濡須は呉の要地である。
巣湖と長江の交わる濡須は、其の南に合肥を見る事が出来る。
長江流域を抑え中原進出を目論む孫権は、濡須から幾度と無く合肥を攻め、曹操と対峙した。建安玖年に曹操が合肥に陣を敷いて以来、建安弐拾弐年に一応の和睦を結ぶまで此の対立は続く。
WINDOW
濡須は長江の恩恵を受ける肥沃な土地である。
平虜将軍として濡須督となった周泰は、陣から一歩外へ出ると思いの外穏やかに暮らす人々に安堵感を覚えた。
勿論、人々は一種の諦観を持って此処に居るのだ。北へ行けば或る程度戦火から逃げる事が出来る。しかし、北は風土の違う土地であり、同じ呉国とは言え馴染む事は並大抵はない。人々は、其れを嫌って住み慣れた土地に執着し、故に戦で薙ぎ倒され焼き払われる土地に何度でも種を蒔くのだ。
寒門出身の周泰には、人々のそう言った気持ちが多少解る。
「何も周将軍自ら巡察に行かれる事はないと思いますが」
配下の言葉に、周泰は静かに首を降った。
「……俺が、行く事に意味が有る」
周泰は、権力を振りかざす事が極端に出来ない性格であると言って良い。其の勇猛果敢な働きや孫権からの信頼の絶大さを見れば、もう少し居丈高になっても不思議は無いが、謙虚な性質の彼は凡そ其の様な事は考えた事も無いのだろう。己の命令を徹底させる為には、先ず自分が地方まで出向いて其れを頼む必要があると思っている。其れは、寒門出身故の卑屈さではなく、持って生まれた繊細さの成すものなのだろう。
「左様で御座いますか。では、周将軍が御不在の間は凌将軍の御指示を仰ぐ事と致します。長期の御不在は甘将軍からも叱られます故、早期のお戻りを」
配下将は周泰を憚って甘寧の名前を出したが、実際の所は周泰が長期間不在になると配下の統率が取れなくなるのだ。
徐盛や朱然は周泰の指揮下に有るが、周泰を認めず、屡々独断で兵を動かす。周泰が不在であれば、其れが顕著になるだろう。彼らは、周泰の力無しでも魏軍に勝っていると思っているのだ。
しかし、実際の所呉軍が魏軍と渡り合えているのは、甘寧と周泰の働きが大きいのである。片翼では魏軍に攻め込まれる隙を与える。配下将達は其れを恐れているのだ。
「……三週間以内に戻ろう」
周泰も配下将達の心配する所は解っている。自分の至らなさで彼らに気苦労を掛けている事は、周泰にとって相当に心苦しい事で有り、彼らの為にも一層職務に励まねばならないと思うのだ。其の為にも、今生きる人が如何有るのか己の眼で確認せずには居られない。
周泰は、想像よりも歓待された。
呉国の人間は元来派手好み故異質を好む。人々は周泰がどの様な人物か或る程度噂で知っており、南方の人間にはない謙虚さや寡黙さは好感を持って受け入れられた。
「周将軍、此の村は魚が美味いだけが取り柄です。ですから、腹がはち切れる程食べて頂きませんと、面目丸潰れです」
接待役の人の良さそうな笑顔に周泰も吊られてぎこちない微笑みを返す。笑う事は得意ではないが、善意に囲まれている方が心はずっと楽だ。
「……美味いな……」
「そうでしょう。何たってウチの倅が朝釣り上げたばかりですからね」
周囲からは親馬鹿を野次る陽気な声が上がる。人々の笑い声が周泰の耳に心地良い。
「今日は、たんと召し上がって、柔らかい布団に寝て、良い夢見て下さい」
「……すまないな」
人々にとって、其れは夢の様な日だろう。周泰自身柔らかい布団で眠る事は少ないが、其れは転戦の身故であり、また自身が望まないからでもある。戦場で有っても望めば彼ら以上の生活は幾らでも出来る、そういう周泰に彼らは最善を尽くしてくれている。其れを思うと周泰は胸が苦しくなった。
「本当に、すまない……」
周泰の言葉に、接待役は何かを感じたらしく、優しく首を横に振った。
「周将軍、全ては唯其処に有るだけです」
「……?」
「虚気平心を保って見れば、世界は常に世界で有るだけであり、何の偏りも有りません。善悪正邪の偏りは、全て人の心の一つで決まるもの。失意の人は此の世を苦界と言いますが、其れも見做し方一つで正反対にも変わるもの。周将軍は、我々を哀れむべき存在と思われたのかもしれませんが、其れこそ我らを侮っているというもの。我らは孫呉に暮らし、この上なく幸せで御座います」
接待役の言葉に、周泰は虚を衝かれた様な気持ちになった。
同時に己が恥ずかしくなった。人より遙かに恵まれた立場に有りながら、何を憂う事が有ると言うのか。水賊上がりと自分を卑下していたが、其れこそが今の地位に対する思い上がりではないのか。
「……貴方は、博識だ……素晴らしいな……」
接待役は恥ずかしそうに笑って頭を振った。
「お恥ずかしい、全て受け売りです」
「いや、それでも……貴方は理解しようとされた筈だ……其れだけでも、俺より遙かに素晴らしい……」
周泰は瞼を閉じると、水賊時代の自分を思った。あの頃、正に失意の中で世界を憎んでいた周泰は、孫策に仕える事で救われた。だが、虚気平心を保つ事は今もって難しい。
