知らない人 P1



大学の図書館で勉強している時に、突然携帯電話が震えた。
恭平はノートに書いていたペンを止めて、携帯電話の入っている自分のトートバッグを見た。

一瞬何の音だかわからなかった。
その頃はまだ携帯電話を持ったばかりで、メールも電話もほとんど使っていなかったから。
だが同時に購入した良平や聡平の方がよっぽど上手く使いこなしていたのを見ると、どうやら持ち主にも問題があるようだ。

図書館内の人にちらりちらりと視線を向けられているような気がして、恭平は慌てて鞄の中を探った。
着信は、叔父の孝介からであった。

恭平は携帯電話を握り、席を立った。
「恭?どこ行くの?」
「ちょっと、電話。荷物見てて。」
隣に座っていた、髪の長い女に軽く手を挙げて、恭平は電話のできるテラスまで出た。
彼女とは今、付き合って三ヶ月。
少し気が強いところがあるが、意外と泣き虫で、とてもいい子だと思う。

恭平は携帯電話の画面をしばらく見つめて、意を決したように通話ボタンを押した。
「もしもし叔父さん?」
『おお、恭平くん。今、大丈夫かな。授業中?』
「いいえ。今日はもう終わりましたよ。」
『それはよかった。今から少し、付き合って欲しいのだけど。』
「…え?どこか行くんですか?」
『うん。実は照子の妹さんに二人目の赤ちゃんが生まれたらしくてね。お祝いのプレゼントでも買おうかと思っているんだが、どれがいいのか決めかねているから手伝ってほしいんだ。』
照子とは孝介の妻の名だ。
恭平は受話器を握りなおした。

よかった。
どこかほっとして、恭平は前髪をかきあげた。
「そういうことですか。いいですよ、今から帰ります。」

『実はもう君の大学まで車で来ているんだ。』
「えっ?」
『西門の方に停めてあるから。用意ができたら来てくれる?』
恭平はあまりの手際のよさに驚いた。
こちらが断らないことを見透かしている。

十分後と言い残し電話を切った恭平は、急いでテラスから荷物の置いてある席へと戻った。
待っていた彼女…美咲へ事情を説明しながら、机に広がった勉強道具を片付ける。

「だって…恭平、この課題どうするの?明後日までだよ?」
「今日帰ってからするよ。まだ余裕あるし。」
「そんなこと言って。明日は夕飯を一緒に食べる約束があるんだからね。キャンセルしないでよ!」
「わかってるよ。じゃあ、また明日。」
「…うん。」
恭平は少し口を尖らせた美咲の頭をポンポンと撫でて、いそいそと図書館を出て行った。

急ぎ足で西門へと向かうと、坂を下ったところに叔父の愛車が見えた。
運転席から出て大学の敷地を眺めていた孝介は、恭平の姿を捉えると愛想のいい笑顔で手を振ってきた。
「悪かったね。大丈夫かい。」
「平気ですよ。それよりも照子叔母さんの妹さん。おめでとうございます。」
「今度写真を見せてあげよう。かわいいが…猿みたいだぞ。」
孝介は愉快そうに言って、恭平を助手席へと招き入れた。


叔父は自分に子供がいないせいか、親戚の甥や姪にはとても親切に世話をしてくれる。
誕生日や入学、卒業のお祝いは忘れずにしてくれるし、電話をすれば飛んででもすぐに来てくれる。
そういう優しい叔父のことは恭平も好きであったし、頼りにしていた。
誰よりも信頼できる、父親のような存在。

あの瞬間がなければ、孝介の存在は恭平の中でかけがえのないものになっていただろう。
あの時、恭平は孝介の中にある、知られざる闇を見た。


恭平と孝介の二人は2時間ほどかけて新しく生まれてきた赤ん坊のために買い物をした。
孝介がいいと言うので、ついでに良平たちにもお菓子や文具類を購入した。
片足の不自由な恭平のために重い荷物は進んで持ってくれるし、話もしやすい。
いつも冷静沈着でどちらかというと無愛想な孝平と違いすぎる、と思うほど孝介は優しかった。


日が傾きかけた頃、二人はやっと帰途についた。
駐車場で荷物をトランクに詰め、恭平は自分から助手席に乗り込んだ。
続いて運転席に乗り込んだ孝介に、恭平は笑顔を向けた。
「これで喜んでもらえますね。俺の経験が役に立ってよかった。」
「はは。そうだな。俺も恭平くんに相談してよかったよ。」
孝介は笑い返して肩にシートベルトを回した。

キーを回してエンジンをつけ…

それからふと、つけたばかりのエンジンを切った。
「叔父さん?」
不思議そうに振り向いた恭平は、真剣な顔をしてこちらを見てくる孝介の瞳と目が合った。

あ…

恭平は静かに息を止めた。
孝介が口を開く。
「恭平くん。君は明日もこういう時間は取れるかい?」
「え…?いいえ。取れません。」
恭平は口早に即答し、胸にかかったシートベルトを握り締めた。
「授業?」
「いいえ。友達と夕飯を一緒に食べる約束があります。」
「そう。」

孝介の口調は穏やかだった。
それだけに、じわじわと嫌な予感がする。
おもむろに、孝介は自分のシートベルトを外した。
「そうか…明日も一緒にいたかったんだけど。それなら仕方がないな。」
「叔父さん?」

恭平が眉をしかめるより早く、孝介の手が助手席の脇へ伸びた。
ガクンッと衝撃が走り、シートが後ろへと倒れる。

バランスを失った恭平はシートと共に背中から落ちた。
握っていたシートベルトが手から離れ、気がつけば、孝介の体が真上にあった。


++
前++
+表紙+