建安十六年、潼関の戦いに破れた馬超は、妻子と共に西方の羌族の元へと逃れた。元は西涼連合軍の方が優位に進めていた戦だっただけに、馬超の怒りと屈辱は計り知れぬものがあった。
羌族を配下に収め再び旗揚げした馬超は、建安十七年に并州と涼州を手に入れ、自ら征西将軍を名乗り州牧と軍事都督を兼務するようになる。馬超は、共に逃げ延び転戦に付き添った楊婦人や息子達を冀城へと呼び寄せ、家族は落ち着いた生活を取り戻しつつある様に思えた。
しかし建安十九年、楊阜らの裏切りに遭い、馬超は妻子を眼前で殺されてしまう。馬超は馬岱やホウ悳と共に、血の涙を流す思いで歴へと馬を走らせた。父を殺され今また妻子を殺された馬超に書ける言葉を、ホウ悳は勿論馬岱も持つ筈はなく、荒々しい手綱使いの後ろ姿に二人は涙を堪えるだけで必死だった。

「H・L・M」is ORIGINAL

歴へと辿り着いた馬超を姜叙と勘違いした城の軍は容易く門扉を開き、兵達は次々と馬超の手によって斬り殺された。城に充満していく血の臭いと死体の山にホウ悳は僅かに悲しそうな顔をしたが、楊婦人と共に殺された妻子の事を思い出すと情の気持ちも静まり馬超に従った。
暫くして馬岱が老婆を引っ張って来て馬超の前に放り投げた。
「何をする! 私を、私を誰と思っているのか!」
老婆は威勢良く叫んだが、馬超の怒りに燃えた蒼白の顔を見ると、顔を引きつらせて後ずさった。
「兄上、これが姜叙の母です」
馬超と違い、馬岱は怒りの余り顔を真っ赤にしている。馬岱は、馬超に似て色白で平素は穏やかで顔色など変えない男であるが、流石に恨みの余り冷静さを保つ事ができない様で、後ずさる姜叙の母の首を掴むと乱暴に地面に押しつけた。
「おのれっ!貴様の様な暴虐の輩に掴む天など無いわ! この親不孝者め!」
姜叙の母は二人に怯えてはいたが、姜叙の事を考えるとおめおめと命乞いする事など出来ず、果敢な様を見せた。
「……言い残したい事はそれだけか?」
馬超の口調は恐ろしい程落ち着いていた。平素の馬超は、馬岱とは対照的に感情の起伏が激しく、其処が魅力と感じさせる男である。故に感情を押し殺した馬超など余り見るものではない。馬岱やホウ悳にさえ、情に厚い馬超にとって肉親を殺された事がどれ程の精神的苦痛を覚えたか考え及ばず、まして姜叙や曹操など永遠に解する事は無いだろうと思った。
「馬孟起、そなた呂布の再来と言われる武勇と侠に厚い心を持っているなどと持て囃され良い気になっている様だが、己の父が何故死んだか考えてみるが良い! 全てそなたの行いの報いよ!」
眼を見開いて馬超を見上げる姜叙の母を馬岱は憎々しげに睨み、到底老婆が耐えられるとは思えぬ程強い力で地面に押しつけた。砂が気管に入っって噎せているのが解ったが、馬岱は構う様子もなく土にまみれた老婆の白髪頭を押さえ付けた。
「岱、離せ……」
「兄上! こんな老婆の戯言を真に受けるのですか?」
「岱、俺の命令が聞けぬのか?」
馬岱は聞き慣れぬ馬超の声に気圧され、渋々姜叙の母から手を離した。老婆は噎せ返りながらも背を反らすと馬超に向き直った。
「ふん、少しは人の心が残っていたか。馬孟起、直ぐにこの城から出て……!」
「人の心? 俺は、俺の正義のもと刃を振るい、父を尊敬し妻子を愛してきた……しかし其れを奪ったのは曹操で有りお前の息子だ。死んで償うのが道理だろう……復讐が正義でないというなら、この城で貴様ら一族を根絶やしにするまでは、俺は、正義を忘れる」
馬超は話し終える前に姜叙の母を肩から一刀両断した。其れでも怒りは収まらず、馬超は老婆の顔に刃を何度も突き刺した。流石に見かねたホウ悳が止めると、馬超は今まで見た事も無いような冷たい目でホウ徳を見た後、ようやく刀を手放した。既に老婆の顔は形跡も無く、馬岱さえその底知れぬ怒りに震えた。
「……ホウ将軍、姜伯奕の一族を残らず殺せ」
ホウ悳は無言で頷くと、馬岱と共に手勢を連れて歴城内の残党狩りを始めた。

