道無き森の中を歩いていた。
閉鎖的な村ではあったが、外の世界と全く交流がなかったわけではない。
だけれども、一歩外へと足を踏み出してみればすぐに道は消えた。
そう頻繁に通っていた道ではなかったのだろう。ユイリの記憶でも、村の外と行き来していたのは宿屋のカーティスさんだけだった。
ならば、あれだけの大量のモンスターたちは、一体どこからやってきたのだろうか?
ふと疑問に思った。
村を襲ったモンスター群。
少なくとも十数匹。
あれだけの数が押し寄せてきたのだ。
整備した道はないかもしれないが、何か通過した跡でもないとおかしいと思ったのだ。
けれども、見る限りこの森には道は見当たらない。獣道のような物も、ユイリの目にはわからない。ただ単に、ユイリにそれを見つける能力がないだけなのかもしれないが。
忽然と、不意に、どこからともなく、まるで魔法のように、あの魔物たちは現れたように思えてならないのだった。
そして去っていった魔物たち。
村に破壊の痕跡だけを残して。
そして、何処へどのようにしてどうやって去っていったのか?
その跡すらもどこにも見えない。
探せない。捜せない。追うことができない。
父の、母の、村人たちの……。
シンシアの、仇を追うことができない。
冷静に考えれば、今追ったとしても返り討ちに合うに決まっているとわかる。
捜すことができないのは、逆に自分に与えられた猶予だろう。
魔王を倒す。
魔王を捜す。
その旅路。
やがて至る、その先に。
魔王と出会う、その時までに。
村人たちの願った、予言の勇者になれば、良いのだろう。
それがきっと正しく、また希望に近い。
理屈では、それが正しいのだ。
けれども気持ちは、今にも――
今にも?
今にも、どうするというのだろう?
森の中はすぐに暗くなる。
道無き道。
身の丈ほどもある草を掻き分けて歩く。
ちっとも進んでいる気分になれず、ただ体力だけが消耗する。
天井は覆い茂った葉に遮られ、光は遮断され、辺りはすでに暗い。
今日中に麓の街まで出るのは無理かもしれない。
そう思ったその時、ユイリは野営の道具を何一つ持たず、村を出てきてしまったことに気付いた。
どうしよう?
今更村へと戻るにしても、道はもうわからない。たどり着く前に陽は完全に落ち、立ち往生してしまうだろう。
それ以上に、村には戻りたくなかった。
戻らない、と決意した。
だがそれは、逃避の気持ちも多分に含まれていたのだろうと思った。
両親と、優しい村人たち、そしてシンシアの死んだ、あの村の、現実から。
諦めてユイリは、大きな木の根本に腰を下ろした。
仕方がない。
これ以上進むも戻るも、どちらにせよ遅い。
これまで一度も村から出たことのないユイリには、麓の街の位置はおおよそ判っても、その距離感を実感としてつかむことはできなかった。どれくらい歩けばどれくらい進めるのか? 自分には、どれくらいの距離を進む能力が在るのか?
腰を下ろすと、急に体が鉛になったかのような酷い倦怠感に包まれた。
思っていた以上に自分でも疲れていたようだ。
「はぁ……」
溜め息を吐き、一瞬目を閉じると、くらりと目眩が起こり、そのまま眠りに落ちそうになる。
額を押さえて頬を叩く。
こんな所で眠っちゃだめだ。どこか、安全な所まで行くまでは。
と、その時、空気のざわめきを感じた。
風の動きではない、生物の作る雑多なざわめき。
何か来る。
緊張で、一気に眠気が引いた。
モンスターだろうか。魔族が戻ってきたのだろうか。
やがて森の奥から、暖かな緋色の明かりと話し声が聞こえてくる。
「……本当にこっちで間違いないんだろうな?」
「ああ、煙が立っていた」
「……暗いわ。もう帰りましょうよ。モンスターが出たらどうするのよ」
「馬鹿かっ! もし、火が出てきて山火事なんかになったらどうするんだ! ふもとの町もやばいんだぞ!」
「そうだ。無駄かもしれないがな。山火事は完全に初期消火しなくては、被害はとんでもないことになる。ボクたちで、なんとかするんだ」
人の声だった。
ランタンの明かりの奥に、三人の人影がシルエットとなって見える。人影とはまだだいぶ距離があったが、音の少ない森の中、その話声はユイリの耳にもはっきりと聞き取れた。
ほっと息をつくと同時に、ユイリは茂みの奥へ座り込む。
がさりと、小さな音を立ててしまった。
その瞬間、逆に緊張の声を上げたのは三人組の方だった。
「何の音だっ!」
一人が大きく声をあげて剣を前に構える。
もう一人は無言で、腰に下げた剣の柄を取っていた。
「えっ? ええっ? 何? ま、魔物?」
最期の一人は、二人の背後であからさまに狼狽していた。意味もなく左右を見回し、杖をぐるぐると振り回している。
「……落ち着け」
「ええ? えっ、で、でも……」
仲間の声にも落ち着く様子はない。けれども少しずつ時間が経過していき、何も起こらないとわかると、ゆっくりと動きは小さくなり、口からも声は漏れなくなった。やがて森に静寂が戻ると、一人の男は剣を背中に戻し、一人の男は剣の柄から手を離した。
草をかき分け森への進攻が再開される。
三人の姿が消え、草を掻く音が消えるのを待って、ようやくユイリは立ちあがった。
ほうっと息を吐く。
きっとあの三人組は森の奥で煙が上がっているのを見て、山火事を警戒して見に来たのだろう。
煙。
それは勿論、ユイリの村の、燃える煙だろう。
そこまで考えた時にユイリはふと、困惑に固まった。
なぜ、隠れてしまったのだ?
