ以来、曹操は関羽に食客を差し向ける様になった。自分の下から去った関羽に対する感情は察するに余りある。曹操は、関羽を欲した物と同じ激情で関羽を憎んでいるのだ。其れは、曹操の誇る隻眼の猛将−夏候惇−を蔑ろにされたという思いと相俟って、より激しい物になっている様にも思えた。
しかし、あの時夏候惇は確かに関羽に言ったのだ。
 −お前の首など要らん。持って帰るにも髯が邪魔だ。
一騎打ちに敗れた関羽を討ち取らなかったのは夏候惇の意志だが、彼に全幅の信頼を寄せる曹操にとって、夏候惇の説得に応じない関羽への怒りは相当だったのだろう。
、武人の仕事に口を出す物ではない」
関羽は静かに、だがきっぱりとが口を挟む事を否定した。
関羽は性別で人を差別する事はなかったが、絵師たるが武人たる関羽の仕事に口を挟む事は許さなかった。戦など知らぬ絵師の見解は時に感情的であり、任務に忠実であろうとする武人の妨げになる。は其れを解らぬ愚者ではなかったので、滅多に自分の意見を述べる事はなかったが、感傷さえも許さぬ武人の寂しさを感じずには要られなかった。
最早自分の物はない男−五虎将・関羽−となった顔を見上げ、は静かに馬を下げた。
関羽は、其れを待っていたかの様に青龍堰月刀を構えた。その眼差しは冷たく怒りを湛えていた。
「卑怯な輩め…」
関羽は其れだけ言うと、飛びかかる数人の食客を叩き斬った。感情など持たぬ様に、性格に素早く、遣り慣れた様な太刀筋で。
は、眼を背ける言無く一連の動作を眺めていた。眼前で行われたにも拘わらず、まるで現実ではない様な奇妙な感覚。飛び散る血飛沫さえ、人の其れとは思えない。
何度斬っても、其れが殺人という行為である以上慣れる事など出来ないだろう。だからこそ関羽は感情を凍てつかせた様な眼差しをするのだろう。
へと向き直った関羽は、何も言わず駆け寄る様に傍へ寄り、を強く抱き締めた。まるで縋り付く様なその行為に、は無音の儘関羽が泣いているのではないかと思った。



声一つあげず、彼方は閃光の様に青龍堰月刀を振るう。
私は、その姿を畏怖しても視線を反らす事はない。

彼方の手に堰月刀が握られる度、私は吐き気を覚える。
その姿を美しいと思う、私の感情に対して−私は吐き気を覚える。







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散々悩んで迷って此の話。

2004.03.23 viax
BGM : PIERROT [BELIVER] 遠来未来「風追い人」