何時だって私は弱者だ。帝が変わろうと群雄が現れようと、結局何時だって私は搾取される側である事に変わりない。
そいして、今は今で白昼堂々山賊に襲われて手篭めにされ掛けている。何だって不幸な人間にばかり不幸は降ってくるのだろう。誰が何と言おうと、此の世の不幸を全て背負い込んでしまった様な気分だ。
ただの男
「もう、もう……こんなの嫌ぁー!」
有らん限りの声で叫んでみても、山賊は少し驚いた顔をした程度で、すぐまた下卑た顔で迫ってきた。
この男に穢され、次々と此処にいる全ての男の相手をして、それで私は家に帰して貰えるのだろうかと、どうせ殺されてしまうのではないだろうかと、其れだけが心配だった。今となっては、此処から犯されずに逃げ出す事よりも、生きて帰る事の方が心の大半を占めていた。
「其処の醜い方、お嬢さんからお退きなさい」
まるで鈴の音の様な綺麗な声が聞こえて、私は遂に幻聴が聞こえる程現実逃避をしてしまったのかと思ったが、其れは幻でも何でもなく生身の人間の声だった。
私が生きてきた間――其れは大して長い年月ではなかったが――見てきた人間の中で、一番美しい人が目の前にいた。その人は半裸で、ちょっとなよなよとした印象だったが、この際助けてくれるなら天狗でも何でも良かった。
「何だ、お前?」
山賊は薄笑いの侭だ。其れは仕方ない事だ。だって、その人はお世辞にも強そうには見えない。
「わたくしは……わたくしは其のお嬢さんを助けに来た者ですよ。さぁ、お嬢さんの手を離して、其の汚い顔をぶら下げてお帰りなさい」
其の人は綺麗な顔で平然とそんな事を言った。私は吃驚して山賊の顔を窺うと、真っ赤になって目をつり上げている。
「何だとっ! お前……え?」
山賊が拍子抜けするのも道理で、其の人は颯爽と私に駆け寄ると、傍にいた山賊を長い爪の様な武器で瞬時に斬り殺したのだ。そうして、私の上に跨っていた山賊の喉に其の武器を突き付けて嫣然と笑っている。
「もう一度だけ……お退きなさい」
私は、この人の目がちっとも笑っていない事に気が付いた。
この人は、とても怒っていて、とても本気だと言う事が私にも解った。私に解ったのだから、山賊にはもっと解る事で、太った躯に似合わぬ速度で私の上から退いて顔を引きつらせている。
「解った、退いただろ。な……此で良いだっ……!」
山賊の肩から斜めに武器が振り下ろされて、腹から臓物が飛び散って倒れた。
「私は、退きなさい、と言ったのであって、退いたら助けますよ、とは一言も言っていませんよ」
此だから美しくない人は嫌ですね、とか言いながら私を抱き起こして、腰の布を私に巻き付けて破れた服の代わりにしてくれた。
私に、大丈夫ですかという顔は眼もちゃんと笑っていて、私はさっきのは見間違いだったのかと思ったが、足下の死体を見れば現実だった事が解る。
「麓まで送りましょう。もう二度と女の子一人でこんな所へきては、いけませんよ」
いつの間にか武器を外した手で私の手を握ると、にこにこしながら麓まで連れて帰ってくれ、帰り際一枚の紙をくれた。
「もし、あなたのご両親が許してくれて、あなたも望むのならば、許昌に来て此の紙を丞相府の門番に見せなさい」
私は、突然の事に驚きながら、取り敢えず頷いた。文字が読めないので何と書いてあるかは解らないが、何か凄い物なんだと思った。
「お嬢さん、不幸な顔で従順に待つばかりでは何も変わらないのですよ」
私の心を見透かした様な台詞に、思わずかっとなって睨み付けたが、其の人は怒るでもなく少し淋しそうな顔をしただけだった。
「自分の手で、何かを変えたいと思ったら、お出でなさい。何時だって、わたくしは待っていますよ」
其れは美しい鳶色の馬に乗って、美しい其の人も去っていった。