せっかく、人間と会えたのに。
隠れる理由など、何もなかったのに。
けれども、息を吐き、緊張に強張った体に気づくと、いやでも理由に思い当たる。
怖かったのだ。
初めて目にする、村人以外の人間たち。
知識では知っていた。けれども一度も目にしたことがなかった。
とっさに隠れてしまったのは、何をすればいいのかわからなかったからだ。
心の準備が全くできていなかったのだ。
「あはっ……、はっ、あはははっ」
乾いた笑い声が口から洩れる。
魔物も怖い。
村人たちを殺した魔物は、憎いけれども、それ以上に怖い。
そして、同じようにユイリには人間たちも、恐ろしかった。
知らないということは、何をするのかわからないということだ。
ついこの前までは。
昨日までは。
村が滅びるまでは。
恐怖よりも、きっと興味を含んだ好奇心の方が勝っていただろうけれども。
今はそれもなく、ただ怖い。
人を、生き物を、知ることが怖い。
村の惨状を目にした。
魔物と呼ばれる、生き物が起こしたことだと、知った。
知らない生き物が、何を起こすのか。
他者に、どれほどひどいことをするのかを、知った。
くらりとめまいがして崩れ落ちそうになる体を、とっさに木にしがみ付くことで支えた。
空を見上げれば暗く、あたりの様子はまるでわからない。
夜になってしまった。
暗くなる前にふもとへと出る。
その目論見は失敗に終わってしまった。
村からふもとまでどれくらいあるか、知識としては知っていたけれども実感としては知らなかった。
だからこれは、現実を甘く見ていたユイリの失策だろう。
どうするか。
このままここで、闇に隠れて夜を過ごすか?
危険な気もする。
気温はそれほど低くなく、なんとか野宿にも耐えられそうではあったけれども。
「寒いよ……シンシア……」
ユイリはただ震える自分を抱きしめる。
独りでは、温もりはどこへも伝わらない。
重たい体を引きずるように、ユイリは歩き始めた。
目の前を、ただひたすらかき分けて、前へと進む。
三人の男たちが掻き分けてきた道を進めば、やがて麓へと、人里へとたどり着くだろう。
そう思うことが、唯一の希望のように感じられた。
辺りは相変わらず暗い。
自分が前に進んでいるのか、後ろに下がっているのか、ただ同じところを回っているだけなのか。
感覚もだんだんと麻痺してくる。
折れた小枝が腕や腹に突き刺さってくる。
小さな石に躓き、とうとうユイリはバランスを崩して倒れてしまった。
「くっ……うぅっ」
このまま立ち上がれなくなるかのような、深い絶望を感じた。
辺りが暗いと、心まで黒く染まっていくかのように思えた。
光が、光がほしかった。
手をのばして、体に力を入れて、顔を持ち上げた。
遠く、闇の中に小さく、一つ明かりが見えた。
はっとして、一気に体を起こす。
何の光か、わからない。
星ではない。あんなに低い所に、星はない。
さっきの三人組かとも思った。けれども、光は動いていない。
慎重に足を進めた。
光が近付くにつれ、胸の鼓動が大きくなっていった。
ぼんやりと、簡素な木造の小屋が見えてきた。
小屋の中からほんのりと明かりが漏れて見える。
小屋の前は幾分か開けているようだった。木の切り株がいくつも見えて、ここが自然に開けたのではなく、人の手によって開けたことが見て取れた。小屋のそばには大量の薪や木材が山となって積まれていた。
重たい体を引きずるように、ユイリは一歩一歩小屋へと近づいて行った。
何も考えることなど、できなかった。
ただ、明りに魅かれる蛾のように、まっすぐに体を進ませていた。
やがて扉の前に立ち、ユイリは小さく拳を握って。
――戸を叩いた。
二回。
より一層深い静寂が森の中を包んだ。
ずいぶんと長い間、辺りは無音だった。
そう感じられたが、本当は一瞬だったのだろう。
やがて森のように深い声が、小屋の中から響いてきた。
「―─誰だ?」
ユイリは何か言おうと口を開き、しかし喉から言葉は出ずに、飲み込まれる。
「なんだ? 物の怪の類か? ふんっ。ここには何もないぞ? それでも来るというのならば、わしの斧の錆にしてくれるわっ!」
小さく床を踏み鳴らす音が聞こえた。
このままではまずいと、言い知れぬ焦燥に駆られ、ユイリは口を開いた。
「──ぁっ……」
けれども、声は出なかった。
しかし何かの気配を感じたのか、急に小屋の中から感じられる気配は小さくなった。
慎重に、扉が開かれる。
そこに立っていたのは、厳つい顔をした、初老の男だった。巨大な斧を片手に握り締め、品定めをするようにユイリを見下ろしていた。
ともすれば殺気まで含まれそうなほど強い視線だった。
けれどもなぜかユイリの体の中に先ほどまであった恐怖の存在は、いつの間にか消えていて、微塵も感じられなかった。
むしろ、それどころか、どこか懐かしいような、とてもとても暖かいモノが自分の中に宿っていることに気づいた。
急に変化した自らの感情に、ユイリ自身ひどく戸惑った。
困惑したまま、心細い視線を男に向けた。
人と出会うことに恐怖する少女と、人と触れ合うことに恐怖した男が、出会った。
それは偶然か、それとも運命の導きによるものか。
その答えを持つ者は、ここにはいなかった。
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