秋桜 10
2005.04.15

まだ午後の授業が始まったばかりの学校を抜け出して、一時間くらい電車に揺られていると潮の香り共に覚えのある風景が目に飛び込んできた。
目を閉じて記憶を辿ると、まだ二人が子供の頃に家族ぐるみで遊びに来ていた海水浴場の映像が浮かび上がった。
はっとして楓を見ると、今頃気付いたのか言っているように片方の眉を吊り上げて呆れた表情を作っている。
楓の憎たらしい演出で澱んでいた心がすっと晴れていき、車両の中の視線が自分達に向いていない事を確認すると得意げに大和を見詰める楓の頬に唇を寄せた。



季節外れで人も疎らな砂浜をフラフラと歩いていると、波打ち際で雑種らしき子犬がフリスビーをかじって遊んでいる。
辺りを見渡すが飼主はいないようで、波に攫われそうなフリスビーに必死にじゃれついている子犬の姿に大和の心はまた一つ軽くなった。

「あれ、やろうぜ」
楓は一目散に子犬に向かって走り出すと真っ赤なフリスビーを取り上げて、足元に絡みつく子犬の頭を撫でた。

「どっちが早く取れるか競争しろよ」
子犬と大和、交互に目線を送り確認すると、楓は勢い良くフリスビーを放つ。
青く冷めた空に向かって吸いこまれるように回転していくそれを、大和は子犬と一緒に夢中になって追いかける。
大和が投げ返したフリスビーを楓はあちこちに投げて一人と一匹を振り回した。

「おい、だらしないぞ陸上部っ!」
何度も振りまわされて息が上がった大和を見て小犬に負けそうだと楓が遠くから兆発する。

「仕方ねぇだろ……病み上がりなんだからっ……」
大和が肩を弾ませながら汗を拭うと、子犬も疲れてきたのか楓の足元で舌を出して座っていた。
楓は小犬を抱き上げてキスをすると「無理すんなよ」と言いながらも、またフリスビーを力強く投げる。

「チキショーっ!」
誰に向けた訳でも無い叫び声を上げながら、大和は何も考えずに楓の投げた先へ向かって全力疾走をした。



遊び疲れた二人が寝転がって空を眺めていると、遠くから「リスキー」と叫ぶ声が聞こえてきた。
それが彼の名前だったのか、子犬は耳をピンと立てて反応すると一目散に声の方へと駆けて行く。

「飼主いたんだ……」
腕をすり抜けて駆けていった子犬を見送りながら、楓は少し寂しそうに鼻の頭を掻いた。
男は子犬を抱き上げ、二人に向かって手招きをしている。
子犬は嬉しそうに男のジーンズに爪を立てている。 悪い人では無さそうだ。

「ごめん、本当に楽しそうに遊んでたから勝手に撮らせてもらった」
二人が近付くと男は突然、首から下げた一眼レフカメラを持ち上げて「まずかったかなぁ……」と不安そうな表情を見せた。
きょとんと顔を見合わせた二人に男は慌てて怪しいものでは無いと名刺を差し出した。
彼から受け取った名刺には『写真家 松田 繁之』と印刷されている。
二人が尊敬の眼差しを向けると松田は写真家とは名ばかりで、現在はカメラマンを目指しているただの大学生だと顔の前で手をヒラヒラと振って笑う。

お礼にと言って松田が差し出した熱い缶コーヒーを飲みながら日が暮れるまで話し込んだ。
風呂の無いアパートでリスキーと二人暮らし、周りも貧乏学生ばかりだが気楽なもので、それぞれが自由に暮らしている生活……。
松田は「いつか世界中を回って生きた人間の一瞬の表情を写したいんだ」と語った。
今の現実で精一杯の二人には、将来の目的地に向かって走っている松田は眩しく見える。

「タイトルは親友……んー……いまいちか……」
二人があまり夢中になって聞いているので、彼は照れながら話題を二人の写真のタイトルをどうしようかと逸らした。

「いや俺達、恋人同士なんです」

「だからか……いや、本当にいい顔してたから」
珍しく初対面でも打ち解けた大和がふと口を滑らせると、謎が解けたと言わんばかりに松田は目を輝かせる。
柔らかく笑った表情には好奇心も嫌悪感の欠片も見当たらない。

「驚かないんですか……? 俺達、男同士なのに……」

「や、別に珍しくも無いだろ? 」
自分で言い出しておいて急に不安になった大和が今更ながら訊ねると、松田は逆に二人に向かって不思議そうに訊ねた。
彼は写真を撮る為に色々な人と知り合いになる。
当然、二人のように男同士で恋愛をしている人にも出会う事があり、初めは少し驚いたが話しをすれば人間同士、何も変らないものだと気付いたんだと言った。

大和の心がまた一つ軽くなった。
彼のような人間の方が珍しいのだろうが、閉ざされていた世界が急に開いていくような感覚に震える。
松田にとっては当たり前に二人と接しただけでも、それだけで随分と救われた気がした。


写真が出来たら送るからと住所を交換して松田と別れた二人は、帰る前に少しだけ手を繋いで砂浜を歩いた。
夕日に照らされて燃えるように赤くなったこの一瞬を胸に刻みつける。
楓の体温を確かめるように大和が指を絡ませると、楓は力強く大和の手を握り返した。



後日送られてきた写真には、あの頃のように少しはにかんで笑う楓の姿が写し出されていた。
視線の先にいるのはフリスビーを追いかけて全力疾走している大和が居る。
楓は照れてこんなのは自分じゃないと不貞腐れたが、大和にとっては大切な宝物の一つになった。

翌日、散らかしたままの写真を片付けようと、押入れの奥に隠してある箱を取り出した。
楓に貰ったものや、大切にしたい物を仕舞っている箱の中には大和の想いでが沢山詰まっている。
箱の中を整理していると小学生の頃に書いた作文まで入っていて、懐かしさから片付けを中断して古くなった原稿用紙を眺めた。


かえでが笑うと 僕もうれしい きもちになります。
かえでがいないと 僕はかなしい きもちになります。
いつも いっしょに あそんでくれて ありがとう。
僕は かえでが 大好きです。
ずっと ずっと かえでと友達でいたいです。


「俺って成長してねぇな……」
幼い頃から何も変っていない自分に呆れて原稿用紙を戻そうと折りたたんだ時に、用紙の裏に何か文字が書いてあるのが透けて見えた。
何だろうと裏返すと少し癖のある楓の文字が真新しいインクで書かれている。


大和と一緒にいると 僕も嬉しい気持になります。
大和がいないと 僕も悲しい気持になります。
僕を好きになってくれて ありがとう。
僕も大和が大好きです。
ずっと ずっと 大和と一緒にいたいです。

言葉では上手く言えないから、今の気持をここに書いておきます。
いつか君がこれを見つけた時、その時も君の傍にいれますように。



「……っ……かえで…………」


楓が笑わなくなって以来、どんなに辛くても楓の代わりに笑っていようと決めていた。
いつも傍で自分が笑っていれば、いつか楓にも笑顔が戻るのでは無いかと願いを込めて。
しかし、真っ直ぐな楓の言葉が心の中に広がると胸の奥にずっと閉じ込めていた涙が溢れ、零れた涙は手にしていた紙の上に真っ直ぐに落ちて滲んだ。

「そんくらい……ちゃんと言えよ馬鹿……」
楓の不器用な告白に涙を拭いながら笑う。
もうすぐ帰ってくる楓にどんな顔を見せればいいのか……。
そんな事を考えているだけで大和の瞳にまた涙が滲んだ。



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