秋桜 5
2004.10.23
その日を境に、大和は学校も休んだまま、楓の元へ帰って来なくなってしまった。
楓が久しぶりに大和の家を訪れると、共働きで普段はあまりいない、大和の母が玄関先で楓を出迎えた。
「あらーr……楓ちゃん久しぶりじゃない、大和のお見舞い? 」
本当にどこか具合が悪いのだろうか? 楓が曖昧に頷くと彼女は楽しそうに笑う。
「あの子が風邪ひくなんてねぇ。めずらしい事もあるもんよねぇ」
今までだって大和が風邪をひいた事くらいある。
そんな時でも自分の家には帰らずに、楓が看病していたのだから、やっぱり自分と顔を合わせたくないのだろうなと考えた。

「たまに帰ってきたと思えば、楓ちゃんに風邪を移したくないからだなんて言うのよ、まったく失礼しちゃうわよねぇ、私達なら移してもいいって言うのかしら」
口では迷惑そうにしているが、そう言った大和の母の顔は少しだけ嬉しそうだった。
もう高校生とはいえ、自分の一人息子と会えない生活はつまらないものなんだろう。
挨拶もそこそこに隣にある自分の家へ戻ると、一つため息をついてグラスに水を注いだ。

これまで大和の周りにある色々な事を犠牲にして楓は彼を独占してきた。
自分が生きていくには大和が必要だったら……。
それを認めるのが嫌で何人も他の男を抱いた。
真っ直ぐに楓に向けられていた大和の愛情さえ鬱陶しく思えた。

大和には大切にしてくれる人が沢山いる。
いつまでも経っても一人で生きていけない楓のそばに置いておく訳にはいけない。
それは充分に分かっているつもりだった。
だからこそ楓は自分の中の消化しきれない感情を欲望の捌け口なんだと誤魔化してきた。
そうやって自分を誤魔化して大和を裏切ったくせに、今、大和を失いつつある現実が想像以上に楓を苦しめていた。

母を亡くした時から、涙が零れそうな時はいつも空を見上げるようにしていた。
滲んだ空を見ていると心の中にあった嫌な塊が溶けて無くなるような気がして、いつのまにか悲しい時には上を見上げる事が癖になっていた。
切れかかっている台所の蛍光灯がチカチカと目を刺し、手に持ったままのグラスが滑り落ちて音を立てる。
砕け散ったガラスを拾うと、刺すような痛みと共に赤い血がポタポタと床に落ちていく。
何もかもが自分を拒絶しているような気分になり、楓はその場にうずくまる。

こんな事で負けてはいけない。
たとえ大和がいなくなっても。
このまま一人きりになっても。
俺は生きていかなければいけない……。

ぐっと力を入れて、切れかかった蛍光灯を睨みつけると鼻の奥がツンと痛んだ。



楓の家のドアを閉めた大和は重い足を引きずり、誰もいない家に帰った。
びしょ濡れになったまま久しぶりに入る自分の部屋で膝を抱え何時間も座ったまま自問自答を繰り返す。
ずっと一緒にいたはずのに、楓はどんどん遠くなって、大和が必死に追いかけても次の瞬間には全く別の場所にいってしまう。
手を触れても、唇が重なっても、一つになっても。
あの頃のように楓が笑ってくれれば、それで良かったはずなのに。
その時に一緒にいる相手が自分で無い事がこんなにも辛いだなんて……。
窓の外が暗くなる頃には頭がガンガンと痛みだし、何も考えられなくなっていた。

その日の夜、熱で身体中が痛み唸っていると、部屋を覗いた母が驚いて声を上げた。
高熱に軋む身体中の痛みを掻き分けながらも、浅い眠りにつくと無邪気に笑うあの頃の夢を何度も見た。
あの頃の楓は少しはにかんだように、よく笑う少年だった。
そのまま大和の夢の中で、どんどん成長していく楓の笑顔は、泣いているような、何かを我慢しているような、大和がすっかり見慣れてしまったそんな笑顔だった。

俺は楓を……。

虚ろな夢の中で答えを掴みかけるが、それはあまりに脆く、すぐに指の間をすり抜けていく。
そんな状態で3日が過ぎ、やっと起き上がれるようになると、また現実が重く身体中に纏わり付いていった。
答えが出せないまま、一週間も学校を休んだ。

一週間ぶりに鏡を見ると、不精髭がまだらに生えた自分の顔がなんだか別の男の顔に見える。
久しぶりに風呂に入り、身体に纏わり付いた重い空気も洗い流すようにゴシゴシと身体を擦った。
楓を避けるように早めに家を出ると、すっかり冷たくなった空気が頬を刺す。
朝日が随分眩しく感じ、目を細めながら玄関を出ると、朝日に照らされた楓が塀によりかかり、ポケットに手を突っ込んだまま、「よぉ。」と無表情に言った。

それから一言も言葉を交わさずに二人が並んで歩いた。
楓が時々鼻をすすりながら何かを言いかけるが、口を開いては白い息を吐き出すだけだった。
「風邪……引いたの……? 」
妙な緊張が漂う中、大和がやっとで口を開くと、楓の表情がふと緩んだ。
「それはお前だろ、もう大丈夫なのか? 」
「ああ……。」
それで会話が止まってしまい、また気まずい空気が流れた。
戸惑う大和など気にせずに、楓は上を向いて空を見ながら歩いている。


「かえ……」
「もう、終わりにしような」
「っ………」
大和の言葉を遮り、楓が早口にそう言った。
覚悟はしていたけれど急過ぎる別れの言葉に大和はその場に立ち尽くす。
「アイツと付き合うの? 」
「違う、俺は一人で平気だから」

楓が何を言っているのか分からず、逆光に照らされた顔からは表情すら読み取れない。
ただ、別れる事実は変わらなかったとしても、楓の出した結論だけは止めなければいけない気がした。
「一人でって……お前……」
大和の言葉を無視したまま楓は言葉を続ける。
「大和、一つだけ約束してくれ」
「……おい、楓、止めろよっ」
「大和。幸せになってくれ……絶対」
「楓っ! 」
「普通に大人になってさ……結婚して、子供もいて平凡でも……毎日安らぐようなさ……」
「なんだよ、それっ……かえ……。」
「約束してくれ……俺といたってお前は幸せになれない……」
もう、大和の声は楓に届かなかった。
力強く大和を見つめて腕を掴むと、何度も何度も約束してくれと繰り返す。
必死なその姿が痛々しくて大和は仕方なく頷く。
「……もう、わかったから、約束するから……」

「約束だぞ……」

そう言って振り向きもせず朝日を浴びて走り出す楓の後姿を、大和はただ立ち尽くしたまま見送る事しか出来なかった。
本当に終わってしまった……。
空っぽになった大和が見上げた空は、ただ青く冷めたように澄みきっていた。


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