永遠に燻り続けるのだと思えた煙は、気づくとどこにも見えなくなっていた。
炎に燻られ、黒く染まった森の木々。倒された……というより粉砕された、村の柵。
家なんかも、見るからに強大な力を受けたとわかるように、無惨に瓦礫と化してしまった。
シンシアと一緒にいつも寝転がっていた花畑は毒沼になっていて、今はもう、入れない。
すべてが消えてしまった。
家も小川も花畑も。
父や母。大好きだったシンシア。優しかった村の人たち。
名も無き森の村。その日常。
ユイリにとって世界のすべてであった光景は、霧か霞かのようにあっさりと散り去り、姿を変えてしまった。
突如現れた魔物の群れは、ユイリがどんなに願っても超えられなかった村の柵をあっさりと乗り越えてしまった。
あまりにも突然の出来事で、何がなんだか、混乱してわからない。
みんな消えた。
消えてしまった。
遺体すら残らない、見事な消失。
ただいつもの花畑があった場所に、ぽっつりと取り残されたように羽根帽子だけが、落ちていた。
シンシアがいつも身に着けていた、特にお気に入りだった、あの帽子。
あんまり大切そうにしてるんで、昔、こっそり借りてかぶったりして。そしていつまでも返さなかったら、シンシア、すごく怒って、泣いてしまった。
初めて見た、シンシアの涙。
姉みたいに思っていたシンシアが、初めて妹みたいに思えた瞬間だった。
(シンシア……今もどこかで泣いているのかな?)
毒沼に入ると、ひどく気分が悪くなった。
一歩足を進めるだけで体に軋みが入り、ひどく息がし辛くなる。
まっすぐに、まっすぐに歩いて、帽子を拾った。
帽子についた泥や草の切れ端を、手で叩いて落とす。
……泥の汚れが広がってしまった。
一瞬泣きそうになって、それ以上に焦って、今やった失敗を無かったものにしようと、帽子の生地をこする。
そして後悔した。
確かに汚れは若干薄くなったように感じるが、結局の所その範囲を広げてしまっただけ。
起きたことは起きなかったことにはできない。
時間は決して元には戻らない。
確か、不可逆性って言うんだと――こんな時なのに、身に付いた、役にも立たない知識が浮かび上がってくる。
剣術とか魔法とか、一般知識とか旅知識とか。
村から出してくれなかった癖に、旅に必要な知識を詰め込む。
そんな矛盾に笑ったのは、遠い日常。
起きてしまったことは決してなかったことには、できない。
頭の中で、その言葉が明滅を繰り返している。
(信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じない!)
気を抜けばこの身ごと逃避へと連れ去ってしまいそうなほど強烈な現実否定の感情は――――
不可逆性。
覆水盆に返らず。
こぼれたミルクを嘆くな。
理性よりも冷たい、根源たる知識によって冷却され、動きを止められる。
「…………あたしは……今、冷静なのかな?」
言葉にして確認すれば、聞くものがどこにもいないという事実が、一層心に染みる。
取り戻そうとしても無理だと、わかっていた。
それでも取り戻そうと無茶をすれば、きっとこの帽子の泥の染みのように、被害は余計に広がってしまう。
涙はどうしてか流れなかった。
羽根帽子を胸に抱き、ずっとその場にたたずんでいた。
帽子にシンシアの温もりは、すでにない。
(行かなきゃ……)
――何処へ?
何をすればいいのか、わからない。
仇を討つなんて言葉は、頭に浮かびもしなかった。
それでも――
「ごめ「あ「天よ「エルフ?」り遣えし」な「いつし「こん「本当の「天空人」親ではない」な山奥に村があるな「吟遊詩「目つきの悪い」人です」んて……」か来る「先生、おは「本当の「この村が好き!」妹のように――」よう」べき運「天「おはよ「今日も元「いつまでも、こうして「あな「さようなら……」たの代わ「デスピサロ様!」りに」いられたらいいのにね」気ね」う」空の「モシャス!」竜の神」命の「旅人「魔「勇者ユイ「シンシア!」リをしと「ここに隠れていろ」めました!」法の才能が……」が……」時のため」たは勇「お父さん「メラッ!」にお弁「釣りが趣「勇者を!」味で」当を持って」者なの」んね……」
心の地平に、ばらばらに砕かれ、そして、敷き詰められた、言の葉たち。
記憶が言葉の固まりとなって押し寄せてくる。
一つ一つの言葉が何を意味しているかなんて、今はとてもじゃないけれど、追い切れない。
いくつもの言葉。
いくつもの願い。
地下倉庫の中、恐怖に囚われて動けなかった訳じゃ、ない。
隠れていろなんて言われて、ただ素直に、すべてが終わるまでじっと待っていた。
その理由は自分でもわからない。
『いつまでも、こうしていられたらいいのにね』
その日のシンシアの言葉は、来るべき別れの予感。
どうして気づかなかったのか?
この日がいつか必ず来るのだと、まるで予定されていたかのような伏線の言葉。
どうして?
なぜすぐにでも倉庫を飛び出し、助けようとしなかったのだろう?
みんな、あんなに優しかったのに。
ごめんなさいなんて言葉は、簡単に口にはできなかった。
知らされたこと。
知らされなかったこと。
信念。
希望。
破壊。
今でも、何もわからない。
わからずに、形作られない言葉だけが、脳裏に渦巻いている。
渦巻き続けている。
それでも、わかること。
村の人たちは。
父や母。
剣や魔法の師匠たち。
そして、ずっとユイリの傍にいてくれた、大好きだったシンシア。
みんなの願いは、ただユイリが生き延びるためだけに。
ユイリだけが、生きるために。
勇者が、勇者という存在が、力をつけ、いずれの日にか、世界を救うことを、信じて。
ただそれだけのために村を作り、育てて、そして命と引き替えにしてまで、助けてくれた。
勇者。
……勇者。
…………勇者って?
それが何を意味する言葉なのか、ユイリにはわからない。
勇者だと呼ばれ、魔族の脅威から世界を救う者とされ。
誰が決めたのか?
どうやって決めたのか?
わからない。
わからないことだらけだけれども。
彼らはそれを信じ、そのために育て、命を落とし……
この村は、ただ勇者を魔物から隠し、守り育てるためだけに存在したのだと――それだけは痛いほど理解できたから。
ユイリという名のこの自分を、勇者として完成させるためだけに存在したのだから。
ならば、それによって救われた自分もまた、それに殉ずるべきだろう。
それ以外に彼らの、みんなの、シンシアの霊を慰める術は、きっとない。
みんなのことが大好きだったのならば、みんなと同じ場所に立っていたいのならば、自分も、それを信じなければならない。
だから、いつまでも泣いてないで?
不意に誰かの声が聞こえたような気がして、天に目を向けた。
泣いてなんかいない。
涙は出ていない。
それを知らしめようと、天を睨んだ。
しかし、空には白い雲が一つ、ぽっかりと浮かんでいるだけで、鳥すらも飛んでいない。
何処までも高く、抜けるような蒼い空。
蒼穹――
「……日が落ちる前に、どこかの町に行かないと」
ユイリはぽつりとつぶやいて。
今は毒の沼地となった、花畑に背を向けた。
しばらく戻らないよ……
みんなが望んだ、勇者になるまでは。
勇者になったと、確信が持てるまでは――
勇者として生き、勇者として死のう。
いつか、この森の村に帰って。
だからそれまで。
おやすみ、シンシア。
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