泣き崩れる私を支える手。
其れが彼方の遺したものなのだと気付く。
それでも、この喪失感は癒えない。
失った夫への愛情が、思い出になる事など無い。
私を支える優しい腕は、もう無い。
− 弓を番えて −
夏侯淵の正室−−が夏侯淵の訃報を聞いたのは、建安24年の正月だった。
目出度い雰囲気は一気に消し飛び、次男の夏侯覇は崩れ落ちる落ちる母を慌てて受け止めた。
「母上! お気を確かに!」
夏侯覇の呼び掛けに、は虚ろな眼差しで頷いた。
「大丈夫です。私も武人の妻…覚悟はしていました…」
−嘘だ。妙才に限って死ぬ訳無いと高を括っていた。剛者の妙才だから、戦死するなど碌に考えたこともなかった。
曹操よりの使者は気の毒そうにを見詰めたが、もう一つの事実も伝えぬ訳にはいかなかった。
「夫人、従軍しておられた夏侯栄殿も…お亡くなりに成りました。」
は今度こそ天地が逆さになるのを感じた。愛する夫と息子の死の衝撃に、は意識を手放した。
張飛に嫁いでいた姪である夏侯夫人の計らいで、夏侯淵の遺体は手厚く埋葬された。
しかし其れでの傷心が癒える訳もなく、寧ろ夏侯淵を失った悲しみの余り病に伏していた。
曹操は妻の妹でもあるの嘆き振りを心配し、夏侯惇を目付にやった。
「夫人、具合は如何だ?」
夏侯惇は寝台から起き上がったの変貌振りに少し言葉を失った。
美しい容姿は変わりなかったが、まるで死人の様に青白い顔をしており、唯でさえ細い身体は今にも崩れそうだった。
「夫人! 一体どうしたのだ?」
「これは元譲様…お見苦しい所を…」
は震える身体で起き上がり、夏侯惇は慌ててその身体を支えた。骨張った身体は羽の様に軽く、夏侯淵の喪失の重大さを伝えた。
「…淵の事は……」
夏侯惇が言葉を探していると、が涙を零した。
「元譲様、私は愚かで御座いました。夫は…妙才は死なぬ気がしておりました。」
は暫く啜り泣きをした。
「栄の出陣ももっと強く反対すべきでした。あの子は武人には向いておりませんでした…けれど妙才が一緒だから大丈夫だと思ったのです。妙才は、私にとって最強の武を誇る万能の人でした。妙才が戦死するなど、私は愚かにも考えもしませんでした。妙才は、栄を…息子達を何時も守り、私を永遠に支えてくれると思っておりました。」
夏候惇は何と言うべきか解らず、の悲しげな顔を唯見詰めた。
「妙才は私にとって神の様な存在でした。妙才がいれば全ては安心でした。」
は、夏候惇に突然帰って欲しいと言った。
「元譲様、お許し下さい。今は、彼方を見ると妙才を思い出すのです。」
夏侯惇の容姿は夏侯淵に似ているとは言い難かった。恰幅の良い夏侯淵に比べると、夏侯惇は筋肉質だが細身であった。しかし目元などがどことなく似ており、それがを悲しませる様だった。
「解った。本日は失礼しよう。…だが明日また来る。」
夏侯惇が扉を閉めようとすると、が呟いた。
「元譲様、妙才という神を失った私はどうすればいいのでしょうか…」
その悲壮な姿に夏侯惇は思わず目を背けた。
その晩、夏侯淵正妻−は自害をした。
夏侯淵の所持していた矢に猛毒を塗り、首に突き刺したのだ。
神を失いし女に番える弓は無く、ならば死を迎えるのみ。
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短い・暗い・どうしようも無いと三拍子揃った夏侯淵夢。寧ろ夏侯家夢?
淵ちゃんの様に明るい人を失ったらショックだろうな…と思ったのですが。この奥方様は別に弱い人ではありません。ただ夫亡き今生きる道が見つけられなかったのです。息子は夫ではないと知っていた−息子にとっては少し冷たい母親だたかもしれませんが…。
2004.02.05 viax