知らない人 P6
「美咲の言うとおり、知らない人であればと思うよ。そうなら…もう二度と会わなくて済むもんな。」
恭平は美咲との別れ際に、ぽつりと呟いた。
涙を拭いた美咲が振り向く。
「私が文句言ってきてあげようか?どこの誰だか知らないけど。」
「はは。やめとけよ、どうせお前また泣くよ。」
「そっ!…そんなことない…」
痛い点を突かれて恭平の方を向くと、彼はふわりと微笑んでいた。
その笑顔にドキリとして口を噤む。
今日初めて見た気がする。
ほっとしたような笑顔。
「今日、美咲に会えてよかった。少し元気が出たよ。」
「本当?」
「うん。付き合ってくれてありがとう。俺、忘れないから。」
「…。」
美咲は黙った。
これは二度目の別れの言葉だろうか。
恭平の顔からはそれを伺うことはできなかった。
美咲はまた涙が出るかと思ったが、不思議と流れてはこなかった。
沈み込んでいた彼の苦悩を少しでも助けることができたのなら、それだけで救われる。
「うん。私も忘れない。」
「ありがとう。じゃあ。」
恭平は美咲が家の中へと入るのを見届けてから、一人駅の方向へと踵を返した。
自分から別れを告げておいて今から会いたいなんて、自分でも都合のよすぎることだと思う。
それなのに飛んできてくれた美咲は優しい。
彼女を失ってまで守らなければいけなかったものはなんなのか、恭平にはわからない。
せめて、孝介が強引にではなく、彼の都合だけではなく、他の兄弟に対して優しくなく、そして叔父ではなければ………
孝介は恭平の父親の弟であるから、切っても切れない関係。
恭平は自分が孝平の子供だという繋がりだけは失いたくなかった。
それゆえ一生、孝介とも他人にはなれないだろう。
いつかこの苦しみが終わる日が来るのだろうか。
恭平がどんなに怯え、拒んでも、彼は必ずまた現れるだろう。
知らない人にはなれないのだから。
恭平は出口の見えない迷路のような場所で、あるともわからない救いの手をひたすらに待つしかなかった。
それから数年後の、冬。
出口のないかと思われた場所に、突然ほのかな光が射した。
予想もしなかった光だった。
信じられないほど眩しくて、孝介ですら立ち向かえない相手だった。
まさか、あの人が、助けてくれるとは思っていなかったから。
家族に対して関心のないあの人が、息子の自分を守ってくれるとは思っていなかったから。
あれ以来、孝介が恭平に触れてくることはまったくなかった。
「父さん。」
「…うん?なんだい。」
孝平はリビングで新聞を読んでいる。
最近休日を家で過ごすことが増え、恭平はそれだけでも嬉しかった。
一緒に過ごせる時間が一秒でも長いほうがいい。
「今日は仕事ないの?」
「昨日片付けてきた。今日は何もないよ。」
「そう。じゃあ俺、今日は夕飯頑張っちゃおうかな。何が食べたい?」
「そうだな…カレーライス。」
「そんなのでいいの?」
「…ではオムライス。」
「ライスばっかり。」
「…それじゃ、スパゲティ。」
孝平はついに新聞から顔を上げて苦笑した。
「なんだい。なんでもいいよ。お前の料理の腕は確かだから。」
「そういうことじゃないよ!父さんの食べたいものを聞いてるんだ。父さんの食べたいものを作るから。」
「だから…」
孝平が何かを言いかけたとき、突然電話が鳴り響いた。
すぐに恭平がぱっと顔を上げて受話器の方へ駆けてゆく。
孝平はやっと解放されたとため息をつき、新聞へと視線を戻した。
「もしもし!あ、はい。え…あの…。いいえ。」
恭平の声の様子が変わったのに気づき、ちらりと目だけで恭平の背を見た。
少し震えているような気もする。
孝平は時計を見上げて、それからバサっと勢いよく新聞を閉じた。
立ち上がって大またで恭平の方へ近付き、その受話器を奪い取る。
「もしもし。」
『えっ?あれ?……兄さん。』
受話器の向こうにいるのは弟の孝介だった。
肩越しに恭平のことを見やると、彼は怯えるように黙った。
その額に軽くデコピンをして、孝平は受話器を握り直した。
「どうした?俺に用か?」
『ううん。兄さんいないと思ってたから大丈夫かなと思って電話しただけ。本当だよ。』
「…。」
孝介も孝介で怯えているかのような口調で言う。
孝平はなんだか複雑な気分だった。
「孝介。今日の夕飯はカレーライスだよ。照子さんも連れて、うちにおいで。」
孝平の言葉に恭平がはっと顔を上げた。
受話器の向こうでも孝介が絶句している。
「まあ暇だったらでいいんだが。もちろん、お前が照子さんの仕事を手伝っていて来れない、という事態ならそちらを優先しなさい。」
言いながら孝平は、意味ありげに微笑んで恭平に目配せをした。
今晩の夕飯はカレーライス。
恭平は腰のあたりで拳をぎゅっと強く握った。
孝平は二言三言言葉を交わし、電話を切って受話器を下ろした。
「恭平。今日の夕飯は…」
「カレーライス。本当に食べたかったんだね。」
恭平は微笑んだ。
今日は孝介叔父さんがやってくる。
でも…父さんがいれば、怖くなんてない。
強がりでもなんでもなく、不思議とそう強く信じることができた。
「大丈夫。」
ポンと肩に置かれた孝平の手が、とても暖かく感じた。
もしもう一度だけ我侭が許されるのならば、今夜美咲に電話をかけよう。
一番の救いは孝平だったとしても、こうなるまでの恭平を支えていたのは、まぎれもなく彼女の言葉と心からの涙だったから。