其の訃報は、曹操を激しい悲しみの渦へと陥れた。
夏侯惇の慰めさえ、曹操を完全に立ち直らせることは出来なかった。
曹操は夜な夜な後宮に入りびたり、しかし其れは淫蕩だからではなく深い嘆きゆえであると誰もが知っていた。
私の背に夜毎刻まれる爪痕は、彼への手向け花。
曹操の眼前にいるのは私だというのに、朧な視線の先にいるのは彼でしかない。



残された人



今日もまた、曹操の嗚咽が背中から聞こえる。
の背に爪を食い込ませて、身も世も無く泣き崩れている。曹操と言えば姦雄と名高い神をも恐れぬ男だと言うのに、赤壁で失った軍師の為に此処数日この有様なのだ。
「嘉……私がもっと良い医者を……華陀に見せてやれれば……」
は愛しい曹操の嘆きぶりに共感する部分もあれど、余りの臥せ様に些か心の何処かが凍て付く様に冷たいのを感じた。其れは曹操に対する呆れでは無く、郭嘉に対する嫉妬。は妾の一人に過ぎず、曹操の寵愛を失えば明日からも路頭に迷う身であるのに、郭嘉は死してなお其の信頼を失わないのだ。郭嘉という男が、曹操と言う英傑に忘れられる事は生涯無いという事実に対する嫉妬。には決して手に入れることの出来ないものに対する憧れと、其れが手に入らないという苦しみ。は聡い女であるが、やはり女故政治にも戦争にも不向きで有り、曹操の戦に付いて行く事は出来ない。そういう意味では、夫と共に戦に伴う事の出来る甄姫を羨ましく思う気持ちも有るが、不思議と嫉妬は沸かない。其れは、恐らく彼女が凛々しい女性だからだ。そして郭嘉を羨ましいと思うのは、自身が女々しくも戦でも唯傍に居たいと願う気持ちがあるからなのだ。だから、決して武力に優れているとは言えない郭嘉が、終始曹操の傍に居るのが羨ましくて堪らないのだ。
「……孟徳様、優秀な軍師を失った事が悲しいのですか、それとも郭奉考という男を失った事が悲しいのですか」
その瞬間の身体が臥床に押し付けられ、咽喉が詰まった。
……そなたとは言え、言って良い事と悪い事の区別くらい付くであろう。そなたは、嘉を馬鹿にするのか……」
その眼差しはの知っている曹操の顔ではなく、乱世の姦雄と言われる男の顔だった。
「馬鹿に……など、しておりません……私は、唯、優秀な軍師を失ったと思われているのならば、先頃司馬八達の中でも随一と言われる仲達殿が来られましたし、郭奉考という男を失って悲しんでいらっしゃるならば……私が少しでも其の代わりになりたいと、思っただけです……」
曹操は思わぬ言葉にを押さえつけていた腕の力を抜いた。
「私は女でございますし、郭軍師の様に政治も軍略も良く知りませんし、甄婦人の様に武力も有りません。でも、私は孟徳様の妾……ならば愛する方のお力になりたいと思ってはいけませんか、私では郭軍師の代わりに少しもなりませんか」
珍しく語気を強めたに、曹操は怯んだ。平素穏やかなの何処に、こんな激しい感情が眠っていたのかと思った。
、嘉の代わりになる者などいない。しかし、そなたの代わりになる者もいない。此れは世の理だ」
曹操の表情が見る間に穏やかになり、を抱き上げだ。
「そなたが嘉の代わりになる必要は無い。私は今のが好きだ。ただ、今日1日、もう少し嘆かせてくれ。そうしたら、私は元の姦雄に戻る」
曹操の掌が、の髪を優しく撫でた。先ほどの首を絞めたとは思えぬ優しい手だった。
「はい……私の元で宜しければ、幾らでも縋って下さいませ。孟徳様の支えになれる事が、私の誇りです」
曹操は優しく微笑むと、の肩に顔を埋め、小さな嗚咽を漏らした。まるで子供の様に、ただ悲しんで泣いていた。は曹操の背を撫でながら、郭嘉の顔を思いだしていた。整っているのに妙に薄幸そうな顔立ちで、辛辣な口振りが多かったが、優秀な人物だった。彼を失ったことは、曹操の枷になるだけでなく、三国統一を目指す曹魏の枷にもなるだろう。其れ位、彼の死は痛手なのだ。


残された者がこんなにも悲しむのならば、私は孟徳様より先に死なない。この後宮で帰りを待ち、そして棺を見送るのだ。私の死が、僅かでも孟徳様の枷にならぬ様、私は誰かを残して死んだりしない。私は唯曹操の悲しみの捌け口となる事しか出来ないけれど、其れが私の誇りでもあるのだ。








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郭嘉への嫉妬と憧れと尊敬が入り混じった感じ。
郭嘉は本当は病死ですが、戦記のムービーが秀逸だったので戦記ベースにしました。

2004.08.12 viax