私は、手の中の紙を睨みながら、不幸な侭待つ事を止めようと思った。元より両親など居ない私は、其の足で許昌を目指した。ただ、今度は護身用に鉈を持って行く事は忘れなかった。
許昌は煌びやかな町で、私みたいに泥臭い格好をした人なんて殆どいなかった。皆が紅色やら碧色やらの服を着て、往来を楽しそうに歩いている。子供達も、真っ白で柔らかそうな手をしていて、私はやっぱり自分はとびきり不幸なんじゃないのかと思った。
だけど、懐の紙が其れを否定してくれる。
「すみません」
私は大きな門の前にいた人に声を掛けた。彼は迷惑そうな顔をしたけれど、私が差し出した紙を読むと顔色を変えた。
「失礼致しました! 此方へどうぞ!」
言われる侭、綺麗な役所の中へ入った。門番から小綺麗な男の人に紙が渡されて少し進むと、今度はもうちょっと綺麗な女の人が紙を受け取って案内してくれた。また少し進むと、髭を生やした恰幅の良い人に変わった。何度か案内してくれる人が代わりながら私が通されたのは、大きくてきらきらして、だけど本が堆く積まれた部屋だった。其処には男の人がいて、案内してくれた人は其の人に紙を渡すと私にも一礼して出て行った。
「……もっと傍へ」
私は腰を低くしながら近寄った。こんなに威厳のある人は見た事がなかった。
「あの、あの私、私は。そんで、あの、丞相様? に会いに来たんです。会えますか?」
偉い人だから、今日は会えないかも知れない。でも、来た事は伝えて欲しいと思った。
「? おかしな事を。儂が丞相……曹孟徳だぞ?」
「え?」
私はまじまじと曹孟徳と名乗る男を見た。男は割と整ってはいるが、何とも言い難い顔だ。酷薄そうにも見えるし、無邪気な様にも見える。真意が掴みにくそうな人だと思った。
「だって、其の紙くれた人が丞相様でしょう? 私、其の人に、会いたくて……会いたくて、此処まで……」
何と言って良いか解らなかった。許昌に来た理由の一つは、自分で幸福になる努力をする為。もう一つは、もう一度あの人に会いたかったから。なのに、彼は丞相じゃないなんて……じゃあ何で丞相府へ来いなんて言ったんだろう。
私は、今にも泣き出しそうな顔で曹孟徳を見詰めた。
「何を勘違いしておるのか知らないが、此を書いたのは……ほら、足音がするだろう。あやつだぞ?」
私が振り返ると、あの人が笑っていた。やっぱり眼も笑っている。
「来たんですね。思ったより、ずっと早い……」
其の人は私の傍に駆け寄ると、軽々と私を抱き上げた。
「殿、可愛いでしょう? 私が山で見付けた美しい妖精はこの子です」
この人は、一々私を吃驚させる。でも、此が一番驚いた。私は彼の腕の中で、彼の顔と曹孟徳の顔を交互に見た。
「ああ、その娘か……全く……名前くらい名乗ってやれ。お主を丞相だと思っていたぞ」
彼は、あらと言う顔で私を見詰めた。
「早とちりな妖精さん、わたくしは張儁乂ですよ。間違えないで下さいね」
美しい張儁乂は、私を抱き上げた侭二言三言曹孟徳と話し、部屋の外へ出た。
「あ、あの!」
「?」
目を見開いた張儁乂は綺麗ではなく可愛い。でも、今はそんな事を気にしている場合ではない。
「あ、あの……張儁乂さんは、何者ですか?」
彼は、もう一度あらという顔をすると、にっこり笑って私を肩の上に座らせる様に抱き直した。
「私は何者でもない。張儁乂ですよ。あなたに一目惚れした、ただの男です」
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私の書く張コウさんは、余り煌びやかじゃない。でも、ゲームと同じくらい良い人を目指しています(笑)。
2005.09.15 viax