眼前の亡骸に思う事は、唯その無念への追悼。
英雄を志し半ばで手折る者達への嫌悪で握りしめた手が震える。
縋り付いて泣く事も叶わぬ我が身を絶望が蝕んでいく。
やっと握った大きな彼方の掌。
喉の奥から絞り出した掠れ声で述べた慰めの言葉。



− 冷たい人 −



孫策付きの文官−其れがに与えられた地位だった。
江東の虎の血を継ぐ若者−江東の麒麟児−は、容姿も気質も父親譲りだった。
其の美しい武者者降りには眼を奪われたが、反する様な政治への興味のなさも眼を惹いた。
 −伯符様、少しは書類に目を通して下さいませ。仕事が終わりませぬ。
 −だってよぉ…
孫策は子供の様に口を尖らせた。
 −こんなん読んでも面白くねぇよ。
重要書類をひらひらとさせながら、孫策は不平を零した。
 −面白いとか面白くないとかでは御座いません。これらは全て必要な作業なので御座いますよ。
は苦笑しながら孫策から書類を受け取り目を通した。
 −伯符様、民が今年は不作につき税を軽くして欲しいそうで御座いますよ?
 −良いんじゃねぇ? 軽くしてやれよ。
孫策は当然と言った顔でを見た。
 −では此処に伯符様の署名捺印をして下さいませ。
は孫策に署名欄を指し示しながら話した。
 −伯符様、この様な事を最終的に判断なさるのは貴方様で御座います。周都督にはその様な権限は御座いませんし、国家を憂うならば例え周都督がお相手であろうとも特例は作るべきでは御座いません。
 −何だよ其れ?
 −周都督は伯符様の御兄弟も同然。なればこそ伯符様と呉の行く末を心よりお考え下さいますが、都督は都督。
  今後周都督に成り代わり権力を手中に収めんとする者を防ぐ為にも、伯符様にも最低限にして最重要な仕事をして頂く事は覇者として当然の義務で御座います。
孫策は、の言葉に珍しく真面目な顔で考え込んだ。
 −解った。でも俺やっぱ政治は苦手なんだよ。お前が今日みたくきちんと教えてくれ。お前は俺の事も呉の事も心から考えてくれるんだろう?
 −勿論で御座います。私はその為の文官で御座いますよ。伯符様に仕事をしていく為ならば身を粉にするつもりで御座います。
 −そんなに頑張ってくれなくってもいーんだよ。適度に…な?
孫策は慌てて弁解を始め、は思わず笑った。
 −伯符様が相手ですからね。無理は出来ませんよ。
 −それはそれでヒデぇ!
孫策はを抱き締めて笑った。はその体温の暖かさを心地良く思った。
しかし、若い陽気な君主にとっては何気ない行動だろうが、にとっては此も悩みの一つだった。
美丈夫な孫策は女にもて、孫堅と比べると女性関係が華やかだった。既に正室も側室もあった孫策だが、廬江の劉勲を討伐した際に捕虜となっていった喬公の娘−大喬−を新たに側室として迎えていた。孫策はこの大喬を寵愛しており、正室達は快く思っていないのだ。
 −伯符様、差し出がましい様ですが…
は孫策から身を引き向き直った。
 −後宮にももう少し目を向けて下さいませ。
孫策は意外そうな顔をした。
 −後宮? 皆適当に仲良くやってると思ってたんだけどなぁ…
 −伯符様の奥方様は、何方も美しく賢い方ばかりで御座いますから大事には成らないでしょうが…大喬様にご寵愛が偏りすぎているのでは御座いませんか?
孫策は思い当たる節があるらしく、悪戯が見つかった子供の様な顔をした。
 −美女の誉れ高き二喬のお一人で御座いますから、お気に召したのは良く解ります。しかし御正室を蔑ろにするのは感心致しませんね。御嫡子孫紹様の御生母なのですよ?
 −あぁ…解ってる。大喬以外も寝所に招く様にする。
は、寝所に招くだけが夫の勤めとは思わなかったが、其れでも大喬ばかり招くよりは良いと思ったのでそれ以上の口出しは控えた。また最近懐妊が解った大喬を特に可愛がる孫策の気持ちも解らなくは無かった。
実際の所結婚生活という物がには良く解らなかった。壱拾四の時訳もわからぬ侭婚姻をしたが、夫は其の七日後還らぬ人となった。武人であった夫の死は悲しい物ではあったが、幼いには其れは夫の死ではなく知人の死であった。僅か数日では婚家から生家へと帰り、以降文官として孫家に使えてきた。その所為か、弐拾七になった今も男女の事に関しては疎かった。後宮の奥方達の不平も解らなく無かったが、かと言って具体的な打開策も思いつかなかった。
はその後暫く孫策の話し相手をしてから下がった。其れが溌剌とした孫策を見た最後だった。