馬超は溜息を吐くと、その場に座り込んだ。
姜叙の母は憎い。しかし本当に憎む相手は老婆ではない。にも拘わらず余りに感情的な行いをした。馬超は、自分が思いの外感情が高ぶっている事に戸惑った。
「俺の正義が泣いている……」
馬超は頭を抱えて首を振った。
その瞬間、視線の端に白い物が目に入った。慌てて目を凝らすと、甕に隠れている女と眼があった。女は怯えた眼差しで、馬超から視線を逸らす事も出来ずにその場にへたり込んだ。
馬超が素早く女に近付くと腕を捻り上げると、女は顔を歪めて涙を流した。其の涙は、痛みの所為と言うよりは恐怖の所為だろう。
「……女、何者だ」
女は怯えて首を振るばかりで要領を得ない。仕方なく馬超は女を良く眺めた。色の白い女で、勿論生来の物も有るのだろうが、どちらかと言えば殆ど陽に当たった事がない様な印象を受ける。誰かの妻かとも思うが、其れにしては着ている物が粗末だ。
「……何者だ」
女は掠れる様な声で辛うじて返事をした。
「わた……私は、で御座い、ます。此処の、姜将軍の、側使いで御座います……」
「側使い? ……閨の相手もするのか?」
首元から覗く鬱血の跡に鎌を掛けると、女は身体を震わせて許しを請うた。
馬超は一瞬女を殺そうと思ったが、女が痩せ細っている様を見て哀れに思い、手首を離した。女は怯えた儘蹲り、ひたすら震えていた。美しいと言えば言えない事も無かったが、扱いは余り良くない様で、この怯えようだと馬超が兵士に女をくれてやるのを恐れている様だった。姜叙の下で、その様な扱いを受けた事があるのかもしれない。
「……、か。女というのは、男を彩る能が無ければ、男を支えるしかない。それも出来ぬなら閨の相手をする他無い。お前は何が出来る?」
「わ、私は、私は何も出来ません……物心付いた時から遊郭におりました。閨のお相手以外に出来る事は……出来る事は、寝込みを襲うくらいで御座います」
馬超はの大胆な返事に驚き、余りに突拍子もない答えに笑い出した。馬超は正義を貫く男であり、寝込みを襲うなど卑怯な真似は用いた事がなかったが、この状況で咄嗟に其れを口にする事が出来る女に興味を持った。
「そうか、、お前は随分と度胸が良い。寝込みを襲うか……確かにまぁ、そういう事も出来るかもしれないな。ふん……気に入った。お前は生かしておいてやる」
城内の敵を殲滅したホウ悳達の姿が見えた馬超は、を馬に乗せると歴からの撤退を命じた。馬岱は馬の上のを訝しげに見たが、馬超の女好きは知らぬ癖ではないので黙っていた。

漢中へと逃げた馬超達に従ったは、兵の閨の相手こそ命じられはしなかったが、馬超の相手は幾度と無く命じられた。馬超は特に何も言わなかったが、彼なりに気遣っているらしく、は大量の食事と着物を与えられていた。はこの馬超の気遣いを有り難く思い、素直に受け取っていた。は馬超の事を嫌いでは無く、しかし愛されているとは到底思えなかった。閨の馬超は、死ぬ程優しくを抱く事もあれば、血が出る程噛みついてくる事もあった。