「……今日は酔いが早い。少し、夜風に当たりたい……」
接待役から、屋敷裏の丘陵まで続く一本道を教わった周泰は、十六夜に僅かに照らされた道をゆっくり歩いた。丘陵の近くには、小さいが洒落た造りの屋敷が有り、其の家の塀から大きな櫻が見える。櫻は散り際だが、月光に照らされて青白く光る花弁には、筆舌に尽くし難い美しさが有った。
そんな情景に見惚れているというのに、悪感情を持つ人間は何処にでも居る者で、周泰は後方に不穏な空気を感じた。
「…………」
どうすべきか迷っていると、鳥の様に折られた白い紙が周泰の足下に落下した。
『此の家を半周し、戸口の男に此の紙を渡す事』
上を見上げると、格子窓から細い指先が見える。周泰が見上げている事に気が付いたのか、其の指は頻りに家の裏へ回る様指し示す。
周泰は、其の指の美しさに従ったのかもしれない。不思議と、其の指から策略を感じ取る事は出来ず、寧ろ、自分への善意に溢れている様に感じた。
裏木戸には、確かに男が立っていた。手紙を渡した周泰を木戸の中へと眼で促す其の男は、如何にも賊上がりの雰囲気を纏っている。人の良さそうな笑顔だが、先程宴会で見た接待役の其れとは明らかに違う。男の其れは、人の隙を伺っている。
しかし、男は周泰に対する敵対心はない様で、途惑う周泰に優しく上を指差した。
其処には、窓から大きく身を乗り出した女が居り、じっと周泰を見詰めている。見開かれた眼が妙に印象的で、二人は暫く見つめ合った儘時を止めた。女の纏っている薄物の夜着が夜風に煽られてはためき、其の音が響き渡る様な静けさだ。
「……(暫く動かないで)」
女の紅い唇が、無言で言葉を紡ぐ。
無言で頷いた周泰は、今度は賊上がりだろう男を見る。
「(一刻もすりゃ帰れますよ)」
男も無言で唇を動かす。
周泰は男にも頷き、もう一度女を見上げた。女は特別美しい訳では無いが、痩せていても血色の良い白い肌が育ちの良さを感じさせる。そして、眼だ。月下の所為か、妙に蒼みがかった黒色の其の瞳は、瞬きも惜しむ様に周泰を見ている。周泰も、女の眼の中に自分を探す如く見てしまう。
やがて一刻が過ぎると、確かに外に人の気配は無くなり、女の顔に安堵が広がった。唇が僅かに開かれ、口角が持ち上がる。
其の顔を見た瞬間、周泰は女を押し倒したい様な激しい劣情を覚えた。
「……名を知りたい……」
低く小さな周泰の声が、戦場での名乗りの様に響き渡った。庭木が風に揺れ、囁き声を思わせる。
「……お役人様、早く帰らないと、此処まで人が探しに来ますよ」
質問に答えない女の声は、やっと聞き取れる程小さな声で、少し掠れていた。
「…………周幼平だ」
真っ直ぐ見詰める周泰に、女は弱々しい視線で戸惑いを露わにした。
「……お前の、名前が知りたい……」
見詰め続ける周泰に観念したのか、女は小さく口を開いた。
「です……お役人様」
聞こえるか聞こえないかの小さな声に、周泰は再び激しい衝動となって沸き上がる劣情を感じた。
「周幼平だ」
思わず強い口調になった事に、周泰自身途惑う。は、もっと途惑ったのだろう。紅い唇が、陸に揚がった魚の様に無音で開閉を繰り返している。
「……幼平、だ」
「(……ようへい)」
の唇が無音で周泰の名をなぞる。瞬間、周泰は傍らの男の襟首を掴んだ。
「……どうすれば、触れる事が出来る?」
男は暫く呆気に取られていたが、直ぐに困った様に笑った。
「お役人様、あの人は或る方に身請けされた娼妓の娘で、外聞が悪いってんで此の屋敷の外へは一歩だって出た事の無い雛鳥なんで。悪い事は言わねぇよ」
「……もう一度だけ、言う。……どうすれば……触れられる?」
殺気が漂う。周泰は、自分が此の男を斬り殺してもを連れ去る事がはっきり解った。質問は、形式に過ぎない。
「お役人様、正気に……!」
もう一度諫めようと男が呆れながら口を開いた時、余りに小さな叫び声がした。刹那、周泰は男を薙ぎ倒し、屋敷の扉を文字通り引き剥がした。
「……!」
階段を駆け上がった周泰の目に、踊り場の上で静かに涙を流すの姿が目に入った。駆け寄って抱き締めると、の白い指が周泰の髪に弱々しく絡む。
周泰は、もう一度の眼を見詰めた。
周泰の腕の中で、周泰を見上げるは、想像していたよりも遙かに小柄で華奢で、蒼みがかった眼には周泰だけが映っていた。
君を必要な事に、理由なんて無い。君が必要だから、必要なんだ。
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蠍様から頂いたリクエストとは若干違っています。
周泰は文字を読めたのかとか、郭で生まれた娼妓の娘は当然娼妓になるとか、其処ら辺都合の悪い所は見なかった振り。兎にも角にも、欲情、劣情、そんな感じが伝わっていれば。
2010.01.28 viax
BGM : GRANRODEO [ GUNDAM TRIBUTE FROM LANTIS / めぐりあい ]
参考文献 : 逍遥選集 / マクベス評釈