幸福論
2005.03.12
幸福なんてものは、多くを望まなければそこら中に溢れているものだ。
例えば新しいシーツの冷たい感触だとか、道端に咲いている小さな花だとか。
足元を見失わなければ、それなりに充実した生活を送る事が出来る。

結婚して五年、今年で三十になるが子供はいない。
ひとつ年上の妻は仕事に忙しく、週末にかけて出張する事も多かった。
多少の寂しさはあったが、お互いを尊重して生活する為には仕方が無い。
そして、一人で過ごす週末をいつからか楽しみに感じていたのも事実だった。



この日も一人っきりの週末を楽しむ為に、コンビニで酒の肴やスポーツ新聞を買って帰宅すると、重そうなビールケースを軽々と担いだ修二が玄関のベルを押そうとしていた。
彼は近くの酒屋の三代目で高校を卒業して暫くフリーターをしていたが、去年の暮れから家業を継ぐ為に本格的に修行を始めたらしい。
「あれ? 今日配達頼んでたっけ? 」
不安そうにドアの前に佇んでいる修二は僕の姿を確認すると、途端にほっとした表情に変わって肩に担いだビールケースを下した。
いくら仕事と言えど、エレベーターの無いマンションだから重い荷物を背負って五階まで階段を上るのはしんどいだろう。

「一昨日、奥さんから電話ありましたよ。週末くらいにビールが切れるから届けてくれって」
僕の帰りが遅れていたら、修二は重い荷物を抱えてもう一往復しなければならない。
しかし、今まで何度も空振りにあっているが彼の口調からは非難めいた印象は無く、むしろ大変ですねと同情的ですらある。

「あぁ、ごめん。ウチのヤツ昨日になって急に出張になったとかでバタバタしてたから」
僕は申し訳無さそうな顔で慌てて鍵を取り出した。 ドアを押さえて修二が入るのを確認すると、彼の邪魔にならないように後ろからついていって灯りを点ける。
玄関の灯りが点くと、修二はビールケースをよいしょと担ぎ直してキッチンまで運び、僕が冷えたミネラルウォーターを冷蔵庫から差し出すと、彼は清涼飲料水のコマーシャルのようにゴクゴクと喉を鳴らしてペットボトルを空にした。
「奥さん、またお仕事ですか?」
勝手知ったるなんとやらで、修二は一息ついて腰を下すとタバコに火を点けた。

「ああ、困ったもんだ。自分でした注文忘れるほど忙しいらしい」
決して妻と上手くいっていない訳では無いのに、吐き捨てるように皮肉を言ってしまうのは僕の悪い癖だ。
こうした僕の発言を修二は照れ隠しだと受け取ったようで、笑いながら脇腹を突いて冷やかすような言葉を並べる。
「仕事終わったら久しぶりに飲みに来るか?」
僕はといえば、そんな修二の態度を面白く無さそうに軽く流して、話題を逸らそうと「最近遊んで無かっただろ」と彼を誘った。
「ああ、今日ってナイターやってるんですよね、仕事終わったら速攻で行きますよ」
修二は僕をからかう笑顔のままで「やばい、もうすぐナイター始まっちゃうよ」と、慌てて部屋を後にした。



修二と言葉を交わすようになったのは、近くで見つけた小さな居酒屋がきっかけだった。
偶然入った居酒屋でどうも見覚えのある顔の客がいると妻と二人で頭を悩ませていたら、彼の方から挨拶に来てくれてその正体は判明した。
最初は全く気付かなかったが「時々ウチの店で買ってくれてますよね」と不安そうに彼が言った所で、「ああ、近所の酒屋さんの息子さんだったね」と妻と同時に声を上げた。
テレビ番組のクイズに正解した時のような昂揚感で、その日はそのまま彼と一緒に盛り上がった。

その時から配達を頼むようになり、知り合った居酒屋で時々は一緒に呑むようになった。
最近では、わざわざ外で呑むのも面倒になって、修二を家に招く事もある。
こちらが誘っているので遠慮する必要は無いのだけれど、気を使って修二が持ってくる酒やつまみはさすが酒屋の息子だけあって絶品だ。これが結構楽しみだったりもする。

ナイターがある日は、ビールを飲みながらテレビで野球観戦に熱中し、点が入る度に大声を上げて一喜一憂する。
これが結構ストレス解消になるのだが、この姿を見た妻は子供みたいねと笑う。
妻がいない日は誰に遠慮する事も無く試合に熱中できるのだが、勝っても負けても一人ではどうしても物足りない。

「んー帰るの面倒臭せぇ…今日、泊めて貰っていいっすか?」
今日はお互い共通だった贔屓のチームが勝った事もあって、いつもより飲み過ぎてしまったようだ。
一時の興奮を共有するだけで、より距離が近くなったと感じるのは僕が単純な所為なのだろうか。
それでも、学生のように大声で騒いだのは久しぶりで、このまま一人で寝られる気分でも無い。
僕は修二の言葉に大袈裟に喜んでグラスに残ったビールを一気に飲み干した。

仕事が終わってそのままで来た修二を風呂に入らせている間、どうにも落着かずに意味も無くシーツを交換した。
風呂場からシャワーの音が聞こえてくると、耳の奥でうるさいくらいに心臓の音が鳴り響いて酔いを覚ます為に冷蔵庫から冷たいミネラルウォーターを取り出し、一口飲んで溜息をついた。