、此処の生活には慣れたか」
馬超が昼間にの下を訪れる事は珍しかった。は馬超の居ぬ時間は馬頭琴を弾いて暮らしていたので、その日も覚えたばかりの曲を鼻歌交じりに弾いていた。
の立場は極めて微妙なもので、今は馬超が足繁く訪れるので妾と思われているが、馬超が飽きてしまえば当然はした女同然の扱いになる。周りの者も其れが解っているので、への態度は慇懃無礼という感じで話し相手も居らず、文字を読めないは一日中馬頭琴でなければ笛を吹くくらいしかする事が無かった。
「はい、皆様良くして下さいますし……」
「良く? 嘘を言うな。お前を姜伯奕の下から攫ってきたのは周知の事実。俺の寵愛が無くなれば慰め者になる事くらい気付かぬ馬鹿ではあるまい」
は返答出来ずに俯く。馬超は寵愛と言ったが、馬超が気に入っているのはとしてではなく目新しい女としてだ。迂闊な会話をして機嫌を損ねたくなかった。
「ふん……まぁ此処へ来て少し肉付きも良くなったし、垢抜けて美しくはなったな……性格も悪くはないし、馬頭琴の腕はどうして中々……可愛くない事は無いな」
馬超は珍しく眼を細めてを愛しげに見詰めると、膝の上にを抱き上げ、馬頭琴を弾く様に命じた。
「お前は馬頭琴を弾きながら適当な節で歌う癖があるな。何か歌を知っているのか?」
「いいえ……その様な高貴な事は何一つ出来ませぬ……宴会の時などに聞こえてくるお歌を適当に真似ているだけで……私は文字も読めませぬし……」
陽に録に当たる事もなく過ごしてきた遊郭時代が長かった所為か、の髪は細く薄茶色で遠目からも良く目立つ。馬超は時々その髪を眼で追っている事に気が付いてはいたが、その感情を恋とは呼びたくなかった。妻子の死から僅かな内に新たに妻を娶る様な、そんな正義の無い男にはなりたくなかった。
「……まぁ、俺はお前の適当な歌が嫌いではない。馬頭琴がもう少し巧くなれば、誰か稽古に付けてやっても良いぞ」
馬超はの手から弦を取ると、を床に寝かせた。は馬頭琴を横に置くと、床の冷たさを背に感じながら眼を閉じた。少しも屈辱感が無かったかと言えば嘘だ。けれど、馬超に触れられる事はとても気持ち良く、嫌いになる事など出来なかった。

「俺は、明日葭萌関に立つ」
床で一度抱いた後、馬超はの部屋で深夜まで何度も抱き続けた。は幾度か休みたいと言ったが、馬超は聞き入れなかった。その日の馬超は殊更荒々しく、何度を貫いても止めようとはしなかった。早馬――恐らく馬超の迎えに来た馬岱辺り――の音が聞こえて、やっとは閨から解放されたのだ。
「……戦に行かれるのですね。どうぞ、お気を付けて……」
は羽織らせて貰った着物の前を合わせる気力もなく、臥床から辛うじて起きあがって頭を下げた。自分でもみっともないとは思ったが、起きあがるだけでも身体がだるく、それは誰の所為かと言えば馬超の所為なのだから、多少の無礼は許してくれるだろうと思った。
「……お前を連れて行きたい」
「え?」
馬超はをじっと見詰めていたが、やがて首を振ると帰り支度を始めた。筋肉が良く隆起した背中を見て、はそれについ先刻までしがみついていたのだと思うと不思議な気分だった。は疲れ果てているのに、馬超は少しも疲れた様子がなく、先程は少し汗ばんでいたが、今はもう涼しい顔をしている。には馬超という男の心がよく見えなかった。
「良く、練習しろ」
馬超は疲れているを気遣って見送りを断り、其れだけ言うと帰って行った。

戦況はには全く伝わってこなかった。は、ただ馬超に言われた通り馬頭琴を練習し続けた。
少し激しい楽曲を弾きながら、適当に歌いながら、の脳裏は戦う馬超の姿を想像した。錦馬超と呼ばれる姿は、一度しか見た事がないが、戦の華と言われるその姿は、きっと敵将さえ惹き付けているだろう。
は眼を閉じると一層激しく弾きながら、馬超が無事に帰っては来ない様な不安な気持ちを打ち消す様に、一生懸命声を上げた。何時まで経っても不安は消えず、は、ひたすら馬超の無事を想って葭萌関にまで聞こえる様に祈りながら馬頭琴を弾き続けた。

最初から、あの眼差しの虜となる運命だったと、今更気が付いた。

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芹ナズナ様からリクエスト頂いた馬超です。
愛してはいけない人を愛した時、喜びが増すのは何故だろう。

2005.03.12 viax