明美 P5



今にも眠気に負けそうなほど疲れた体を引きずってリビングへ戻ると、明美がテレビを見ながら教科書を机に広げていた。
聡平の姿はない。
風呂場から、水音がしていた。

「聡平は?」
「お風呂行ったよ。」
明美はテレビから目を離して、恭平のほうを向いた。
「食器は洗った?」
「あ、忘れてた。まだやってないわ。」
明美が急いで立ち上がろうとしたので、恭平は腕を振ってそれを止めた。
「いいよ。俺がやる。」
「でも…。」
「勉強。どうせテレビのせいで進んでないんだろう。」
「う、うん。」
明美は図星をつかれて赤くなった。慌ててテレビの電源を切る。

恭平は流しの水道の蛇口を捻って水を出した。
冷ための水が、まだ少し火照った体に気持ちよかった。

「父さん、なんて言ってた?」
「え?」
「してたんでしょ、電話?」
「あ…ああ、うん。」
恭平は水を一旦止めて、スポンジに洗剤を吹き掛けた。

「お金のことは心配するなって。やってみるといいって言ってたよ。」
「ふーん。そっか。」
明美は幾分かほっとしたように笑った。

「あたしね、迷ったの。初めは就職しようと思ってたのよ。聡ちゃんみたいに頭よくないし…別に勉強好きじゃないし。でも、大学行ってる良ちゃんはいつも楽しそうでしょ。だから進学も考えた。」
「そうだね。」
恭平は食器を一個ずつスポンジで擦りながら、明美の話に相槌を打った。
「でも、やっぱりなんか違うって思ったのよ。あたしのしたいことはもっと別なところにあるって。」

明美は、手に持ったシャーペンを器用にくるくると回していた。
「清二は就職するらしいわ。今の時代高卒で何ができるのって感じだけど、勉強はからきしだしね。」
「そうなんだ。お前、前の彼氏は学校一の秀才じゃなかったか?」
「彼とはもうダイブ前に別れたわよ。だって勉強のできない清二を馬鹿にしたのよ?ありえないわ。勉強だけがすべてじゃないじゃない。仕事だけがすべてじゃないのと一緒よ。」
「でも、そのあとお前が清二くんを好きになるとは思わなかったな。」
「あたしだってタイプじゃなかったわよ。」
明美は噴き出すようにして声を出して笑った。

今までの明美は、優しくて年上のような男ばかりを好きになっていたし、そういう人としか付き合っていなかった。
清二は仮にもそんなタイプではないし、頭もよくない。
それでも、筋肉質でスポーツが好きそうで、頼りになりそうな感じだった。
恭平は授業参観の時にそれとなく観察しておいたのだ。

「見かけはこわいけど、根は優しい奴なのよ。」
「そうみたいだね。」
「兄さん。わかるの?」
「いや、勘だよ。話したことないし。」

「兄さんには、いい人いないの。」
「え?」
ドキリとした。
確かに、自分はもう二十四歳だ。
世の中には結婚している人もいるし、事実友人の何人かは既に子供までいたりする。
「会社とかさ。まあ父さんの会社だからあまりアテにはならないけど。」
「はは…。」

恭平は全ての食器を洗い終えたので、再び蛇口を捻って水を出した。
「ねえ、いないの?」
「さあ…。まあ、俺にはこの足があるしねぇ。」

片足の不自由な男なんて、お見合いでもきっとモテやしない。
恭平はそう言い聞かせては何もしてこなかった男だが、周りは意外とそうでもなかった。
困っている色男を見ると、女は母性本能で助けてあげたくなるのだ。
現に、今までに付き合ったことのある女性は、一人や二人ではなかった。

「兄さんはいつもそれね。」
明美は呆れたように溜息をついた。
「でも、兄さんとられちゃったら寂しいから、あたしは別に構わないんだけど。」

「…もう、そんなことはいいから、早く勉強しろ。宿題か?」
「そう…でもわかんない。聡ちゃんに聞く。」
そう言ったところで、玄関のほうで音がした。

「うえ〜〜。飲みすぎたぁ〜〜〜吐きそう!」

「あ、良平だ。」
恭平は蛇口の水を止めて、玄関へ駆けつけた。
入り口のところで死んだように倒れているのは、予想通り良平だった。

彼を支えるようにして、もう一人、玄関に男が立っていた。
「すいません、恭平さん…良平の奴、飲みすぎちゃって。」
彼を家まで連れてきたのはどうやらこの男のようだ。
彼の名前は杉野拓巳。
良平の高校の先輩で、恭平も何度か会ったことがある。

「いや、こちらこそ…。毎回すいません。こら、良平、起きて。」
「ん〜〜…もう少し…。」
「馬鹿、朝じゃない。」
恭平と明美は、呆れて物も言えない。
「えっと…杉野くん、だっけ。お茶でも飲んでいく?」
「いえ、いいです。あと二人くらい酔ってるのいるんで…。」
「あ…そっか。」
「はい。また改めて来ます。では。」
杉野は丁寧にお辞儀をして、玄関を出て行った。
残ったのは、ばったりと倒れたままグースカ眠る良平と、それを見下ろす兄妹二人。

「まったく…。明美、風呂から出たら聡平呼んできて。俺だけじゃ運べないから。」
「わかった。」
明美はバスルームの方に歩きながら、玄関のほうを振り返った。
恭平は自分の寝室から掛け布団を運んできて、倒れたままの良平に掛けてやっていた。

清二のいいところは、兄さんみたいに優しいところなのよ。
明美の理想の男性像の根底にあるのは、六歳も年の離れた恭平の存在なのであった。


++次
++
+表紙+