知らない人 P5
美咲はすぐに濡れた髪を結わいて服を着、財布と携帯電話だけを持って家を飛び出した。
自転車にまたがり、立ちこぎをする。
夜の23時をゆうに過ぎていることなど気にならなかった。
突然の別れから数週間。
今なら少しでも、恭平の心の中を覗けるかもしれない。
真っ暗な公園の入口に恭平は立っていた。
荷物も何も持たず、表情を殺して夜空を見上げている。
美咲は自転車を減速させて、そっと恭平に近寄った。
タイヤの回る音に恭平が振り向き、目が合った。
風が吹いて、彼は美咲の方へと体を向ける。
「美咲。ごめん…こんな時間に。」
「いいって。それよりどうしたの…?ひどい声よ。」
心配そうに美咲が尋ねる。
恭平は悲しい顔をして押し黙った。
何かに耐えるようなその表情は、美咲には今にも泣き出しそうに見えた。
「恭平。大丈夫?」
美咲は自転車を壁に添わせて止め、恭平に近付いた。
「何があったのか、話してくれなくてもいいからね。」
美咲は恭平を見上げたまま、恐る恐るその手に触れた。
暖かい手をぎゅっと握り締める。
すると恭平も、弱くだけれどしっかりと握り返してきた。
「美咲…ごめん。」
「いいんだってば。」
「しばらく一緒にいてもらっても、いい?」
「いいよ。座ろ。」
美咲は恭平の手を引いて、公園内に入った。
ずっと繋いでいた手の温度差がなくなった頃、ずっと黙り込んでいた恭平が口を開いた。
目線を地面に向けたまま、ぽつりと言う。
「美咲はさ。知り合いになった人で…嫌いな人はいる?」
「嫌いな人?」
「うん。苦手な人とか…」
「いるよ。結構好き嫌い激しいよ、私。」
美咲は苦笑して方を竦めた。
恭平も地面から目を離して少し笑ったような気がした。
「優しくないとだめだし、人の気持ちわからない人も嫌。自分勝手もパス。」
「自分勝手…」
「そう。自己中っていうの?そりゃあたしも自己中心的ではあるけれど、少なくとも相手の気持ちは考えて生きてるわ。嫌なのは考えもしない自己中な人かな。」
「そうなんだ…。じゃあもし、その相手の気持ちを考えられない自己中の人が、優しい人だったら?」
美咲はしばらく顔をしかめて悩んだ。
そんな自己中の人の中に、優しいと感じられる人がいるのだろうか。
自分のことしか考えない人に、他人へ優しくしなければならない道理がどこにある?
「…そんな人には会ったことがないわ。」
「もしいたとしたら。嫌いになる?」
「嫌いに…?そんなこと…わからない。少なくとも好きになるかどうかは微妙かも。」
美咲は返答に困り、曖昧に言った。
恭平の真意がわからない。
何が聞き出したいのだろう。
誰かを嫌いになったのだろうか。
美咲は恭平の横顔を食い入るように見つめてみたが、その横顔からは悲しみしか見て取れなかった。
「私が思うのは。」
「…うん。」
「自分勝手な人には優しいなと感じないし、優しい人から自己中だなとは感じない。でも…もし、そういう人が恭平の回りにいると言うのなら。」
「…。」
「それは知らない人だわ。知らなくてもいい人。相手の気持ちのわからない人が、他人に優しくすることなんてできないと思うわ。」
「でも…優しいんだ…。」
「それは…嘘よ。そんなのただのご機嫌取りよ。嫌われたくないだけ。街頭のキャッチセールスと同じ。」
「そうなのかな…。」
美咲が一生懸命に伝えても、恭平は落ち込んだまま元気がない。
彼をここまで意気消沈させたのはどこの誰なのだろうと、美咲は心が苦しくなった。
その顔を拝めないのがとても悔しい。
美咲はつい強くなってしまった口調を弱めて、続けた。
「それかただ単に、恭平とは相性が合わない人なのかもしれないわ。その人の優しさが、恭平には合わないだけで。」
「いや…。そうかな。わからない。」
恭平の声は今にも消えてしまいそうだった。
自分の言葉は彼の心にちゃんと届いているのだろうか、美咲にはわからなかった。
握った手に力がない。
恭平も、美咲の言葉が自分の頭に入ってきているのかわからなかった。
美咲が必死にフォローしてくれているのが手にとるようにわかるので、いっそのこと叔父のことを全て話してしまおうかと思った。
彼女なら、笑わずに真剣に聞いてくれるかもしれない…。
恭平が黙っていると、隣で美咲が。
「恭平…。ごめんね。」
「えっ?」
彼女は、ポロポロと涙を零していた。
恭平が慌てて美咲の顔を覗きこむ。
「どうしたの美咲。泣くなよ。」
「ごめ…っ。なんか、私全然恭平の力になれなくて…っ。」
必死に落ち着こうと思っても、溢れ出した感情は簡単には治まらなかった。
「そんなことないよ。全然ない。」
恭平の困ったような顔がさらに苦しさを誘う。
「でも…っ恭平辛そうだから。私にはわからないくらい、辛そうだから…っ。わかってあげられなくてごめん…っ。」
美咲は涙を隠すように蹲って膝を抱えた。
なんとなく恭平にフラれた理由がわかった気がした。
自分では本当の彼を支えて守ってあげることができない気がする。
何故だかはっきりとはわからないが、なんとなく思い知った気がするのだ。
「美咲。美咲。泣かないで。お前は悪くないよ。」
「…っく。」
「俺が甘えてるから。美咲は悪くないんだよ。」
「そやって…いつも自分のせいに…っ。」
「だって美咲は悪くないから。わけのわからないことを言ってごめんね。美咲。」
「わぁぁあん!」
美咲は息急き切ったように泣き出した。
恭平の優しさがこんなにも身に染みる。
こんな彼を落ち込ませるほど傷つけた相手がどうしようもなく憎い。