翌日長江まで一人で馬を跳ばした孫策は、不運にも許貢の末息子とその食客に遇い、重傷を負わされて帰ってきた。孫策にとってもう一つの不幸は、神医華佗の不在であった。華佗の使徒達は最善を尽くしたが、師の技術には適わず、孫策は日に日に弱っていった。
亡くなる少し前、孫策はを呼んだ。其処には、の知らぬ孫策が居た。血色の良い肌は青白くなり、逞しい身体は痩せていた。天真爛漫な微笑みを浮かべる顔は、静かな微笑みをたたえていた。
 −お前の言葉が蘇る。お前は何時も俺のみを案じていた。今更だが、その有り難さが解った。
 −勿体ないお言葉で御座います。
は涙が零れぬ様短い返事を返すのがやっとだった。
 −俺の後は権に任せた。張昭が補佐してくれるし…安心だ。
 −伯符様とは思えぬ弱気なお言葉で御座います。怪我くらい養生すれば治ります。
態と何時も通り叱責した。そうしなければの方が耐えられそうもなかった。
 −公謹にはもう会えないな…、俺の死後お前は公謹の文官として使えてくれ。
 −伯符様、不吉な事を仰るのはお止め下さい。
孫策は気丈なを見て微笑んだ。
 −公謹宛てに文は書いおいた。公謹を俺だと思って良く尽くしてやってくれ。もっとも彼奴は俺の様にお前を困らせたりはしないだろうが。権にも良くしてやってくれな。俺の跡を継いで君主になるのは彼奴だ。
 −…お止め下さい。その様な弱音は聞きたくありません。
 −、大喬の事も頼む。懐妊中に俺を亡くす不幸を慰めてやってくれ。
 −周都督にも仲謀様にも勿論良く尽くしましょう。大喬様のお力にも成りましょう。ですが私の主は孫伯符様。切り傷くらいでその様に弱気に成られては困ります。
は僅かに声が震えた事に孫策が気づかなければ良いと思った。
死の淵にあっても覇者は覇者であり、孫策は平素のやんちゃ振りは嘘の様に後の事を良く指示した。其れは孫策が如何に良き君主の器を持っていたかという事である。は運命を呪い神仏を呪った。
 −、俺お前が好きだったのかなぁ…
孫策は思い出した様に呟いた。
 −こうしているとお前の小言ばかり思い出すんだ。大喬でも公謹でも無く、お前の小言ばっかり…
 −お二方が霞むほど伯符様を叱りましたからね。此からも緩めるつもりは御座いませんよ。
 −あーこぇー…なぁ眠るまで暫く手ぇ握ってくれねぇ?
孫策は幼子の様に懇願した。
 −慣れぬ病に弱気になる様では今後が思いやられます。
は、其の弱々しい手を握りながら孫策が眠るまで小言を止めなかった。孫策は穏やかに微笑んでいた。



訃報に泣き崩れる大喬をが横から抱き留めた。
…伯符様が…伯符様が…」
大喬はの腕に縋り付いて涙を零した。は大喬の美しい髪を撫でながら慰めの言葉を探した。
眼前に冷たい孫策を認めても、には孫策の死の意味が解らなかった。

この男は此処で死ぬべき男ではないのに。

は泣きすがる大喬の背を撫でながら、孫策の手を握った。
冷たい手。もう二度との背を叩く事のない手。もう二度とを抱き締める事も無い手。
は孫策の手を離し、ゆっくりと大喬を抱き起こした。
「大喬様、泣いてばかりでは伯符様のご意向には添えませんよ。貴女様に宿る御子にも障ります。伯符様を失っても、大喬様のお側に伯符様の愛はあります。最も大きな愛こそが御子ではありませんか。」
大喬は、の言葉にまた涙した。
「ありがとう、此からも公謹様や仲謀様…そして私を支えて下さいますか?」
「勿論で御座います。其れが伯符様への恩返しと信じております。」

伯符様の意向を継ぐ事で喪失感を補えると信じているから。



周瑜付き文官として仕えたは、周瑜亡き後は孫権に死ぬまで仕えた。
その容姿は非常に美しく妻に望む者も多かったが、は生涯主孫策の意向にのみ従事した。








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ヒロインは孫策を失う寸前にその想いに気が付いたのでしょうか。相変わらず悲しいだけの話です。
大喬を側室にしたのは、寵姫のイメージを出したかったから。正史にも孫策の妻の存在は碌に出てきません。なので孫策が側室を複数名持っていたかは不明です。ただ嫡子を産んだ人が正室かな…と何となく思っただけです。大喬自体は嫌いじゃありません。
この話が比較的書きやすかったので、もしかしたら「長い戦いは過ぎて」に続くかも知れません。

2004.02.02 viax