※ 暴力的な描写を一部に含みます。苦手な方はご注意下さい。

光和五年に孫堅の次男として産まれた孫権は、太陽が懐に入る夢を見た呉婦人が身籠もったという伝説が有る。

孫家は皆整った容姿をしているが、兄の孫策が呉婦人に似ているのに対し、孫権はどちらかと言えば孫堅に似ていた。異国の血を引いているという孫堅は周りの者より色素が薄く、肌は日に焼けているので目立たないが、頭巾を取った髪は金色がかっており人目を惹いた。孫権も同じだったが、それにつけて眼が碧かったので其れが悩みの種だった。江東の人間は兎角大らかで派手好みであるから、孫権の碧眼は物珍しがられこそすれ忌み嫌われる物ではなかったが、幼い孫権は憧れの父や兄と違う事を酷く気に病み、墨汁で眼を塗ろうとして母に叱られた事さえ有った。

成長した孫権は、孫堅似の精悍な顔立ちと偉丈夫な体付きをしていたが、性格は呉婦人譲りの慎重さを持っており、この点孫堅の豪放磊落な性格を受け継いだのは孫策だった。

地球は人物陳列室

孫権が物心付いた頃、孫堅は多忙で殆ど姿を見る事はなかった。孫堅は、光和七年に起きた黄巾の乱に佐軍司馬として参軍していたのだ。孫堅は、家庭に於いては温厚な父であったが戦場に於いては勇猛な男であり、それは後のシ水関の戦いで華雄を討った事からも窺い知れる。

群雄割拠する乱世に孫堅は確実に頭角を見せ始め、何れ英雄として名を馳せる風格を諸侯に見せつけていた。孫権は、成人した暁には孫堅の片腕として孫家を支える次代の将となる筈だった。しかし、転換期は突然訪れた。

初平参年、孫権が僅か九歳の時に孫堅が戦死したのである。家督を継ぐべき長男の孫策は未だ十七歳であり、彼が孫堅軍を引き継ぐ事ができなかった事が孫家の不幸であった。軍団は、孫堅の兄の子である孫賁に引き継がれたが、孫賁が孫堅の様な大器であるはずもなく袁術の配下に収まると軍団の瓦解が始まる。同時に孫権の不幸も始まった。

孫策は袁術配下の将になる意志は無かった為江都に住居を構え、孫権も母親の呉婦人と共に移り住む。しかし、徐州牧の陶謙から袁術の間者であると疑われ、親子共々生命の危険を感じる様な状況になり、孫権は孫策と別れて母と共に曲阿に移り住む。だが曲阿も安住の地ではなく、孫策に呼ばれて阜陵に移る。其処も丹陽郡を巡って袁術と孫策が対立した為住めなくなり、再び曲阿に戻らざるを得なくなる。孫権は流転を繰り返し、精神の休まる暇のない生活を幼い内から送っていた。

曲阿に戻った孫権は、孫策軍と合流し、十五歳で陽羨県の令となる。孫策は孫権を特に信頼しており、幼い弟としてではなく、信頼できる将として孫権に命を架していた。

「暇だ」

孫権は、つまらなそうに書翰を放り投げた。は黙って其れを拾い上げると、孫権の机の上に置いた。

「……暇だ。郭に行きたい」

孫権はもう一度繰り返すと、後にひっくり返ってしまった。は溜息を吐くと、孫権の顔の上に書翰を置き直した。

「何だったら、片付けるべき書翰全部上に乗せてみますか?」

今度は孫権が溜息を吐き、寝転がった儘渋々書翰に眼を通し始めた。

呂範の推挙で侍女になったは、孫権の身の回りの世話も文官の様な仕事も全てそつなくこなした。は、呂範の信頼を得るだけあって規律を重んじる性質で、若い娘にしてはやや堅かった。孫権が陽羨県の公費を使い込み、其れが露見すると呂範と一緒になって烈火の如く怒った。使い込みは一度や二度ではなく、周谷などは孫権が責められぬ様帳簿を書き換えたりしたが、呂範とはその度滾々と説教をして孫権を辟易させた。

しかし、は若い分呂範よりは融通が利き、孫権が屋敷を抜けだして郭に行く事は怒らなかった。呂範は、流石にはっきりと注意しなかったが、いい顔はしていなかった。その点、は孫権の心を汲み、若くして重責を担う息抜きと認識していた。