「結構、筋肉付いてきたな」
まだ飲み足りないのか、風呂上りのビールを口にしながら修二はTシャツの裾をバタバタと扇いで湿気を逃がしている。
「そりゃ、毎日ビールケースやら十キロの米とか担いでますから」
修二は自信に満ちた笑顔を向けると、日々の仕事で鍛えられた身体を強調するようにポーズを取った。
出会った頃は線の細いイメージがあったが、僕が普段着ている大きめのTシャツから見える腕は随分と逞しくなっている。

「俺なんか毎日デスクワークですっかり運動不足だよ。最近なんてチョット腹が出てきてさぁ」
若い修二と比べると、いくらか崩れてきている自分の身体を嘆きながら腹を撫でる。
「ホントだ。ヤバイっすよ、篠田さん。腹掴めるよ。」
修二はゲラゲラと笑い声を上げて僕の腹を掴んだが、顔が近付いて視線が重なると急に怯えたように顔を背けた。
もう何度こんなやりとりがあっただろう。
ふざけた延長で修二が身体に触れて、何かに気付いたように呼吸が止まり一瞬にして気まずい空気に変わる。

「ちゃんと運動しないとあっと言う間に中年太りっすよ」
視線をそらした修二の顔が赤いのは、まだ酔いが冷めていないからなのか、それとも別の理由があるのだろうか。
「そろそろ寝るか」
僕はそれ以上何も言えず、重くなった空気を変えるようにわざと明るい声で修二の頭を小突いた。






「篠田さんは愛妻家だから浮気とか出来ないでしょ」

「ん? そうでもねぇよ。ウチの奥さん仕事ばっかで最近ご無沙汰だしなぁ 」
ウチには客用の布団が無く、修二が泊まれば当然妻と寝ているベッドで二人並んで寝る事になる。
不思議と眠たくならずに、僕達はベッドの入ってからも取留めの無い話を続けていた。


「今、修二と寝てるのだって浮気みたいなもんだし」
探り合うような会話の中で、僕は思いきって今まで隠し続けていた気持を冗談まじりで打ち明ける。
「何でそんな事言うんですか……」
冗談とも本気ともつかない突然の告白に修二の表情が一気に曇る。 修二の呼吸まで聞こえる距離で僕は少し大胆になっていたのかもしれない。
しかし、修二は少し困ったように眉を寄せると、僕のパジャマの裾をぐっと掴んで引っ張った。

「何でだろうな……」


この時の気持を僕は自分でも上手く説明出来そうに無い。
ただ目の前にいる少し寂しそうな顔をした修二が堪らなく愛とおしくて、気が付いたら抱き締めていた。
唇を重ねても修二は抵抗せずに僕を受け入れた。
言葉も無くお互いの体温を分け合い、肌を摺り寄せながら必死になって応えようとしている修二の服を剥ぎ取った。
僕は修二の中に入りたくて、ひとりでする時に使っていた潤滑油を彼の入口に塗る。
経験があるのだろうか、修二はあまり痛がらずに僕を飲み込み溜息を漏らした。
僕の方はと言えば、それほど経験がある訳でもなく、単調な動きで修二の中を突きながら簡単に果ててしまった。
何とか修二を満足させてやりたくて、不器用ながら回復するまで愛撫を続け、その夜はお互いが空っぽになるまで言葉も無く抱き合った。




翌朝、心地よい身体の重さで夢から覚めると、既に起きていた修二と目が合った。
「あー……やっちゃったな……」
すぐ目の前に近付いた修二の顔を見ていると、つい何時間前の出来事が生々しく蘇り、奪うように唇を重ねて抱き締める。
ゴツゴツとした肩や、絡めた足に生えた脛毛のくすぐったさも気持悪くは無かった。

「心配しなくてもいいですよ、妻帯者に本気になったりしないから」
唇が離れると修二は半身を起こし、けだるそうに髪をかき上げる。

「ま、気が向いたらまた性欲処理にでも使って下さいよ」
修二が無理をしているのか、それとも自嘲気味に吐き出した台詞こそが本音なのかは分らない。
ただ分っているのは僕がこの瞬間も修二を抱き締めていたいという事だけだった。
僕は彼の気持を確かめたくて彼の柔らかい髪にもう一度手を伸ばした。




幸福なんてものは、多くを望まなければそこら中に溢れているものだ。
ビールを飲みながらする野球観戦だとか、休日の朝の二度寝だとか。
それを誰かと共有する事でどれだけ多くの幸福を与えられるかを僕は今、思い知らされている。
失う事さえ恐れなけらば手に入る幸福もあるという事を。
ありふれた日常の先にある幸せを超えた肌の温もりや恋をする気持ち。 それが今なら手を伸ばせば届きそうな気がする。
僕は禁断の果実を口にしてしまったアダムの気持を少しだけ解ったような気がして、その味を確かめるように何度も修二の唇を求め続けた。


Top Index Next

===
タイトルは多少野暮ったい感じかなと思いつつ、今回は苦労をせずに一気に書きました。
一応不倫ものって事になるんでしょうが、自分の中ではポップさを意識したので、
今までと違った感じに仕上がったように思ったりしてます。
いや、自己満足は重々承知の上ですが、そんな感じです。