「大体、郭の気に入りは何処ぞへ身請けされたんじゃありませんでしたっけ?」

は、特に急ぎの書翰を積み上げながら笑う。孫権も、からかわれている事が解っているので、負けじと言い返す。

「新しい女が入るだろう。暫くは初物ばかりというのも面白い」

「……悪趣味ですねぇ。畑を荒らす狸みたいな事を」

「仮にも主に向かって狸とは何だ……全く口の減らない女だ」

「下品な事を言うからですよ。郭に通うのは結構ですけどね、次々女を漁るのは感心しません。そんな事は曹孟徳に任せておけば良いのです」

「……何だ、それは」

「曹孟徳は大層な女好きで、生娘も未亡人も見境無しという話ですよ」

「羨ましい限りだ」

「もし其れが本心なら、実行なさるのは当分先になさるべきですね」

「何故だ?」

「曹孟徳の女癖の悪さは天下一品です。それでも彼が英雄たるのは何故か? 其れは彼が英雄としても天下一品だからです。曹孟徳という男の前では、女癖など月に群雲がかかる如く其れさえも魅力の一つになる……逆に、欠点が魅力にならぬ内は真の英雄たり得ないのです」

「……大した評価だ……覚えておこう」

の遠慮のない話し方は孫権の気に入りだった。それは女としてと言うよりは人間としてで、孫権はの人間的魅力を高く評価していた。

孫権には、孫堅や孫策の様な軍事的才能はない。代わりに観察眼に優れており、政治的才能に恵まれていた。孫権が群雄であれば此は不幸であるが、彼には群雄の兄孫策がおり、自らが刀を振るう必要は差し迫って無かった為反って幸福であった。孫策は直感で生きる人間であり、政治的才能は孫権に劣る。だからこそ、孫権と上手く支え合う事ができた。そして此の関係は永遠であると思っていた。

孫策が死んだのは突然の事だった。建安五年、孫策は食客の手によって瀕死の傷を負い、其の儘介抱虚しく帰らぬ人となった。

孫策が後事を託したのは、息子の孫紹でも張昭の薦めた孫翊でも無かった。孫策は、後見人に周瑜と張昭を選び、後継者には孫権を指名したのだ。孫権は、群雄に必要な軍事的才能には欠ける所があったし、孫堅から孫策に受け継がれた武勇を一番色濃く残しているのは三男の孫翊だった。しかし、孫策は孫権に後事を託すと安心そうな顔をした。孫策は、孫権の中に孫堅以来の孫家の血を色濃く感じたのかもしれない。

「権、お前は群雄の器じゃ、無いけどよ……」

孫権が孫策の青白い顔を見たのは此が初めてだった。孫策は、容姿も良く武勇に優れた兄で、何時も人々の先頭に立って煌めく孫策が孫権の誇りでもあった。

「その通りです! 兄上、私は英雄ではありません。英雄は兄上しかいないのです! どうか、どうか弱気にならず傷の治療を……きっと治ります! 私は、私は……」

「権、泣くなよ……確かに、お前は英雄の器じゃない……お前は、皇帝の器だからな」

「あ、兄上!」

「お前には、小さい時から流転流転で苦労を掛けて……権、お前は群雄として天下を争うには、親父や俺に劣る。けどよ、お前には人を見る目がある。江東を、孫呉を守る事に掛けちゃ、お前の方が上だ」

「兄上、そんな事はありません! 兄上、孫呉は兄上のもの……皇帝になるのも兄上です!」

孫権の金切り声に、外に控えていたが中へ入り孫権を窘めた。孫権は荒々しくの手を振り払うと、孫策を見詰めたが、孫策は見たこともない様な穏やかな眼差しで孫権を見て笑うだけだった。孫権は、兄が死んでしまうと言う事実の前で、どうすることも出来ない自分を感じた。

孫策の死後、孫権は悲嘆に暮れてばかりいたが、喪に服す孫権を張昭は無理矢理各部へ巡察させる。も此に同行したが、孫権は何時もと違い苛々してみたり鬱々としてみたりで気苦労が絶えなかった。しかし、此によって孫策亡き後も孫家の威信が示され、配下将の離反や反乱は最小限に抑えられた。孫呉は二度目の瓦解を免れたのである。

「仲謀様、先日廬江太守李術の反乱討伐お見事で御座いました」

は努めて明るく振る舞い続けた。確かに孫権は孫策に比べると武勇で劣ったが、孫権の元には周瑜は言うに及ばず、太史慈や周泰や呂蒙と言った猛将がいる。寧ろ江東という土地を得た今、求められているのは孫権の知略であった。は孫権の未来は前途洋々であると思っていた。

「……見事? 私が元の反乱だ……それを収めて見事とは……笑わせる」

その日の孫権は何時にも増して機嫌が悪かった。反乱が起ることは、ある程度予想されていた事だった。孫策という煌めく存在にのみ従った者にとって、孫権は余りに輝きの足りぬ君主であった。其れは、或る意味では間違っていなが本質を見誤った評価だった。孫権は孫策の様に己が煌めく君主ではなく、周りを煌めかせる才に恵まれた君主だった。呂蒙も周泰も孫権無しに其の煌めきはない。その才は後年明白になっていくが、現時点では解り辛く、李術の様な浅はかな者には思いの及ばぬ所にあった。

「仲謀様、その様なお嘆き関心致しませぬ。不当に自分の評価を下げることは、仲謀様に付き従う者の評価まで下げます」

其れは傷心の仲謀には厳しい言葉だった。本来、孫権は深謀遠慮の君主であるが、今の孫権は平常ではない。かっときた孫権は側にあった酒瓶をに投げつけた。瓶は、とっさに顔を庇ったの腕に当たって割れると一片がの足の甲に深く刺さった。

「あ……」

は突然の事に痛みも感じず呆然としていた。瓶を投げられた事よりも、全く孫権の支えになれていない事が悲しかった。

! あ……あ……私は、私は何て事を!」

孫権は我に返り、慌てて机の上の書翰を荒々しく落とすと、を抱き上げて机の上に座らせた。急いで傷付いた足の甲に水を流すと、は痛みで僅かに顔を歪めた。

「ああ……、すまない……私の所為で……今医を呼ぶから」

政務室から駆け出そうとする孫権をは慌てて呼び止め、ゆっくり立ち上がると孫権を側の椅子に座らせた。

「いけません、今は大切な時期。どんな些細な事も大きな誹謗中傷となってしまう事があります。私の足の怪我など捨て置き下さい」

今、孫権に暴君だ等という噂が立てば一大事である。は努めて何でもない様に笑った。実際、は傷の痛みよりも孫権が心配だった。知略に優れると言っても、孫権は齢十九。一国を背負うには余りに幼かった。

「私の事は、良いのです」

孫権は其の顔を何処かで見た事があると思った。其れは、思い出したくないものを思い出させようとする。孫権は頭が割れる様な痛みを一瞬だけ感じた。其れは、孫権の中の何かを崩壊させる様な痛みだった。

「仲謀様は、皇帝の器を持たれる方、私の様な下賤の者の事……!」

孫権は突然を机の上に押し倒した。は、背中を強打した痛みで起きあがる事が出来ず、再び呆然と孫権を見詰めた。孫権の顔はまるで悪霊が乗り移った様で、はそんな孫権の顔を見た事は唯の一度も無かった。

「仲謀様、仲謀様!」

のし掛かる孫権は予想外の腕力で、は震える手で孫権の肩を押し上げようとしたが、直ぐ様両腕を捻り上げられただけだった。は初めて孫権を恐いと思った。忌憚ない言葉にも決して嫌な顔一つ見せなかった孫権の暴走の要因が何か、には全く解らなかった。

「い……いやっ! 仲謀様、仲謀様! いやです! 仲謀様!」

孫権はの抵抗に勝手に傷付いていた。の拒絶は、孫権を嫌っているからだと、さえ孫権を馬鹿にしているのだと思い込んだ。其れは大きな間違いで、は孫権を憎からず思っていたし、こんな暴力的な始まりでなければ、もっと喜んで例え唐突であっても孫権を受け入れられる筈だった。

、お前が叫んで人が来れば、私の器に傷が付くぞ……」

囁かれた其の言葉は、を黙らせるには十分する効力を持っていた。は最早何の抵抗も見せず、唯孫権の卑劣な脅しに心を閉ざしただけだった。

孫権は、幽閉する様にを屋敷の一室に囲うと呂範にさえ会う事を許さなかった。呂範は勿論周瑜も此を止めさせようとしたが、其の話に触れた途端、孫権は恐ろしい眼差しをするので気圧されて何も言えなかった。勿論、が豪族の出であればこの様には行かないが、は庶民の出で親も既に居なかった為些か軽んじられてしまった節はあった。

は幽閉が始まると同時に明朗さを失い、短期間で人形の様に無感情の人間になっていった。孫権はを愛しながら憎んでいたし、憎みながらも愛していた。だが一度狂った歯車は元に戻る事はなく、不協和音を響かせるだけだった。孫権は一度だけでなく、継続的にを暴力的に支配した。孫権は何度も謝ろうとしたが、の死んだ様な顔を見ると自分に対する怒りで感情を抑制できず、結局其れは暴力的な交わりへと繋がるしかなかった。

そんな関係が半年も続いた頃、は荒々しく挿入しようとする孫権の肩を強く押して拒んだ。

「……何だ……抵抗する事を思い出したのか?」

孫権が本当に言いたい事な全く喉から出ず、正反対の言葉だけがまるで孫権の意志であるかの様に発せられた。

「……御子を宿ったのです……お許し下さい……」

孫権は嬉しそうにの顔を見たが、は矢張り硬い表情をしたままだった。其処には子供を宿した女としての喜びを見て取る事は到底不可能だった。

孫権は自分が許されぬ事を解っていながらも、理不尽な怒りを覚えずにはいられなかった。女の喜びを感じさせてやれないのは、他ならぬ孫権の所為であるが、孫権は其れを認めきれなかった。

「……本当に俺の子か怪しいものだ」

の肩が僅かに揺れ、孫権は自分がまたを傷つけた事を知った。それでも、その日から孫権がに触れる時、自己嫌悪以外に喜びも感じる様になった。孫権には妻が一人いたが子供はなく、が無事出産すれば、男でも女でも孫権にとって目に入れても痛くない存在になる事は確かだった。

「……仲謀様……」

櫻の花が咲き誇る季節、その日は妙に底冷えする日だった。

周泰が孫権の寝室を訪れたのは真夜中だった。そんな時間に今まで周泰が訪れた事はなく、孫権は何か重大な事が起ったのを感じた。

「幼平、何があったのだ?」

「……様が御子を……男の子です……」

孫権は嬉しさの余り周泰に抱きつこうとしたが、周泰の表情が妙に硬い事に気が付いた。其れは世継ぎの誕生を祝う顔ではなかった。

「幼平……何があった……?」

「……様は、出産時の出血が酷く……御子を御出産されると同時に……亡くなられました……」

新たな愛しい生命と引き替えに、此までの愛しい存在を失う。それはまるで、一切を許さないに与えられた罰の様だった。孫権は、今更自分が全く許されない事を思った。腕に抱いた赤ん坊は孫権の色素の薄さを引き継いでいて、孫権はいつかに言った暴言を取り消して仕舞っておければ良いのにと願った。

しかし、孫権は其れは永遠に叶わないと思っていたが、実は許されている事を知ったのは随分経ってからだった。身籠もった儘死ぬ事も出来たのに、は孫権に子供を残した。其れは何よりも寛大な恋心の成せるものだったのだと、日増しにに似ていく息子を見て気が付いた。同時に、自分が永遠に英雄たり得ない事も知った。

あの時思い出したのは、孫策の最後の笑顔。愛する様に憎んで、恋する様に求めた、もう二度と会えない兄の顔。全てを許す事が出来る者の顔だった。

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地球上のどの場所も、かつて英雄が立ち、そして滅んでいった場所だ。其れはまるで地球上全てが人間達を陳列している様な錯覚をもたらす。

孫権は決して曹操に劣る器ではない。曹操が破格の英雄であったのならば、孫家もまた三代に渡り破格の英雄を輩出した奇跡的な一族だった。孫権は出自を気にせず、其れは或る意味で曹操よりも自然だった。

この話では上手く触れられなかったけれど、私はヒロインを孫登の母親をイメージしていました。正史によれば「下賤の庶民」の出という事ですが、幾ら身分が低くても皇太子の母親が不在って言うのは不思議なので捏造しました。もしかすると、孫登が産まれた頃未だ孫権は盤石の権力を誇っていた訳ではないので、その女性を妻として認めさせる事が出来なかったのかもしれません。相変わらず私が書くと孫権は悪者で……リクエストを下さった方には申し訳ないです。

2004.04.08 viax

BGM : 浜崎あゆみ [A best]